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小五観音  作者: すぱんくtheはにー
3/9

逃げてもいい。ていうかそうすべきだ。(前)

 倉敷武男は足を引きずるようにして狭いアパートの階段をゆっくりと昇る。深夜特有の粘り気のある空気が濃密にまとわりつく時間だ、そんなときはなおさらこのアパート階段がやけに響かせる足音が気になる。こんな夜中にあまり大きな音は立てられないとできる限りそろそろと足を進める。

 203とだけ掲げられたドアの前で鍵をポケットから取り出し、眠っているであろう娘が起きないように細心の注意を払って静かに開錠し少しだけドアを開くと滑り込むように入る。

「ただいまー……」

 囁くような声で帰宅を告げ、自分を出迎えてくれる小さな寝息に微笑む。服を脱いで適当に洗濯籠に放り込み、Tシャツとパンツだけの状態になって冷蔵庫から水出しの麦茶が入ったプラスチックのピッチャーを取り出そうとする。

「ん?」

 そこには付箋が一枚貼り付けられている。暗いなか帰ってくる父親が発見しやすいよう、大事なお知らせはこうやって冷蔵庫の中に貼るのが親子のルールだった。そこには「明日、話があります」という一文とともに怒った女の子の絵が添えられている。

(なんかやってしまったのか……)

 娘から向けられた怒りのメッセージだがこれといって思い当たるフシも無く、コップに注いだ冷たい麦茶を一気に飲み干して眉間に皺を寄せる。背の低いタンスに乗せた小さな仏壇、そこに飾られてる妻の写真を見つめた。

(哲子さん、難しいよ……)

「考えてもわかるはずないんだから、明日ちゃんと訊きなさいよ」

 いっつも言われていたお説教の声が聞こえた気がした。その通りだ倫子だって別に一人で怒っているわけじゃない、きちんと話をしてくれると言ってくれているのだ。そういう風に娘を教育してくれた妻に感謝を覚え、とにかく眠気と疲労で限界近い武男は折って重ねているだけの布団をひいて呻き声をあげながら体を横たえた。

「おやすみ、倫子」

 カーテンで仕切られた向こうでスヤスヤと眠っている娘に向かって小さく呟くと、あっという間に眠りに落ちていた。

「……さん、ごはん食べる?」

「なに……?」

 うっすらと目を開けたところに明るい陽の光が飛び込んできて、それを捉えた眼球の奥がちりちりと音を立てているようだ。

(もう朝か……)

 いまさっき寝たと思ったのにあっという間に起きる時間がくる。体感的にはまばたきを一回したかどうかというところだ、それでも頭からずるずると尾を引いて追い出されていく眠気が、確かに自分が深い眠りの中にいたことを証明している。

「おはよう……」

 布団に突っ伏したままウサギ柄のエプロンをひらひらとさせている娘を見る。

「ごはん、どうするの?」

「食べます……」

 両手をついて起き上がる、シーツと体の間に粘着物でも大量に付着しているのかと思えるほど布団から離れ難い。頭の中でベリベリベリと効果音を流して強引に立ち上がる。時計をちらりと見ると午前11時を少し過ぎたところ、いつも通りの時間だ。布団をたたみ洗面台で最低限の身支度をすると台所に向かう。

「ごはんよそって」

 みそ汁を椀に注いでいる倫子に命じられるまま武男を炊飯器を開く。昨晩から保温しっぱなしのお米を自分と娘の茶碗によそい、それと一緒に小さな茶碗にもよそうと仏壇の前に置いて手を合わせる。

「おはよう」

 それから二人分の茶碗を手にちゃぶ台に向かう。卓上にはおみそ汁に生卵、ラップが外された深皿にちくわとナスと玉ねぎを炒め煮にしたおかずがある。先に座っている倫子にごはんを手渡し、武男も自分の座布団に腰を落ち着けた。

「いただきまーす」

「いただきます」

 みそ汁をすする倫子を見ながらちくわを箸でつまんで口に運ぶ。

「これおいしいな」

「残ってるもの適当に煮ただけ」

 甘辛いちくわの味をごはんで中和させつつ、少しだけ棘を感じる倫子の言い方に「明日、話があります」というメモを思い出す。

(怒り心頭ってわけでもなさそうだ)

