じゃあ、また来週ね。(前)
玉子焼きは難しい。
いや、及第点の、たとえばお弁当の片隅にぎゅっと詰め込んであってそれを大した感慨もなく口に運べるような、そのぐらいのものなら特に問題なく作れる。けれどもそこから先が難しい。それは高いレベルの話なんかではなく、好みの話として。
倫子はコンロの前でじくじくと焼かれていく玉子を見つめながら、まだ成長途中な手の大きさからしたら少し長すぎる菜箸をぎゅっと握った。砂糖とおしょうゆの焦げ始めた香ばしい匂いが鼻に届く、焼き固まった端を持ち上げてパタン、と折りたたむ。フライパンの形にそって半月状に形成されたフォルムに、倫子は眉間に皺を寄せてしまう。
原因はわかっている。一人分の玉子焼きはそもそも玉子の分量が少なすぎてロール状に折りたたむ余裕が無いし、その分量に対して24cmのフライパンは大きすぎる。それでもお皿に乗せて食卓に並べれば「玉子焼きだ」と言って差し支えないものはできあがるし、味付けに関しては彼女の好みでいうなら二重丸だ。
「むー……」
それでも不満げな声を漏らして焼き上がりを待つ玉子を菜箸でつついてしまうのは、端っこのぴらぴらとした部分が好きではないからだ。ふんわりと適度に蒸気を湛えた中心部分は好きだ、だからこうやって玉子を焼いている。ただ端っこの薄く焼かれて水分を失ったぺらぺらでへにょへにょとしたところは好きになれない。十分に折りたためないこの玉子焼きでは両端だけでなくフライパンにそって半月の弧を描く部分も、そうしたぴらぴらでぺらぺらでへにょへにょでぱさぱさになってしまう。
玉子焼き用の四角くて小さいフライパンが欲しい、とは思うがそんなものに貴重なお小遣いを消費する気には到底なれないし、父親に言えばたぶん喜んで買ってはくれるだろうが……そこまで頻繁に使うわけでもない道具を揃えることや、決して広くはない流しの下の収納スペースを占拠することにだって抵抗がある。なにより「買ってもらったのだから使わなければならない」という圧力を勝手に感じてしまって、そうなると自分が玉子焼きを作ることにプレッシャーを無駄に受けて二の足を踏むようになることはわかりきっていた。だから時々調理器具売り場を通り過ぎるときに横目で見ながら、「まぁいいや」と毎回のように見送ることになる。
「よっと」
コンロの火を消して焼きあがった玉子焼きを大きめのお皿に移す。端っこ以外は満足のいく出来栄えだし、土曜日のお昼に食べるごはんとしては十分だ。冷蔵庫から作り置きの切り干し大根とキャベツの温野菜を取り出して同じお皿に盛り付け、少し悩んでからドレッシングではなくポン酢を温野菜にかけた。シンプルな白地に青い線でウサギが描かれた茶碗にごはんをよそってちゃぶ台の上に並べる。倫子はうんうん、と誰に見せるでもなくうなづくと少し笑みを浮かべて座布団に座り手を合わせた。
「いただきまー……」
合わせていた手を離してテレビのリモコンを取ると、録画していた番組の一覧から『魔法聖戦士 リーン&バイン☆バーストイブ』の最終回を選んで再生する。最終回らしくいつものアバンもオープニングも無く、敵の大ボスに立ち向かって行くボロボロの格好になった魔法聖戦士リーンが映し出される。その画面から目を離さないまま倫子は切り干し大根を箸でつまみ口に入れる。冷蔵庫から出したばかりの煮物は想像していたよりも冷たいが、もう明日には7月になってしまうこの時期にはその冷たさがおいしかった。
「グハハハぁ、リーン!お前一人で勝てるものかぁ!」
「私は……絶対に、負けてなんてあげないんだからっ!」
ズタボロになっていたリーンの体が光に包まれ、天使のような羽を生やしたきらびやかな姿に変身する。その映像に釘付けになりながら倫子は目頭が熱くなるのを感じ、グッと涙を堪えた。泣いてしまっては画面が滲んで見えなくなる、それはもったいない!と直感的にそうしていた。それにこの歳になってアニメを見て泣くのが少しだけ気恥ずかしい。
