逃げてもいい。ていうかそうすべきだ。(後)
なすすべなくサトミが出て行くのを見送ったロクは無言のままフェイスタオルを取り出すと自分の手首にぎゅっと結びつけ、それからきょろきょろと室内を見回す。
「ロクさん?」
急に不可解な行動を始めたロクに思わず話しかける。
「気にしないでいいから、再生して副音声入れれば聞けるから」
そう言いながらタオルの反対端を壁に取り付けられたカーテンを止めておく留め具に力一杯結びつける。
「いやちょっと何してるんですか、それ?」
ぐっぐっ、と腕を曲げしっかりと結ばれていることを確かめると幾分安心したような顔を見せる。
「なんでもない」
(それが「なんでもない」わけないでしょ!?)
胸中で思いっきりつっこみながら、倫子は違和感を覚えていた。心の中でロクの言葉を反芻してその違和感の招待に気がつく、話し方だ。いかにもオタク、というか一世代前のわかりやすいオタク像を模倣しているような喋りが唐突にいたって普通の口調になっている。
「ロクさん、普通に喋れるんですね」
「な、なんのことでつか」
そんな露骨に「しまった」みたいな顔をして誤魔化せるわけが無いでしょ、と彼の挙動を見逃さないためにしっかりと観察していた倫子は半分飽きれてそう思う。
(てことはあの口調、わざとやってるんだよね……?)
異常なまでに倫子に怯え接近を避け、それでいて自分で自分を拘束し、あえて特徴的な喋り方を選ぶ。
「ねぇ、ロクさん」
倫子は座ったままじりりっとロクに近づき、彼が完全に逃げ腰になる一歩前で止まるとなるべく刺激しないように明るく、それでいて落ち着いて話しかける。
「なんでござるか」
手を思いっきり伸ばしてギリギリ届かない距離。これがロクと落ち着いて話せる近さの限界だった、とはいえ先週の初対面時と比べれば明らかに近づいているし物陰に隠れようとかこっちを見ようともしないといった態度を取らない分、いくらかは軟化していると言えるだろう。
「ロクさんは私が怖いんですか?」
その問いにぶんぶんと首を横に振る。
「じゃあ嫌い、とか?」
「ち、違う!」
「女の子が苦手、とか?」
「そういうワケでもなくて……」
言いよどむ姿に自分の聞いている内容が問題の芯を捉えていないことだけはわかる。
「気づかないうちに私なにかしちゃいました……?」
「それはない、断じてない」
「てことはロクさんに何か理由がある?」
そう問われてロクは申し訳無さそうに、それでいてはっきりとうなづいた。
(私はアキネイターか)
YesNoでしか答えない相手に対し徐々に質問の幅を狭めて実体を探る行為は、まるで有名人の名前当てゲームのアレのようだった。ただ当たり前のことだが倫子はプログラムではない。こういった迂遠な方法はどうしたって心を苛立たせる。
「私はアキネイターか」
結局思うだけで留めておけず苛立ちを口に出してしまう。それを聞いてロクは申し訳なさそうに目を伏せる。
「申し訳ない……」
「すいません……でもロクさん、どうしてそんな風か教えて欲しいです。その、私は初めて『リーン&バイン』を一緒に見れる」
言葉を続けようとして倫子は言いよどむ、この表現が正しいかと言われれば違う気がするが、それでも少女の持ち合わせている語彙の中ではこう表現するしかなかった。
「一緒に見れる、友達?ができたと思っていて、だからそのええと、変な言い方ですけどそうやって逃げられると少し寂しいです」
年齢差もあるし、過剰に避けられてるし、はたして自分とロクとの関係を友達と呼ぶのが正解かはわからなかった。それでも倫子は人との関係をそう名付けるしか方法を知らなかった。疑問符つきのアクセントで口にしたことでその迷いが如実にあらわたように感じた。それでようやく、倫子は自分が何故それほどまでにロクの態度が気になるのかを理解する。
(私は寂しいんだ)
たかがアニメ番組と言われればそれまでだが、少女にとって『魔法聖戦士 リーン&バイン』は幼い頃の暖かく大切な時代と切り離せないものである。そのことを誰とも話せない誰とも分かち合えないことは、当たり前すぎていままで何とも思っていなかった。そういうものだろう、仕方が無いことなのだろう……いやそんな割り切るための言葉すら必要ないほど当然のように自分ひとりの胸の内にだけ留めておくものだった。