 少しホッとしながら生卵を直接ごはん茶碗の中に割り落とししょうゆを垂らす。

「その、話ってなんだ?」

 卵を混ぜながら武男は自分から話を切り出す。こういうとき向こうから言い出すのを待っていると知らない間に怒りが増幅してしまいがちなところは母娘そっくりで、哲子と倫子が間違いなく親子だということを武男は何度も痛い目にあって確信していた。

「お父さん、サッカー録画したでしょ」

「あっ」

 武男はそれだけで何を自分がしでかしたかに思い至った。

「もしかして途中から」

「そう」

 食い気味に倫子は肯定する。

「あー、そうかぁ申し訳ない。その、どっかで配信とかあるのか?」

 自分の娘が夢中になっているものを図らずも邪魔してしまったと知って武男は恐る恐る尋ねる。この年頃の女の子に対する機嫌の取り方なんて皆目見当もつかない、それは他人だろうが娘だろうがあまりかわらない。中年の男性からもっとも遠い場所にいるのが思春期の少女だ。

「もう見た。隣の家の人に見せてもらった」

 ツンっとした言葉に刺さるようなひりつきを感じながらも武男は少し安心する。

(そうか見れたのか、それなら最悪の事態は……隣?)

 近所付き合いをちゃんとしているワケではないが、両隣の住人ぐらいは把握しているつもりだった。確か202号室はアジア系の職業訓練生、204号室は若い大学生、どちらにしろ小学生の女の子がアニメを見るために家に上げてもらったという話を「なるほど、それは良かった」と流せるようなものではない。場合によっては真に「最悪の事態」すら起こりえる。

「ちょ、ちょっと待ちなさい倫子」

「来週もお邪魔させてもらうことになってるから」

 これで話は終わりだ、と言いたげに勢いよく立ち上がると冷蔵庫にお茶を取りに行こうとする。

「倫子、頼む。もうちょっと詳しい話を聞かせてくれ」

 面倒くさいなぁ、という表情を浮かべて立ち上がった倫子はそのまま逆再生のように座布団へと戻る。

「なに?」

「いや、なに?じゃなくてな、その、そもそも隣ってどっちなんだ」

 つっけんどんな態度にたじろぎつつも武男は何とか自分が安心できる材料を探そうとする。少なくともまったく秘密にできることをこうやって報告してきたのだ、なにか危険や後ろめたいことは「いまのところ」無いだろうとまでは予測できる。だがそれは同時に「いまのところ」でしかないことも。

「204、サトミさんっていうの」

「あの大学生か、体の大きい」

 何か格闘技でも本格的にやっていそうなガッシリとした筋肉を身につけた、頑強な若者の姿を思い出す。

(そんな子が倫子と同じアニメをねぇ……)

 趣味が多様化している時代だというのは知っているし、例えば毎年楽しみにしている駅伝でそういったアニメとかのファンだと公言する選手が増えているのも見ている。とはいえちょっと想像の外にあることだったこともあり武男は若干面食らう。

「そう、その人のおともだち?のロクちゃんて人に見せてもらった」

(ははあ、なるほど)

 武男は「おともだち?」という言い方と「ロク”ちゃん”」という呼称から状況を理解したような気になる。断片的な情報が提示された時に思い込みは勝手に物語を作り上げてしまう。

 明らかに緊張を緩めた父親の様子に、心の中で舌を出しながら倫子は努めて冷たい表情を見せる。

(騙してごめんね、お父さん)

 と心では謝りながら、父親の想像した「おともだち?のロク”ちゃん”」はどんな姿なのだろうかと考えると吹き出しそうになる。

「そうなのか、でも来週もっていうのは……」

「ロクちゃんが『リーン&バイン』のDVD一緒に見ない?って誘ってくれたの。ほらウチのプレイヤー壊れてるし……ダメ?」

 武男には負い目がある。倫子の楽しみにしていた録画を消してしまったし、哲子が死んでから寂しい思いをさせていることがずっと気になっている。何より年頃の娘とどう接していいかわからず、どこまで叱ったものやらどこまで管理下に置くべきか、悩んだあげく結局は倫子の意志を尊重すると言い訳しながら彼女の自由にさせることで問題を先送りしていた。

(しかしうちの子を預かってもらっていいのだろうか……)