『魔法聖戦士 リーン&バイン』は倫子が小学校に入る直前まで、一年を通して放送されていた女児向けアニメだ。社会現象になるほど大ヒットしたこの作品を当時の倫子は夢中になって見ていた。それから5年の歳月を経て、そのスピンオフである『魔法聖戦士 リーン&バイン☆バーストイブ』が深夜アニメとして製作・放映されることとなった。もっともそんなものが学校で話題になったりはしない、小学5年生女子という年代の大半はアニメというものから距離を取りがちだ。話題の中心はYoutuberでありショッピングモールのカワイイお店であり韓国から輸入されたビビッドカラーの小物でありクラスの男子の悪口である。アニメやアイドルやゲームのことは――特にクラスの中心でいたい女の子にとって――こっそり楽しむもので大っぴらに話題に上がることはなかった。倫子自身はクラスでの地位にほとんど興味は無いが、かといってわざわざ波風を立てる必要も感じないし、なによりそういった話題になりそうな時どことなく気まずい顔を浮かべる幾人かのクラスメートの表情を見れば「きっとあの子たちはそれを望んでいないのだろう」と感じて話を逸らしたりする方だった。
『魔法聖戦士 リーン&バイン』のスピンオフが放送されるのを知ったのもたまたまだ。子供の頃、新しくパソコンを買った両親がはしゃいで作った自分の名前丸出しの電子メールのアカウント(しかもパスワードが生年月日!)をいい加減どうにかしなければと久しぶりにログインをした。重要なメールだけ転送し保存したかっただけなのに大量のスパムを受信し始めて、うんざりした気分でグルグルと回る読み込みの輪っかをぼんやりと眺めていたところに一番最新で受信した「☆★☆『魔法聖戦士 リーン&バイン』ファンクラブからのお知らせ☆★☆」というタイトルを視線が捉えた。当時「せっかくメアドを作ったのだから」と無料登録したメルマガ、それは新しい玩具やDVDの発売を告げるだけの広告でしかなかったが、それでも大好きな『魔法聖戦士 リーン&バイン』の情報がメールという不思議な手紙で自分の元に届くのが幼いころの倫子には嬉しかった。
ほんとうに久しぶりでログインしたメールボックスに、たまたま今日届いたメールのタイトルに、そのときの気持ちを思い出して倫子はメールを開いた。どうせ5周年ブルーレイボックスが予約開始!とかそういった文面を予想していた彼女の目は良い意味で裏切られる。『魔法聖戦士 リーン&バイン』のスピンオフであり、本編で活躍した魔法聖戦士たちの母親が若かった頃の物語が深夜アニメで放映されるという告知。気がつけば倫子は他のメールと一緒に、現在使用しているアドレスへその案内も転送していた。
小5ではリアルタイムで視聴が不可能ではあった、録画頼りになるがそれだけに何回も繰り返して見ることができる。放送が始まってからは1話につき4~5回は再生するほど思いっきりハマっていた、特に金曜深夜に放送されたのを初見する土曜日はこの3ヶ月間彼女にとってもっとも楽しみなひとときだった。
玉子焼きを口に入れ、ごはんで追いかけて咀嚼しながら目だけは画面を決して見逃さないぞと凝視している。そこまで必死に見てるなら食べる手を止めればいいのだが、幼少期に『魔法聖戦士 リーン&バイン』放送されている時間は必ず家族で朝食を囲んでいた思い出から、初見時には食事をしながらの観賞が倫子には絶対に必要な条件となっていた。
ボロボロに傷ついた状態からパワーアップフォームに変身し、オープニングテーマが高らかに鳴り響く。
「あれ?」
唐突に画面が止まった。気付かないうちに肘かどこかで一時停止ボタンでも押してしまったかと、リモコンの再生ボタンを押し込む……が地面を蹴って突進するリーンは止まったまま微動だにしない。
「電池かな……?」
試しに録画一覧に戻るボタンを押すと、画面は何のストレスもなく切り替わり順番に並んだ録画番組の2番目で未視聴番組であることを示すマークの消えた『魔法聖戦士 リーン&バイン』最終話が鎮座している。
倫子の背筋に冷たいものが走る。
録画一覧に表示されている再生可能時間には「00:08:32」という無慈悲な数字が刻まれている。30分番組の『魔法聖戦士 リーン&バイン☆バーストイブ』が当然そんな短時間で終わるはずが無い。
「嘘でしょお!?」
思わず悲鳴に近い声を漏らしてしまう。『魔法聖戦士 リーン&バイン☆バーストイブ』の次に録画されているのは父親が予約していた海外サッカーの試合だ、倫子の家で使っているHDレコーダーはかなり長い年月使用している古いタイプでブルーレイ再生機能が無いどころかDVDプレイヤーとしての機能すら数ヶ月前に故障したまま放置してあるほどだ。そのため多チャンネル同時録画なども搭載しておらず、そしてあとから入った予約が自動的に優先される……『魔法聖戦士 リーン&バイン☆バーストイブ』の予約はまとめて約3ヶ月前に入力されたものであり……。
箸を持ったまま倫子は後ろへ倒れる。
(信じらんない信じらんない信じらんない、信じらんないっ!)