だから倫子にとって初めての経験だった。『リーン&バイン』のことを話し合えることが、分かり合えることが、一緒に見て泣くことが。ネットの中ではそういう人たちがいっぱいいた、それでもそういう人たちと実際に言葉を交わすことなど一生無い、決して現実には満たされることはないと思っていた。
それだけにロクの存在は倫子にとって嬉しかった、本当の友達になれるかもしれないと感じたのはたかだか10年と少ししか生きていないとはいえ唯一の相手だ。だからそのロクから避けられると、倫子にとってたった一人しか作れない友人を否定されたような気分にさせる。
「あっ……」
倫子の目からぽろり、と丸い水の球がこぼれた。さっきあれだけ泣いたのに水分を補給したからもう大丈夫だろう、とでも言いたげに涙腺の蓋が開く。ロクはスローモーションのように頬を滑るそれを「水信玄餅みたいなだな」と思って眺め、一瞬遅れてそれが涙だと気づいた。
「え、ええっ、え」
まさか倫子が泣き出すとは思っていなかったロクはかわいそうなぐらいうろたえる。
「ふぐっんんっ、ひぐっ」
倫子は目を固くつぶって唇を噛んで涙と泣き声を力ずくで押さえ込もうとする。自分の思い通りにならなかったといって泣くのは恥ずかしいことだと知っていた。子供が泣けば大体のことは何とかなってしまう、それだけにそういった行為は暴力に近いと思っていたし、それで他人をどうこうしようなんていうのは良くないことだと理解していた。
「ごご、ごめん、ごめんね」
「うぶぅなっ何でもぐひっ、何でもないですがらぁ」
無理矢理止めようとしたって止まらないのだからどうしようもない、いままでずっと自分が「寂しかった」のだと初めて気づいてしまったのだ。長い間押さえ込んでいたものが噴出した衝動が押さえれるはずもなく、倫子にできるのは「これとあなたは関係が無い」と言い張ることでこの無様な泣き顔を武器にしないという矜持を持ち続けることだけだった。
とはいえ、そんな倫子の気持ちとは別に自分と話している最中にその相手が号泣しはじめたら普通は自分のせいだと思うだろう、「何でもない」と言われて「そうかー何でもないのかー」と納得するバカなんていないし、それが10歳近く歳下の相手ならなおのことだ。
(なによりこの状況でサトミが帰って来たら絶対に誤解されるに決まっている)
「ただいまー」「うえーん」「なにがあったの!?」「何でもないです、えーん」「ロク!」「違う誤解だ話せばわかる」「貴様は信頼を裏切った、死すべし」きゅう、チーン。……割と精度の高い予想としてはこんな展開だ、別に自分が死ぬのはまぁ良いとして親友に誤解されたうえ殺人を犯させることと目の前の少女に殺害現場を目撃させて無用なトラウマを植えつけることは絶対に避けたかった。
(どうする?言うしか、言うしかないのか?)
どうせいつかはダメになることが決まっているのだ、それが多少早いか遅いかだけ。ロクは自分にそう言い聞かせるとすでにぴったりと背中を当てている壁を、部屋を力ずくで広げようとしているかと思えるほど更に強く体を押し付ける。
「ぼっ、僕はっ」
搾り出すような声に倫子は泣きじゃくる手を思わず止めてロクを見つめる。そのなにか悲愴な決意を湛えた顔に涙は引っ込む。
(自分のことで泣いてただけなのに……)
ただただ自分の中にあった寂しさに気づいてしまったことで泣き濡れていたことがロクに勘違いさせ、見るだけでその悲しさを後退させてしまうほどの切羽詰った表情にさせていることに倫子は後悔を覚える。しかしその後悔よりもロクがさっきまで知りたかった理由を告白しようとしている、それを聞きたいという好奇心のほうが大きかった。
(最低だ)
自分が他人の勘違いを利用して欲求を満たそうとしていることに、自分自身をそう評することしかできない。かといってロクの言葉を止める気は一切無かった、最低だとはわかっていながら知りたいという「楽しさ」を少女は優先させる。
「ロリコンなんですっ!」
部屋の壁に反射したロクの声がうわんうわんと反射する。
(……え?)