 武男の懸念はすでに娘の心配から、相手へ迷惑をかけていないだろうか?というものに変化していた。

「これ、サトミさんの電話番号。お父さんに渡してもいいって言われた」

 倫子は折りたたんだルーズリーフを手渡す。それはほとんどダメ押しだった、少々年齢は離れているとはいえ子供同士の交流に親があまりしゃしゃり出ていくのも良くないし、相手はこうやって連絡手段を伝えてくるくらいの気は使えるまっとうな人物のようだ。

(僕の勘ぐりすぎだったか、それに「ロク”ちゃん”」という彼女らしい人も一緒なら心配はいらないだろう。倫子も10歳だ、年上の相談ができる女性の知り合いが必要になるかもしれない)

「あまり相手さんにご迷惑かけるんじゃないよ」

「わかった。お父さん、ありがとう」

 倫子の作戦通りロクさんのことを女だと勘違いしていることは、父親の急速に緩んだ警戒心からすぐに読み取れた。ちょっと怒ってつんつんしていた表情からの必殺の「お父さんありがとう」スマイルに切り替える。渋々承諾したような顔をしているが、娘の怒りが静まったこととカワイイ笑顔で明らかにホッとしているのが見て取れる。

(お父さんは本当にチョロいなぁ)

 自分でやっておいてなんだがあまりにも与しやすい父親が少しだけ心配になる。食事の手を止めて渡された番号をスマホに登録している姿を見ながら、倫子は母の写真にチラリと目をやった。

(お母さん、お父さんをちゃんと見張っていてね)

 そう小さくお祈りをするとごはんの続きを口に運んだ。

 それから一週間は特に何事もなく過ぎた。もうすぐ夏休みの迫るクラスメートは浮き足だってはいるものの5年生ともなれば夏休みに対する期待感も慣れたもので、部活に勤しむ者や中学受験のために夏期講習の予定で埋まっている者、あるいはこれといって予定もなく似たような仲間とどうやってこれからの長い時間を有効活用しようか悩む者と、それぞれのクラスタで分断されてはいるが夏休みを楽しみにしながらも、それが終わればすぐに2学期だという当たり前の事実に先回りしてうんざりしているのは変わらなかった。

 土曜日のお昼を少し回ったところで、倫子は204号室のドアチャイムを鳴らす。すぐに足音がして何の確認もなくドアが開かれてサトミが顔を覗かせる。いちいちのぞき穴から確認して、それでもチェーンをかけてから応対するのが常になっている倫子はこういった部分で屈強な成人男性と自分との違いを感じてしまう。

「いらっしゃい、ロクも来てるよ」

「あのこれ、お父さんから」

 どこかの洋菓子店で買ったと思われる焼き菓子の詰め合わせを渡す。

「あらー悪いねなんか。お父さんからは電話もらったよ……ていうか倫子ちゃん、ロクのことどう説明したの?」

 倫子を招きいれながら頂いたお菓子をさっそく開封し、お茶を注ぐ。

「嘘は言ってないですよ、「おともだち?のロクちゃん」って言っただけで」

 それを聞いてサトミは笑い声をあげる。自分の名前が倫子の口から、しかもちゃんづけで出たことで今日も部屋の隅に陣取ったロクは肩をビクリと震えさせた。

「ロクさん、ごめんなさい。迷惑でしたか?」

 その様子を見て倫子はロクの前にきて顔を覗き込むようにしゃがむ。じっとりと額に脂汗を浮かべ、ずりずりと後退するが元より部屋の隅にいたロクには逃げ場がなく、壁にぴったりと背中をつけて背を逸らす。

「せ、拙僧は構わんでござるよ」

 前回とは違う一人称を繰り出すロクに倫子は首をひねる。それにしてもこの異常ともいえる怯え方はなんなのだろうか。いい大人にとって子供が脅威になるとは思えないし、ここまで避けられることをした覚えもない。かといって嫌われているわけでもないように思える。

(やっぱり教えて欲しい)

 好き嫌いとかそういうのとは別に、単純な好奇心が刺激される。そしてそれはサトミの格好についてもだ、今日は普通のTシャツ短パン姿だが先週のスカートにウィッグの理由が知りたい。

(お父さんを騙して、じゃなくて勝手に勘違いするように仕向けたのは、それもあるんだ)

 とにかくタイミングを見てどうしてなのか聞いてみたい、もしかするとその願望は『リーン&バイン』を見たいという欲求と同じくらいには高まっていた。自分の家の隣にこんな面白そうなものがあるなんて!仲のよい友達が学習塾に行くことが決まってしまったこの夏休み、退屈な時間をもしかしたら埋めることができるかもしれないという期待感を倫子は抱いていた。