あまりにも惨い出来事に両手で顔を覆う。5年生にもなって、と自分でも思うが涙が溢れそうになる。さっき泣きそうなのを無理矢理に堪えたからだと自分に言い訳して腕でまぶたをごしごしと擦って起き上がる。持ったままだった箸を投げるようにちゃぶ台に放り出しごはん茶碗とお皿を押しやってスペースを空け、ノートパソコンを引き寄せて開き電源を入れる。
(どうしよう……)
起動を待つ間に少しだけ気持ちが落ち着いた倫子は自問する。このままブラウザを立ち上げて「リーン バイン バーストイブ 12話」とググるのは簡単だ、だが簡単なだけにそれがあまり良い手段ではないことを倫子は理解していた。
(ネタバレは見たくないし、ちゃんとした配信は1週間遅れだから……)
それでもたぶん検索すれば最終回の動画はどこかにアップロードされてるだろうし、探すのだって大して難しくはない。そんなことはわかっている、そしてそれが決して褒められたことでは無いことも。倫子だって時には知らずに、時にはまぁいいかと自分の行いに目をつぶってそういった動画を見てしまうことがある。
(でもそれはダメなんだ……)
『魔法聖戦士 リーン&バイン』は彼女にとって特別な存在だ、リーンとバインに顔向けできない方法でそれを見るわけにはいかないし、たとえ見たところで後ろめたさを抱えたままでは面白さが半減するし、何より自分の大好きなものを思い出すとき一緒に罪悪感が付いてくるようになる。それは絶対に避けたいことだった。
大仰なため息をついてノートパソコンを閉じるとその上に突っ伏して呻き声をあげる。
「ううううぅ~、お父さんのバカぁ……」
呪詛を唱えたところで聞かせる相手がいないのではどうしようもない。体は前に倒したまま顔を上げ、ノートパソコンにアゴを乗せて落胆の色を湛えた目でちゃぶ台の上を見る。刻一刻と冷めていく玉子焼きの断面が見えるが、食欲は完全に失せていた。開きっぱなしの窓から流れ込んでくる風が玉子焼きのぺらぺらでぱさぱさの部分を揺らし、いっそう食べる気を失わせる。
「はぁあぁぁあぁぁ~~」
(公式の配信まで待つしかないかぁ……うー、むー、バカぁ……)
「……負けてなんてあげな」
風に乗って声が聞こえた。ほとんど反射的に倫子は体を上げる。
「今のって……」
まさかまさかと思いながら耳に集中する。
「リーン、ウィングフォームっ!」
(間違いない!これって最終回の……)
今さっきまで見ていた、そして非業の中断を遂げた録画。そこで聞いたのとまったく同じ声がセリフがBGMが窓の外から流れこんでくる。跳ね上がるような勢いで立ち上がると勢いよく網戸を開け狭いベランダに出る。
「どっから……」
耳をそばだてたままきょろきょろと外を見回す。住んでいるアパート2階のベランダが面しているのは裏手に住んでいる大家さんの住居が有する広い庭で、これといって管理されてるわけでもないそこは好き放題に生えた植物に占拠されている。どう考えてもそこから『魔法聖戦士 リーン&バイン☆バーストイブ』の声が聞こえるはずもない。となると左右か下か、あとは屋根の上か。
「ええいっ!チョコマカとぉ!」
敵の大悪念ズワウズンの声が聞こえる。
「右の部屋からだ……!」
確か隣の204号室には若いおじさんが一人で住んでいるはずだ、深夜アニメだし確かに見ていても不思議ではないが……。
(どうしようどうしようどうしよう)
1週間大人しく配信を待つという選択肢を選ぼうにも、倫子は『魔法聖戦士 リーン&バイン☆バーストイブ』が好きすぎた。それでも一人暮らしの男のところにチャイムを鳴らして「『魔法聖戦士 リーン&バイン☆バーストイブ』を見せてください!」と訪問するのは流石に危ないことぐらいわかっている。深夜アニメの『魔法聖戦士 リーン&バイン☆バーストイブ』は時折ちょっとエッチなシーンがあったりするし、それを録画して見ている相手のところに小5女子が乗り込んでのはリスクが大きすぎる。そんなことぐらいは常識だ。
(でも見たい!)