倫子は耳に飛び込んできた単語を脳内で咀嚼しようとして一瞬フリーズする。
「そのサトミには僕から言っておくから、その、逃げてもいい。ていうかそうすべきだ、頼む」
苦渋の顔になって震える指で玄関を指差すロクの姿に、ようやく倫子は自分が何を聞いてしまったのかを把握する。
「えっとロクさんは、ロリコン……女子高生とかが好きな人なんですか?」
脂汗をだらだらと額から垂らして絶望的とも言える様子で首を横に振る。
「じゃあそのアニメの女の子とか……?」
「それは好きだけど、そうじゃなくて」
真冬にセーターを脱いだ時のような静電気に似た感覚が倫子とロクの間で生まれて皮膚を走る。つまりそれは、と迂回してまで辿り着きたくなかった答えに少女は達し、それを察した彼は目を伏せる。
「その、たまに気をつけてくださいってメールが来るやつ……ですか?」
地域で何か不審者の通報があればその概要と場所、時間を記載した注意喚起が送られてくるサービスがある。倫子を一人で家に残さざる得ない父親は当然のごとくそのシステムを利用しているし、何かあれば必ず倫子には危険性を説いていた。だからそういう人間がいることは当然知っている、けれどもやはりそれは他人事だ。怖いなと思ってもそれは交通事故や殺人事件のような自分から遠い場所で起こる、得体の知れない恐ろしいものでしかなかった。
それが目の前にいる人物を示すことになるとは、まったく想像の外である。
倫子は思わず立ち上がり足の指を固いフローリングの床に立て、その気になればいつでも脱兎のごとく駆け出せるように身構える。その様子を目ざとく見つけたロクは鼻から息を吐く。それは自嘲のための笑いだった。
「ごめんね怖いよねうんじゃあねサトミにはちゃんと伝え」
「ちょ、ちょっと待ってください」
早口でまくしたてるように倫子が部屋から出て行くことを勧めるロクに思わず割り込む。
「なに?」
ぞっとするほど冷たい声だ。さっきまで怯えていたりオイオイ泣いたり困惑をあらわにしていたのと同じ人物とは思えないほどに。ほとんど痙攣しているのかと思うほどロクの目はきょろきょろと動き、吹きだした汗がぽとりぽとりと床に落ちていく。その姿を見て倫子は、改めて座布団の上に腰を下ろした。
「なんで!?」
すぐにでも去っていくだろうと思っていたロクは驚愕の声を上げてしまう。
「わからないんです」
倫子はぐっ、と顔を前に出しロクに近づける。その動きに対して露骨にビクつく彼の様子に首をひねる。
「だってそれならロクさんが私に怯える必要ないじゃないですか」
「それは……」
「ちゃんと教えて欲しいです。ロクさんと、お友達になりたい」
自分が寂しかったことに気づいてしまった倫子は、もう自分が元には戻れないことを理解していた。少なくとも納得しておきたかった、それが仕方の無いことなら「寂しい」を自覚して生きていくしかないことを覚悟はしている。それでもその覚悟を完全なものにするためには理由が、納得が、説明がどうしても必要だった。
「フヒヒッ、襲っちゃうでござるよ~」
ロクが薄ら笑いを浮かべ両手を前に出す何かを揉みしだくようにわきわきと動かす。その姿に倫子は大げさにタメ息をついてみせる。
「そういうのいいですから、わざとやってることくらいわかりますよ」
子供じゃないんだし、と言いかけて口をつぐむ。むしろロクは「子供だと思ってる」からそういった気持ち悪く不快な態度をあえて選んでいるのではないかと感じたからだ。
「すいません……」
上げた手を脱力して降ろし、可哀想なくらいしゅんと小さくなる。
「ロクさんは、その、小さい子が好き……ってことですよね?」
「はい……」
「それはえーっと、なんか変な聞き方ですけど、私みたいなってことなんです?」
「そうです……」
倫子がぱちんっと床を叩き、その音にロクは肩を跳ねさせて驚く。
「ひぃ!?」