「倫子ちゃんは正面どうぞ」

 テレビの向かいに背の低いテーブルを挟んで真新しい座布団が敷いてあり、サトミは麦茶とプラスチックのボウルにいま頂いたばかりの焼き菓子を適当に盛ったものをその前に置く。それはどちらかと言うとロクに対する助け舟の意味合いが強そうだった。

「ありがとうございます」

 その意図を察して倫子はすいっとロクの前から離れて勧められるまま座布団に座る。様子を見ればロクが怯えているのは一目瞭然だが、それに対し助けに入ってくるのを考えればサトミはどうやらロクが怯えているのではなく困っていて、その理由も知っているのだろうと倫子は考えた。

(それなら聞けば存外すんなりと答えてくれそうだ)

 だったら焦ることはない、まずは目の前の楽しみである『魔法聖戦士 リーン&バイン』が先だ。

「ほい」

 サトミがリモコンを投げ、それをあたふたとロクが両手でキャッチする。どうも彼の運動神経はあまりよくないようだ。

「再生するでござるよ」

「お願いしますっ!」

 自分で思っていたよりもはしゃいだ声が出てしまって倫子は少しだけ赤面するが、その恥ずかしさもすぐに消えた。第一話の始まり方としては珍しい、いきなりオープニングからスタートする構成。「「まほうせいせんし!」」というセリフとともに画面がきらめき「魔法聖戦士」の文字が踊る。そこに白い羽根が舞って「リーン!」という叫び、そこに続けて飾りのついた剣が画面を踊り「リーン&バイン」と刻みながら「バイン!」と掛け声が入る。そして当時飽きれるほど歌って歌って歌った、「ぜったいハッピー、まほうせいせんし リーンアンドバイン」のアップテンポなイントロが鳴り出す。

「わーっ!」

 心と体と記憶と思い出。その全てに染み付いたオープニングテーマが流れ出し、倫子は歓声を抑えきれず気付いたときには口から漏れ出していた。耳を赤くして思わず口を手で押さえる。その倫子の耳にふしゅっふしゅっという空気の音と、ぼたぼたと何かが落ちる音が聞こえた。その発生源と思わしき方を振り返る。

 そこには目を見開いて玉のような涙をぽろぽろと零しながら画面から決して視線を外さず、油断すれば垂れ流してしまう嗚咽を奥歯でがっちりと奥歯で噛み殺し荒い息をするのが精一杯のロクがいた。

 サトミは振り返った倫子に困ったような笑みを浮かべる。

(長年の親友とはいえ私ですらこのロクはキツイもんなぁ)

 苦笑い程度でフォローになるかはわからないが、サトミにはそうやってロクの異常性を共感するのが限界であった。

 だが倫子の反応はサトミにもロクにも、そして倫子自身にも予想外だった。

「ふぐぅっ!」

 奇怪な呻き声をあげた倫子は最初それが自分の口から漏れたものだとすら気付かず、それがわかっても自分が一体なんの衝動によってそんなことになったのか理解できなかった。ぼたぼたとロクの目から流れる涙が床に落ちる音に、少しだけ軽いぽたぽたという音が混じる。音のする方向を見ようと目線を下げた倫子が視界が歪んで滲む。

「あ、あれ?」

 目が変になったかと手で擦るとべちょりという不快な感触と共に自分の手の甲がぐしょぐしょに濡れる。そこでようやく倫子は自分が両目からこぷこぷと涙を流していることを把握した。

「なんっんひっ、なん、でっ、うびぃ」

 泣いていることに気付いた瞬間、嗚咽がまったく押さえられなくなり疑問の言葉は溢れる呻きにかき消される。その様子を見てロクは部屋の隅から少女ににじり寄り自分が抱えていたティッシュを箱ごと押し付けるように手渡してくる。

「あびっあびばとうござんぐふぅ」

 礼の言葉すら満足に言えない倫子の姿にロクは無言でこくこくと何度もうなずく。大丈夫ともわかってるとも気にするなとも言ってるような、いやそれら全部が入った顔とジェスチャーに倫子は深くうなずき返すとティッシュを受け取って止めどなく零れる涙を押さえた。