常識はある、だが常軌は逸していた。怖いから訪ねて行けるわけもないが、どんな手を使ってでも見たい。倫子はベランダの柵に体を預けると頭を突き出して隣の部屋を覗き込む。音だけでもしっかり聴こうと、端っこだけでも画面を見ようと、自分がいけないことをしているのはわかっている。違法アップロードを検索するのは我慢できても、目の前に餌をぶら下げられているのを我慢するのは不可能だった。
「よっこい……」
限界まで体を伸ばして隣家を覗く。
「へ?」
「うお!?」
ベランダに居た人と目があった。長い金髪が風に揺れているが、その下にあるのはどこからどう見ても日本人。それも精悍な顔をした男性だった。Tシャツから伸びる腕はしっかりとした筋肉に覆われ、スカートから伸びる脚も一般の男性よりがっちりと鍛えられている。
(スカート?)
ベランダに人がいたことにも、不用意に目を合わせてしまったことにも、自分の無作法な悪事が発覚したことにも驚くべきだったが、あまりにも出来事が渋滞していて倫子は何からするべきかわからなくなってしまい、結果として目を見開いて凝視してしまった男性の姿格好に疑問を持つのが精一杯だった。
「あ……あの、どうした……の?」
流石に年の功とでも言うべきか、20歳そこそことはいえ小学生よりは落ち着いているし、これがゾンビだったり明らかに泥棒だったのならそうもいかないが小さい女の子相手だということでベランダにいた人物は倫子に話しかける。声をかけられたことで自分が何をやらかして、しかもそれが発覚してしまったことに気付いた彼女はハッとした表情を浮かべる。
「あああ、あのごめんなさい!私、その!」
慌てて謝ろうと頭を下げる。ベランダから大きく乗り出していた頭を伏せれば当然バランスは崩れ、発育途中でまだまだ全身の構成から見れば頭部が重い少女の体がぐらり、と揺れた。
「えっ」
鉄棒の前回りならこれほどキレイなフォームも無いだろうという勢いで倫子の体は半回転し、フェンスの外へ投げ出される。手だけで自分の体重を支えるような腕力など当然のように持ち合わせていない。アパートの2階から落下した程度ならば致命傷にはなる可能性は低いが、それでも骨折レベルの怪我は免れないだろうし、打ち所が悪ければ死んでしまうことだって十分に考えられる。なにせ頭を下に向けたことでバランスを失っているのだ、脳天杭打ちと呼ばれるプロレス技をセフルで食らうような格好になるのは必然だった。
(お母さん……っ!)
浮き上がった両足と反転する視界に一瞬で観念しギュっと目をつむる。浮遊感の中で「あぁこれはきっと悪いことをした罰だ」と考える、死ぬ瞬間には走馬灯が見えると聞くがそんなものはまったく思い浮かんでこない。ただこうやって余計なことを考える余裕はあるのだから事故を起こすとスローモーションになるというのは概ね正しいのかもしれない。
「っぶないっ!ちょっと大丈夫!?」
男の声に倫子は恐る恐る目を開ける。逆さまになった視界にはベランダのフェンスと、隣家とを区分けする薄い衝立が飛び込んできた。目線を上に向けると大家さんの庭が見える、体ごと引っくり返ったまま空中に浮いているらしいことを何となく理解する。
「引っ張り上げるよっ!」
ぐいっと洋服が引かれて重力に逆らった運動を自分がしていることに倫子は目を白黒させる。そこで初めて隣家のベランダにいた人が間一髪で服を掴んで落下を阻止したらしきことを把握する。
「よいっしょ、っと!」
力任せに引き上げられ、柵を乗り越えざらざらとしたコンクリート剥き出しのベランダにぺたん、と座る。よくわからないがとにかく助かった安堵で倫子は放心したように目の前の命の恩人を仰ぎ見る。がっしりとした体格から伸びる手足はかなり鍛えているようで、太い筋肉がいやがおうにも目立つ。太い眉にキリリとした目つきはちょっと古臭い気もするが有体に言ってイケメンの部類に入るだろう。一方であまりにもカツラだとバレバレの金髪ロングヘアーに、デザインはポップでカワイイが明らかにサイズが小さいTシャツ、なによりもふわりと揺れる白いスカートがこう言ってしまうのもアレだがミスマッチだった。着せ替え人形の服を無理矢理ヒーローのソフビ人形にまとわせたような違和感。
「その、大丈夫?ケガとかしてない?痛いところはある?」
事情を尋ねるにも無防備に座ったままのぼんやりとしている倫子が心配になって軽く屈んで様子を見る。
(どっかに傷は……無いみたいね。びっくりして返事もできない感じかな?)