「またアキネイターみたいになってる!」
「すいません……」
流石にこうも情けない様子を見せられると(本当に自分はこの人と友達になりたいのか?)という疑問が湧いてくる。それでもここまできたら真実を知りたいし、そこにある「大人に言うことを聞かせるまだ子供の私」という歪んだ構造に楽しみを見いだしてしまっている。そうなのかと問われれば倫子は否定するだろうが、そういった倒錯した欲望が少女の中に芽生えたことは事実ではあった。
「ロクさん、ちゃんとイチから説明してください。聞かせてください」
無自覚なまま生まれた支配欲によって倫子の言葉には有無を言わせない奇妙な迫力が宿っていた。それでも普通の大人ならそんなもの一笑に付すだけであったが、小児性愛を自覚しているロクにとって決して抗えない強制力が付加されているようなものだ。
「その……怖いんです」
「私が?」
ふるふると首を横にふるロクの姿はその巨体さえ気にしなければ幼い子供のようにも見えた。
「自分が罪を犯してしまうのが」
しまった、という顔をして慌てて言葉を続ける。
「もちろんしません!倉敷さんには指一本触れません、あっこれだと誤解されそうだな。ええと女の子には絶対に触れたりとか、とにかく何にもしません!それは約束しま……いや、それが約束できないから怖いんです」
そう言ったロクは頭を抱えてうなだれる。
「約束、できないんですか?」
危ないかもしれない、倫子だって「あなたに乱暴しないと約束できない」と言っているロリコンと二人っきりになっていることのヤバさは理解している。いますぐ立ち上がって玄関から飛び出し自分の家に帰って鍵とチェーンで扉を封鎖することが、一番正しい行為だということも。
だがそうするのは一番正しいとしても、倫子にはできなかった。うなだれたロクの食いしばった歯の間から漏れる苦悶の呻き声を聞いてしまっては、そのまま踵を返して立ち去ることがいくら正しいとしても「間違っている」ように思えた。ましてや自分から無理矢理させた吐露である、それをほっといて行けるほど倫子は「正しさ」に忠実にはなれなかった。
(きっとこうやって逃げる機会を失ったり、そういう責任感や優しさみたいなものにつけこまれたりしたのだろう)
ニュースや伝聞で知っているいくつかの事件はそうやって起こっているだろうことは、自分がその立場になったことで初めてわかった。決して被害を受けた子たちは愚かでも油断していたわけでもなく、どちらかというとしっかりした理知的な子だったのだろう。だからこそ逃げられなかったのだ。
いまのこの状況を俯瞰している心の中の自分が特大アラートを鳴らしている。すぐにその場から全力疾走で立ち去れ、少なくともサトミさんが戻って来るまでは何か理由をつけて一度退散しろ。
だがそうできなかった。しなかった。
(違う)
そうじゃない、そうじゃない。胸の中がそんな言葉で満ちていくのを感じる。
(したくない、だ)
好奇心だってもちろんある、無理矢理に聞きだしてしまった罪悪感もある、しょんぼりとうつむく姿に感じる憐憫だってある。でもそれだけじゃない、ここでロクの真意を聞かなければならない。それは他ならぬ自分のためにだ。なぜかはわからない、でも倫子は直感的にそう感じていた。あるいは「似ている」と、説明はできないけどこの苦しむロクの姿は自分に似ているように思えてならなかった。
「僕は倉敷氏を、いや、誰も傷つけたりしたくない……だから何もしない。でもそれは我慢しているだけなんだ、限界まで堪える、こうやって自分を縛り上げてでも僕は誰にも触らない」
小さく手首とカーテンフックを結ぶタオルを持ち上げて見せる。
「それでもそれはやっぱり我慢でしかないんだ、いつかなにかどこかでその我慢は決壊するかもしれない。そんなときが一生こないことを願ってる心の底から祈ってる。一生こないかもしれない、だけどもしかしたら今この瞬間、その崩壊が起きるかもしれない」