「しらないせかい でもきっとハッピー ふ・た・り、でいるなら」

 オープニングテーマがサビに入り糸ででも繋がっているかのように画面の方を見た二人は、その中で手を取り合い変身するリーンとバインの姿に引っ込む気配すらなかった涙が更に吹き出す。それはもう涙腺が水鉄砲であるかのように噴射するというのが一番正確な表現であるほどに。

「うぇっぐひぐあぶうおぇ」

「ぼびぶぴぶぶ」

 片や呼吸すらままならずえずくわ、片や何とか酸素を取り入れようと震える唇から異音を放つわで傍から見たら女児向けアニメによって繰り広げられた光景とは思えない。唖然とその状況を見ていたサトミは手を伸ばしてひったくるようにリモコンを手に取ると一時停止ボタンを押した。

「ちょ、ちょっと待って!これどういうこと!?」

 アニメのDVDを再生したら開始数十秒で自分の部屋が地獄絵図のようになった異常事態に思わず声を荒げる。

「ぼべ、ごめんなさい……」

 倫子は新しいティッシュを数枚手に取ると床に点々を通り越して水溜りのようになった涙を拭き、ロクに箱のまま手渡す。それを受け取ったロクも新しい紙を手にすると勢いよく鼻をかんだ。

「いや、別に怒ってはいないけど……」

 鼻をぐじぐじとかんでいるロクに「お前ははやく床を拭け」と睨みながら、ゴミ箱を二人の間に置く。

「すいません、でもロクさんが泣くから……」

「当時の子が見て泣いてるの見たらもう無理……」

 どうやらお互いに「相手が泣いてる姿を見て誘発されてしまった」と言いたいらしい。サトミから見ればどっちもどっちだが、相手に責任を擦り付け合う姿を見ると果たしてこのまま続きを再生したものか非常に悩ましい。だってこのDVDは全部で4話入っていて、その開始1分も経たずにこの惨状なのだ。

「もう大丈夫です。ロクさんさえ我慢してくれれば」

 サトミの苦い顔つきで察した倫子は慌てて鼻をすするとそう宣言する。

「無理ぃ」

「ロクさん!?」

 空気を読めと少女の叱責が飛ぶ。

(いい大人なのになぁ)

 いや、決して「良い」ではないか、と小学5年生に叱られてオロオロするロクの姿を見て嘆息する。とはいえサトミにもこの二人が号泣する気持ちはわからなくもない、子供のころ大好きで骨身に染み込んで自分を形成しているものがぽんっと目の前にあらわれたらサトミだって平静ではいられないだろう。特に中学生のころに出会った愛しいあの漫画、あれは思い出すだけでいまでも涙ぐんでしまう。ロクに対してだって付き合いが長いから知っているが、あの男は異様に涙もろい。一緒にこれとって面白くもない映画を見ていたのに、気がつけば横でポロポロと泣いていたなんてことは一度や二度じゃ済まない。

(にしてもこれはすごいけど)

 一瞬にしてこんもりと丸まった白いティッシュで一杯になったゴミ箱を見て、サトミは全てを諦める。それにこれだけ泣いてくれるのなら場所を提供した甲斐があるというものだ、フフッと少し笑う。

「サトミさん、ごめんなさい……」

 サトミの笑いを諦めからくる苦笑だと受け取った倫子は目を擦りながら謝る。

「大丈夫大丈夫、気にしないで。続き、再生してもいいかな?」

「はい、なるべく我慢します……ね、ロクさん!」

 ティッシュを口に咥えて思いっきり噛みしめながら「んーっうーっ」と返事をする姿に、これはどうやっても無駄だなと確信しながらサトミは再生ボタンを押す。

「ここはどこ!? ふしぎなせかいに、やってきた!」

 再開した『魔法聖戦士 リーン&バイン』のオープニングはすぐに終わり、第一話のタイトルが読み上げられる。

「ふぐすっ」

「んびっ」

 噛み殺した呻き声が二人分、部屋に響く。少なくとも我慢しようという意志は感じられたし、このペースで止めていては4話見終わるまでに何日かかるかわからない。サトミは後でロクにしっかり掃除して帰ってもらうことを決めて、テーブルの上にリモコンを置いた。