不安げに顔を覗き込む目に気付いて倫子は軽く首を横に振る。
「だ、大丈夫です。えっとその、ありがとうございます……」
とにかく助けてもらったことは間違いない。安堵と同時に、これから自分が隣の家を覗き込んでいたことを説明しなければならず、それからとんでもなく怒られるだろうことを予測して倫子は泣きそうになる。
(あぁやっぱり悪いことをするとバチが当たるんだ……もうリーンとバインに顔向けできない……)
まだ少し混乱しているのか、そんなことが頭に浮かぶ。
「サトミ氏~?どした~?」
部屋の奥からもう一人の声が近づいてくる。網戸の向こうからふくよかと言うにはちょっと大きすぎる体格をした眼鏡の男性がベランダを覗き込んだ。
「独り言が部屋まで聞こえまし、ひぃぃ!?」
屈んでいるサトミと呼ばれた人物の他にもう一人、コンクリの床にぺったりと座っている倫子を発見してその太った男は悲鳴を上げて後ずさる。その想定外の行動に倫子は彼の動きを目で追った、逃げだして部屋の奥へ向かった先にはテレビがアニメの画面を映し出している。そこには地面を蹴って突進したリーンがズワウズンの腹部がひしゃげるほどの頭突きを食らわしているシーンが一時停止されて煌々と輝いていた。恐らくは倫子の録画が切られてしまった、その直後のシーンだろう。
(どうせ怒られるなら)
倫子は腹をくくった。どうせこの後とんでもなく叱られるのだろう、それならば正々堂々正直に言うべきだ。彼女は自分がまだ子供で、大抵の大人はこのぐらいの年齢には甘いことを知っていたし、それを利用することを思いつくぐらいの小狡さを持ち合わせていた。心の中で「負けてなんてあげないんだから!」とリーンがキメ台詞を叫んだような気がした。
(そう、どうせ怒られるなら……このままでは五分と五分!上手くいけば私の勝ち!「負けてなんてあげないんだから!」)
倫子は部屋の奥を指差す。伸ばした人差し指が細かく震えているのは、いくら決心したとはいえ怖いものは怖いから。それでも勇気を振り絞って口を開く。舌がひどく乾いていることにいまさら気がつく。
「そ、その……」
「なあに?」
サトミは倫子の切羽詰った様子に緊張を覚える。何かよっぽどの出来事がこの女の子に起きたのだろうか、例えば強盗とか変質者の類とか。それは果たして自分がどうにかできることなのだろうか。緊張して次の言葉を待つ耳に、唾を飲み込む音が異様に響く。
「私も見せてもらっていいですか?」
「……へ?」
なんの話かすぐには理解できず、サトミは倫子が指さす方に視線を向け室内の太った男に助けを求めるような目で訴える。しかし男はぶるぶると首を横に振るだけだった。
倫子が隣家のベランダを覗きこむ少し前、玉子を冷蔵庫から取り出してシンクの角にぶつけて殻にヒビを入れてるころ。
甲高い音を出して脱水が終わったことを告げる洗濯機に促されてサトミは腰を上げた。湿った衣類を取り出して外に干す用と室内干し用のカゴに仕分けていく。
(お昼はどうしようかしら……)
洋服を分別しながら冷蔵庫の中身を思い出そうとするが、すぐに大したものは残っていないことに思い至る。
(外で適当に済ませてついでにスーパーへ買出しにでも行くしかないか……)
着替えたくないな、と重めのタメ息をつく。
そこに突然、玄関のチャイムが鳴った。思わず首を捻る。
(なんか注文してたっけ?)