「そんな……そんなにギリギリなんですか?こうやってちゃんと距離をとって接してくれたりしてるし、いきなり我慢の限界が来るようには私からは見えないです」
ロクは片手を大きく上にあげる。何事かと一瞬だけ倫子は身構えてしまうが、振り上げたその手は弧を描いてでっぷりと太ったロクの腹に平手を叩き込む。
破裂した!?と思うほど派手な音を立てて手の平は腹部をぴったりと捉える、あの様子なら薄いTシャツの下には真っ赤な手形が出来ているに違いないだろう。
「ちゃんとできる人なら、こうはならないよ」
ロクの体がふるふると震えているのは叩いた衝撃の余波ではないだろうが、その様子はどうしても柔らかで弾力のあるゼリーやプリンを思い出させる。
(そういえばお母さんとゼリーの元を買ってきてカルピスゼリー作ろうとしたけど大失敗したなぁ……)
粉ゼラチンを混ぜて溶かして冷やすだけの行程でいったいどこに失敗する要因があったのか今となっては知りようも無いが、ひっくり返そうとした金属のカップから丸っきり液体のままのカルピスが床にぶちまけられた映像が昨日のことのようによみがえってくる。
「それは別の話ですよ」
そんなことを記憶から引っ張り出して思い出し笑いしそうになってる場合ではない、とぷるんぷるんと揺れるロクに話しかける。
「別の話かもしれないけど、同じ話かもしれない。少なくともリスクが上がってるのは間違いない」
(無茶苦茶な理屈だ……)
外に出れば交通事故に会うかもしれないから危ないとか、包丁で手を切ったことがあるからいつかナイフで刺されて死ぬとか、そういったレベルの話を聞かされていることを倫子は理解している。だがそれと同時に実体がどうであれロクがそう思い込んでいることも事実ではある。
「でもロクさん、そうやってずっと距離を取り続けて……それでどうするんですか?」
「どうもしない」
まるでその答えは最初から決まってるとばかりに間髪入れず返事をする。
「どうもしない、って……」
「ずっと逃げ続ける、それが一番みんなが幸せなんだ」
「違う」
考えるよりも先に倫子は否定の言葉を吐いていた。何がどう違っているのかすらわかっていない、それでも鋭く速く、確固たる意志をもって放たれた弾丸はロクをたじろがせた。
「な、なんで」
「なんでかはわかんないです!でもそれは違う、絶対に違います!」
ひどく悲しい気持ちになるのはなぜだろうか?ロクの「みんなが幸せ」という言葉を聞いた瞬間、言いようの無い荒涼とした景色の中に放り込まれたようになった。そんな気分にさせるような決意で「みんなが幸せ」になんてなるはずが無い、ほとんど反射ともいえる速度でそう感じたことが、否定の言葉を言わせたのだと倫子はゆっくりと自分の中に生まれた感情を解きほぐして理解していく。
「そんなのって、その、なんていうか……私はつらい気持ちになります。だからまずそれはみんなが幸せじゃないですよ、少なくとも私は……」
(そうじゃない、それは私じゃない)
ロクの言うことでつらい気持ちを覚えたのは本当だ。でもそれを理由にしてはならないと思った、それはただでさえ他人の幸福を願うロクにそれ以上の役目を背負わせることにしかならない。みんなの幸福を願った上で、誰かが感じるつらさにまで責任を取れだなんて言っていいはずがなかった。
「私は?」
言いよどむ倫子にロクは怪訝な顔を見せる。それに対してぶんぶんと音が出るほど首を横に振って見せる。
「私じゃなくて……そう、それじゃあみんなは幸せになんかなれないです。だってその「みんな」の中にロクさんがいないじゃないですかっ!」
自分の感じた違和感に正解を見つけた!といった様子でそう告げる倫子に、ロクは「そんなことは知っている」と悲しそうな顔を見せる。
「それでいいんだよ」
「良くないですよ!」