 結局のところ4話分が終わる約100分間で一度ゴミ箱を空にする必要があったのと、そんなに体液を垂れ流しては脱水症状になりそうだな……不安になったサトミが強引とも言える勢いで勧めて倫子にコップ一杯のお茶を飲み干させたぐらいでDVD1枚分の視聴は終了した。流石に2話目以降はオープニングで号泣することもなく静かに涙を流すだけで済んだのは、最初の様子から最後には酷い有り様になっているであろうと覚悟していただけに、良い意味で肩透かしを食らったような気分だった。

「ロク後片づ」

「倉敷氏、オーディオコメンタリーも見るでござるか?」

 サトミは驚く。

(オーディオコメンタリーも見るの!?じゃなくて片付けしろって言うのを潰された、じゃなくてよくロクが他人の名前覚えてたな、じゃなくて倫子ちゃんがすっごい勢いでうなづいてる!でもなくて)

 ロクが自分から倫子に話しかけた。

 あれだけ過剰なまでに距離をとって接していたロクが自らその溝を詰めていったことに目を見開いて驚愕する。一緒に同じものを見て、同じようなところで感嘆の声を漏らし、二人してぐずぐずに泣き崩れるという経験を共有した。それがロクの中にある「警戒心」を緩ませたのだろう。

(ほとんど野生動物だな)

 それはきっと良いことなのだろう、と危険性を知りながらもサトミはロクの変化を受け止めることにした。リスクがあるのはわかっている、というかそれはロクがもっとも自覚しているだろう。だからこそサトミはロクを信用したかった、彼が自分自身と上手く付き合っていくためにはそれが一番だと思えた。

 DVD収録のオーディオコメンタリーを見るか、監督インタビューを先に見るかでロクは微妙に迷っているようで画面にはリーンとバインが手を繋いで変身するシーンのイラストが映し出されたメインメニューが表示されている。

 と、急に軽い振動音が部屋に響いた。床に放置されているサトミのスマホが光りバイブ振動でフローリングの床を叩いている。画面の表示をちらりと見てサトミはスマホを手に取ると耳に当てた。

「おつかれさまです、サトミです。いますけど……マジですか?……あーまぁそれぐらいなら、ええ。了解ですー、失礼します」

 眉間に皺を寄せて通話が終わったスマホを見つめる。

「どうしたでござるか?」

「あー、ちょっとバイト先行ってくる」

 ロクがごとりとリモコンを取り落とした。

「ちょ、待って待って待って」

 さすがに少しは慣れたとはいえ、いや慣れたからこそマズイとロクは抗議の声をあげる。

「オーナーが鍵忘れちゃったらしくってさ、それだけだからすぐ戻るって」

「無理無理無理無理」

 いくらなんでも二人っきりになるのをそこまで拒否されると流石に楽しいものじゃない、それになんとなく悔しい。そう思った倫子は努めて何でもないことのような顔をして会話に割り込む。

「どのくらいかかるんですか?」

「30分、いや20分もあれば戻ってこれると思う」

 なんだその程度か、と倫子は拍子抜けする。

(その程度が無理ってどういうことなんだろう……余計知りたくなくなってきた)

 『魔法聖戦士 リーン&バイン』に夢中になってて意識から完全に消えていた好奇心がむくむくと目を覚ます。

「そのくらいなら、1話見てる間に戻ってくるってことですよね?」

 腕を伸ばしてロクが取り落としたリモコンを拾う。たったそれだけの動きでも露骨にビクッと体を震えさせるロクが本当に不思議だ。手にしたリモコンをふりふりを動かしてみせる。

「大丈夫ですよ、ね?ロクさん。オーディオコメンタリー見てましょうよ」

 10歳近く離れている相手に話しかけてるとは思えないくらいお姉さんぽい喋り方に自分がなっていることに、倫子はおかしくなって笑い出しそうになる。肥満体のロクは倫子よりもかなり大きい、それでも少女の一挙手一投足に過敏なまでの反応を見せ怯える姿は小さな子供か、あるいはぶるぶると小刻みに震える小動物を思わせた。

「ありがとう、すぐ戻るから」

 サトミは手早く用意をするとすでに出て行こうとしている。

「サトミっちょっとマジで」

「信じてるよロク」

 それだけ言い残してサトミは外に飛び出していく、やけに音の響く階段を駆け下りていくのがハッキリと聞こえた。

「……」

 なすすべなくサトミが出て行くのを見送ったロクは無言のままフェイスタオルを取り出すと自分の手首にぎゅっと結びつけ、それからきょろきょろと室内を見回す。

続きます。(次 2019/10/18 20:00 公開予定です)

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