サトミの家にチャイムを鳴らして訪ねてくるのは、大半がAmazonからの宅配便だ。だがここ数日なにかを買った覚えはない、となると次は宗教の勧誘ぐらいしか思いつかない。
(この格好じゃねぇ……)
何も映っていないテレビに反射する自分の姿を見て少し眉間に皺を寄せる。かわいくポップなデザインのTシャツは体格に合わせてピッチリと引き延ばされ、白いフレアスカートからは筋骨隆々とした脚がにょっきりと伸びている、この格好を知らない人間に見せるのはあまり嬉しいことではない。洗濯カゴを床にそっと置いて、息を殺して玄関に向かい覗き穴から訪問者の姿を確認する。大事な用じゃなければここまま居留守を決め込んでやればいい。
魚眼レンズのように湾曲した中に写ったのは汗だくの太った男だった、コンビニ袋をぶら下げて両手で黒い箱のようなものを抱えている姿はみょうちきりんなホラーの導入かと思わせる異彩を放っている。サトミは覗き穴から左右を見回して玄関前の彼以外は人影が無いことを確かめてからドアを薄く開いた。
「来るなら連絡ぐらいしてよね、ロク」
「したよぉ~サトミ氏が見てないだけでござるよぉ」
デュフデュフと奇怪なワザとらしい笑い声を出し、居て良かったとかなんとかとボソボソ喋りながらロクと呼ばれた男は部屋に入ってくる。ツンっとした汗の匂いに、まだギリギリ6月だというのに一足先に夏が来てしまっているらしいこの男の体感温度を想像してしまう。
「その金髪、良さみがつよいでござるね」
サトミの格好を一瞥してからロクは床に抱えていた黒い箱を置く、どうやらHDDレコーダーの本体をここに持ってきたらしい。
「ん、ありがと」
「でもお高いんでしょぉ?」
「そうでもない……ていうか何の用よ」
持ってきたのがHDDレコーダーっていうのはわかった、だがそれを我が家に持ってくる理由が検討もつかず不審者を見る目つきでロクを睨む。
「いやぁウチのテレビが急に壊れてしまってマジやむ」
「買いなさいよ」
「もう注文したでしゅよ、でもお急ぎ便でも明日しかこないではないですか。あ、お昼はもう食べたぁ?」
そう言いながらコンビニの袋を手渡してくる。中にはサンドイッチや菓子パン、おにぎりなどが捻じ込まれていて、その容量パンパンになる袋の選択は近所のセブンイレブン店長がよくやる特徴的な詰めかただった。その中から恐らくはサトミ用に買ったらしき真空パックのサラダチキンを取り出し開封する。
「ありがたくいただくわ」
「だから『魔法聖戦士 リーン&バイン☆バーストイブ』の最終回を観にきましたお」
一口齧った鶏肉を一緒に袋にあったお茶で飲み込む。
「そんなん明日でいいでしょ?」
「わかってないでつなぁサトミ氏は。ツイッターでネタバレ踏んだらどうするんですかな?ん?」
「見なきゃいいでしょ」
「一晩我慢しただけで限界だお」
勝手にプレステ4に繋がっていたHDMIケーブルをレコーダーに差し替え、空いてるコンセントを探してきょろきょろと室内を見回しながらロクは答える。何の共感も感じられない主張にロクは何も変わらないな、とサトミは安心する。
ロクはサトミの秘密を知る数少ない、というよりはほぼ唯一の友人だった。
幼稚園のそれこそ記憶が無い頃からの幼馴染で、小中高それから学部は違うが今現在通っている大学までもずっと同じ……下手すれば家族よりも過ごした時間が長い相手だ。サトミは体格に恵まれ中学までは柔道、高校からはアメフト部で活躍し、一方でロクは小学生の頃からゲーム漫画アニメにのめり込みいわゆる「オタク」として生きてきた。勤勉なスポーツマンの里見雄一と、キモいオタクの岩田隆男。一見まるで正反対の二人が友人であることに知人は首をかしげ「でもまぁ幼馴染ってのはそんなもんか」となんとなく納得するのが常だった。
「あっはぁ、起動成功っシステムオールグリーン。行けますぅ~」
HDDレコーダーの電源を入れ動作を確認したロクは気持ちの悪い裏声を上げる。淀みない動きでサトミのテレビにアニメと特撮で占拠された録画一覧が表示するとコンビニ袋からチキンカツサンドと明太子のおにぎりを取り出し、少し思案したあと先にチキンカツサンドの包装を剥いた。
(どうせ全部食べるんだからどっちからでもいいでしょうに)
その様子を見ながらサラダチキンを食べ終わったサトミは洗濯物を干そうとしている最中だったことを思いだし立ち上がる。外に干す用のカゴを手に、一応誰からも見られてないか確かめつつベランダに出た。アパートの大家が住む家の広い庭に面したベランダは周辺の道路からは見ようと思って見なければ、そうそう視線を向けるような場所ではない。サトミが一人暮らしの住居にこの建物を選んだ理由のひとつがそれだった。
「グハハハぁ、リーン!お前一人で勝てるものかぁ!」