「いいんだ……僕はロリコンの変態で危険人物なんだ。幸せになる権利なんて無いんだ」
そんなバカなことがあってたまるかと倫子は激昂しそうになる。
「ロクさんはバカなんですか」
「僕が幸せになるには誰かを傷つけなくちゃならないんだ、だからこうするしかないだろ?」
きっとロクの中では何度も繰り返してきた言葉なのだろう。声を荒げることもなく、何かを言い聞かせるわけでもなく、ただただ「そういうものだ」と他人事のように説明をする。その姿はさっきまで怯えて逃げ惑っていた男と同一人物には見えなかった。
「寂しく……ないんですか?」
やっと一人の「話ができる相手」を見つけたことで、いままで自分は寂しかったんだ、寂しいということすら自覚できないほど当たり前のように寂しかった自分に気づいたことで、倫子はロクのいうことにどれだけの想いが織り込まれているのかを全てではないにしろその端っこくらいは理解することができた。
それだけにどうしてそんなさも当然かのように受け入れられるのかが不思議だった。いまこうして話していることの発端は倫子の寂しさであり、それを解消するためにワガママを繰り出してロクに口を割らせているのだ。そうまでしてこの寂しさをどうにかしたいと思ってしまった倫子にとって、ロクの態度は不可解を通り越して不気味ですらあった。
(私は酷い人間だ……)
嫌われようとした言動や、危険な趣向を持っていることではなく、それが許されないことだと諦めているその態度。倫子にとって耐え難いものであった「寂しい」を、当たり前の様に受け入れていることがロクの姿を宇宙人とかそういった類のもののように思わせた。何か根本的な精神のあり方が違う、自分とは遠く隔たった全然別の異様な生き物に見えてきてしまう。
「寂しいのには、慣れるから」
「そんなのっ」
(間違ってる)
だけどそれを声に出していうことはできなかった。倫子は自分を恥じていた。
(私に似ているだなんて、それはロクさんに対して失礼だ。そんなもんじゃない)
自分が寂しいことをようやく自覚した倫子は、ロクの中にそれと近い寂しさを感じ取り、だから直感的に自分と似ているのかもしれないと思った。だがそれは大間違いだった、寂しさからなんとしてでも逃れようとした倫子に対し、ロクはその寂しさを納得して受け入れた。それは近しい感情を持ち合わせていたとしてもまったく逆の行為であり、それは抱えている覚悟の量をあらわしていた。それに気づかず強引にロクの心情を聞き出した自分の行いに倫子は強い恥ずかしさを覚える。
(私は何もわかっていなかった……ロクさんのわざとらしい嫌われる演技を看破して調子に乗っていたんだ)
謝りたい、と思った。でも謝ったところでロクさんは嬉しくもなんともないだろう、一瞬困ったような顔をしてそれをすぐに隠して「いいよ」とか「ありがとう」とかきっと言うのだ。無理矢理そう言うのだ、言わせてしまうのだ。それは謝った風を装って、私が「許してもらった」という免罪符を得たいだけの行為なんだ。倫子は小さく深呼吸をする間にそう考えた。
(でもどうすれば)
どうもできなかった。自分は幸せになれないと、誰かを傷つけるくらいなら幸福を手離すと決めた人間になにをすればいいのか?答えは決まっていた。単純だった、明白だった、あまりにも事実として全てが横たわっていた。
倫子は下唇を前歯で噛む。
(それは……無理だ……)
この体を使えばきっとロクの苦しみを、苦しいのが当たり前すぎて常態と化した苦しみを少しの間だけ無くせるかもしれない。だけどそれが何の幸福になる?きっとそうしたら後でロクは自分が傷つけたものに苛まれることに
(違うっ)
他人が何を思ってどう感じるかなんて誰かが決めたり想像してはいけない。それは今さっき自分勝手に「似ている」と思ってしまった失敗と同じだ。母親の言っていた「勝手に想像して相手をわかったような気になってはいけない」という言葉を思い出す、お母さんの言っていたのはこういうことなのだ。