「ふひひーっリーンたんバブみがぱねぇンゴ」
「私は……絶対に、負けてなんてあげないんだからっ!」
網戸越しに敵役らしきドスの聞いた声と女性声優の高い声、それに挟まれてロクの鳴き声が聞こえる。サトミは苦笑いを浮かべながら男性用の衣類を中心とした洗濯物を干していく。トレーニングウェアにハンガーを通して物干し竿にかけようと顔を上げた。
「へ?」
「うお!?」
女の子と目が合った。決して高くないとはいえアパート2階だ、そのベランダでいきなり少女の顔がにょっきりと空中に現れたのだ。何事かとか幽霊かとか考えるよりも先に驚きの声が漏れてしまう。
それは向こうも変わらなかったらしく目をまん丸に見開いてこちらを凝視している。火災時には突き破れるようにできている薄い仕切りの向こうから横向きに飛び出した顔を見るに、どうやら隣の家のベランダからこっちを覗き込んでいるようだ。
(この子、隣の家の女の子だ……見覚えある……)
顔を合わせば同じ建物に住む相手だしぐらいに軽く挨拶を交わす程度でキチンと話したことは無いが、父親と二人暮らしらしき隣家の女の子で間違いないだろう。相手が誰かわかったところで部屋を覗き込まれて良い気分はしないが、もしかしたら何か事情があるのかもしれない。ランドセルを背負っているのは見たことがあるので小学生なのだろうが、普段は挨拶もしっかり返してくれる利発そうな子供だ。人の家を覗くのが良くないことくらいは理解しているだろうし、それでなおこうしているということは何か理由があるに違いない。
「あ……あの、どうした……の?」
突然の対面で受けた驚きが収まったサトミはぎこちない笑顔を浮かべて、まだ口をあんぐりと開けてこちらを見ている少女に話しかける。声をかえかけられたことで自分が何をやらかして、しかもそれが発覚してしまったことに気付いた少女はハッとした表情を浮かべる。
「あああ、あのごめんなさい!私、その!」
かわいそうなぐらい慌てふためいた女の子が深々と頭を下げた。
「えっ」
両手で掴んだベランダの柵、そこを中心に少女の体が半回転する。一瞬ずいぶんと気合の入ったおじぎだな、と思ったサトミの視界にクロックスを履いた足が逆さまになって仕切りの向こうから飛び出してくる。
(落ちるっ!)
反射的に手を伸ばす。体に染み付いた、低い弾道で飛んで来るボールを突進してキャッチする動きが勝手に四肢を駆動させ、柵がひしゃげそうな勢いでぶつかりながら少女の服をなんとか右手で掴んだ。
「っぶないっ!ちょっと大丈夫!?」
サトミはまるで逆立ちを補助するように左手で少女の足を持つ、とりあえず地面に叩きつけられるのだけはなんとか阻止する。額に冷たい汗が浮かぶ、自分がアメフトをやっていたことも癖になった筋トレを続けていたことも役に立ったのは初めてのことだった。
「引っ張り上げるよっ!」
ぐいっと服を掴み足を引き上げてとにかく安全な場所に、と自分の家のベランダまで引き上げる。持ち上げてみてその軽さに驚く普段のトレーニングで掛けてる負荷のほうがはるかに重いぐらいだ。子供と接する機会なんてほぼゼロの大学生にとってそれは新鮮な驚きだった。
「よいっしょ、っと!」
力任せに引き寄せて柵を乗り越えさせつつ逆さまになった体をひっくり返して足からベランダの床に降ろす。驚きとショックで足に力が入っていないのか立たせたつもりが少女はその場にぺたん、と座り込んだ。なんとか事故にならなくて良かったと安堵の息をついたサトミは改めて自分の助けた女の子を見る。薄手のTシャツは部屋着用なのか使い倒されていて胸のプリントはほぼ剥がれかけている、ボーダー柄のゆったりとした短パンからは細いが健康的な足がすらりと伸びていて、これからもっと身長が伸びればきっと素晴らしいプロポーションになるだろうことを予感させた。落ちかけた驚きと助かった安心感からか放心したようにサトミを見る顔は少し潤んだ大きな目が特徴的で、少し上下につぶれている顔の輪郭はふっくらとしたおまんじゅうを思い起こさせて、子供らしくてずいぶんと可愛らしいし、高校生にでもなれば顔立ちも整って随分な美人になるであろうことは容易に想像できた。
(こんな風に生まれたらな……)
普段こんな近くで子供を見ることのないサトミはついつい物珍しさ半分、目立つケガがないか半分といった気持ちで少女の体を眺め回す。とりあえず見えている範囲では出血しているようなところは無いことに安心した。
「その、大丈夫?ケガとかしてない?痛いところはある?」
コンクリートの床に座ったままでは足が痛いだろうに、立ち上がる様子もなくぼんやりとしている倫子が心配になって軽く屈んで様子を見る。
(どっかに傷は……無いみたいね。びっくりして返事もできない感じかな?)