だから倫子ははっきりと自分にこう言い聞かせる。
(私がロクさんの「寂しい」のために何もできないのは、私が……私が嫌だからだ、私はそうしたくない。そうできない)
ロクさんは自分の思う正しさに従っている、それなら私も私の信じる正しさに従おう。それがどんな自分本位で利己的だったとしても、それを認めなれば全部ロクさんの幸福になれないという苦しみに押し付けるだけになってしまうからだ。ロクさんは苦しむ、それはロクさんの欲望の形が社会に認められないからだけじゃない、私がロクさんに身を任せたくないからだ。この苦い果実を「ふたりで分け合う」ことこそが、真摯に自分の欲望と向き合っているロクさんに対してできる唯一のことだ。倫子はその意志を湛えた目でまっすぐ床に座っているロクの顔を見つめた。
「えーっと早く帰ったほうがいいんじゃないかな……」
こんな話をすればすぐに出て行くものだと思っていたロクはそれでも留まり続け、それどころか自分を見つめてくる倫子の姿に今度は本当に恐怖を覚えていた。
「帰りません」
「いやでも、なんていうか……危ないよ?」
「そうだけどそうじゃないです」
ロクの顔に「何を言ってるんだこの子は」という困惑が露骨にあらわれる。
「小学生とロリコンの人が一緒にいるのは危ないです」
(だから早く出て行ってくんないかな……)
正直なところ欲望が暴走しないようにすればいいだけのところを、危険人物をアピールして距離を取る姿勢を演じ続けるのに疲れを覚えているのも事実だった。いっそのこと警察を呼ぶか防犯ブザーでも鳴らしてくれれば僕がこの家から飛び出して逃げれば済むのに、とすら考えはじめている。
「でもここにいるのは私とロクさんです」
「同じなのでは?」
口角を上げて倫子は自分なりの答えを告げる。
「違います。私はロクさんと友達です、友達と一緒にいて何が危ないんですか?」
ロクの顔が青ざめる。
「いやだからね、万が一間違いがあったらダメでしょ?」
「それはダメです、絶対に嫌です。でも友達を失くすのも同じくらい嫌です」
(君と会うのはこれで2回目だけどな)
それなりに齢を重ねてきたロクは当然「友達の定義」というものを考えたことが無いわけではない。ネット上の付き合いだけで実際にリアルで会ったことはないけど自分の中で「友達」というカテゴリーに入れている相手だって一人や二人じゃきかない。そういった意味では年齢差とか会った回数とか性別とかで友達と称することの賛否を問えないのは知っている。それにしてもここまで面と向かって友達宣言をされると流石におもはゆい。
ロクは顔の横を爪で掻く、ぬるりとした感触で自分がえらく粘度の高い汗を垂れ流していることに気がついた。
「それは僕に……我慢しろ、ってことかね?」
(友達、か)
改めて心の中で言葉にするとむず痒いような高揚が湧いてくる。それは思いのほか心地よく、なんとしてでも目の前の少女を追い出し安寧を取り戻すことしか考えていなかった自分がいかに張りつめた心持でいたかを知らせていた。この場を支配していた緊張はほぼ弛緩し、それはロクの心情が倫子を「友人」として扱うことに了解したことを意味していた。
「そうです。我慢してください」
倫子はにっこりと笑っていう。
誰も傷つかない方法を選ぶか、どちらも傷つく可能性を選ぶか。その二択で自分の半分くらいしか生きていない少女にリスクある選択を選ばれてしまった。それはロクにとって羨望に近い感情を抱かせる、可愛くて聡明な少女はそれと同時に敬意を払うべき友人であることをロクは胸に刻み付ける。
「我慢します……お」
返した笑顔が気持ち悪くなければいいな、とロクは思った。
続きます。(次 2019/10/19 20:00 公開予定です)