それかもしかして足でも折れているのか、いやそれだったら痛みでこんなぼーっとはしていられないはずだ。サトミはしゃがみ込んで少女の顔を覗き込むと濁りの無い瞳に吸い込まれるんじゃないという錯覚を覚える。ようやく少女はハッと気付いた様子でぶんぶんと勢いよく首を横に振った。
「だ、大丈夫です。えっとその、ありがとうございます……」
きちんとお礼が言えるこの子は決して悪い子じゃない。見た目のかわいさでかなり誤魔化されてしまっているな、とサトミは少女の行動を好意的に解釈しようとしている自分を自嘲する。
(けれど、じゃあどうして私の家を覗いていたんだ……?)
この年代の子供が興味を引くようなものが何かあったかと首をひねる。
(強いて言うなら私の格好か……小学生Youtuberとかもいるし、もしかしてそういうやつかしら?)
「サトミ氏~?どした~?」
部屋の奥からロクの声が近づいてくる。ああしまったコイツがいたか、とサトミは苦い顔になる。これはちょっと面倒くさそうだ
「独り言が部屋まで聞こえまし、ひぃぃ!?」
サトミの巨躯に隠れて見えていなかった少女の姿を、網戸に近づいたことでようやくロクは視認する。コンクリの床にぺったりと座っている少女を発見して彼は悲鳴を上げて後ずさる。急に声を上げてしまったことで少女は顔を上げて彼の動きを目で追った、自分が見られたことでロクは恐れ慄いて部屋の奥へ脱兎のごとく逃げ出し。
(何これ?なんで?なんで幼女がベランダに!?危ない!危ないぞ、距離をとらなくては!)
ロクは一時停止したテレビの前を横切って床に敷いてあったクッションを頭から被る。一体何が起こっているのか落ち着いて冷静に考える必要があった。
(待って待って待って、どういうことだ……?え、幻覚でも見てる?ついに僕は頭がおかしくなったのか……いやいやいやそんなはずは無い。でもサトミの家にいきなり女児が出現するほうが、そんなはずは無いだろ)
クッションの隙間から目を泳がせてこちらを見ているロクの姿にサトミはタメ息をつく、「ロクでもないのロク」というあだ名がついたのは中学の時だったかそれからあいつのロクデナシ度は増す一方だ。とはいえそれは彼の真面目さと心根の優しさから来ていることを十分に理解しているサトミにとって、ロクがロクデナシであればあるほど責める気にはならなくなる。
(とにかく理由を聞いて、怒るべきとこはちゃんと叱ってからこの子を帰そう。家族への報告とかは……理由次第だけど面倒だししなくてもいいよね。)
改めて振り返り視線を戻すと、少女は部屋の奥を指差さしていて。伸ばした人差し指が細かく震えているのは何故だろうか、まさか強盗や変質者でも家に乗り込んできたとでも言うのだろうか?サトミの背筋に緊張が走る。
「そ、その……」
「なあに?」
少女の切羽詰った様子になるべく落ち着かせるため出来る限りの柔らかい表情を作る。場合によってはすぐ警察にでも電話する必要がある、嫌な予感に喉が渇き指先が冷たくなるのを感じた。なんとか気を静めようと唾を飲み込む音が、少女の言葉を待つ耳へ異様に響く。
「私も見せてもらっていいですか?」
「……へ?」
なんの話かすぐには理解できず、サトミは少女が指さす方に視線を向け震えているロクに助けを求めるような目で訴える。しかし彼はぶるぶると首を横に振るだけだった。
続きます。(次は2019/10/16 20:00 公開予定です)