#66 転機
急展開……でしょうか
豊葛十六夜は孤独だ。
彼女は孤独に生き、孤独に在り、そして孤独に最期を迎える。そんな未来が約束されていた少女だった。
理解者はなく。
寄り添う者はなく。
友はなく。
信を置く者はなく。
恋をする相手もなく。
手を掴んで、孤独から引き摺り出してくれる者もない。
……少なくとも、最初はそのはずだった。
一体いつからだろう。そんな十六夜がいつの間にかそんな孤独から脱け出していたのは。
家族の手によって絶望の深淵に沈むはずだった彼女は、いつしか蟻地獄のような絶望から引き上げられていた。
その傍らにはいつも姉代わりの銀色がいた。
その周囲にには、いつも彼女を慕う部下たちがいた。
心の底から掛け値成しに『親友』と呼べる者ができた。
そして、十六夜の隣にはいつでも寄り添おうとする、理解者たる緋色がいた。
血の繋がった家族に見捨てられた彼女は、血よりも濃い水で繋がった心の家族を得ていたのだ。それは十六夜にとって何物にも勝る宝物で、何に代えても守るべきものだった。
だから、十六夜は選んだのだ。
『大切な彼女たちを悪意を持った者たちに傷つけられるくらいなら、自分が傷つく方がいい』と。
「……私の選択に悔いはないわ……」
彼女は誰よりも身近な人間に裏切られたからこそ、心を通わせた相手に優しすぎた。
その結果がこれだ。救済を願った末の結末がこれだ。彼女は大切な人たちを守るために、自ら進んで孤独へと舞い戻ったのだ。
「これでいいの……これでよかったのよ……」
十六夜は枷をはめられた腕を他人事のように眺めながら、自分に言い聞かせるように呟いた。その声は誰もいない広い部屋に吸い込まれ、彼女の孤独さを一層際立たせた。
ここには誰もいない。彼女以外に誰も。親友も、部下も、緋色の付き人も。
改めてそのことを突きつけられたような気がして、十六夜はそっと膝を抱えた。
「……もう何日ここにいるのかしら。それとも数週間? 分からないわ……」
十六夜が連れ去られてから既に数日が経過している。
どこかのホテルのスイートルームにある小さな寝室に閉じ込められたことは彼女でも理解できたが、それだけしか分からない。
閉めきられたカーテンからは木漏れ日一つ差さず、昼か夜か、あるいは今日か昨日かも知ることができなかった。
時間の感覚などとうに狂っている。既に何ヵ月もここにいるのではないかとすら思えてくるほどだ。
「…………」
そのまま十六夜は瞼を閉じ、ここに来てからずっとそうしているように浅い眠りへと沈んでいった。
……
………
…………
それからしばらくして、決して広くない空間に変化が訪れる。
大部屋へと繋がるドアが開けられ、複数の足音が彼女の耳に届く。幾人かの人物がやって来たようだ。
十六夜はゆっくりと目を開けて、やって来た人物を見上げた。
「……何の用ですか。兄様、姉様」
案の定と言うべきか、そこにはここへ連れてきた張本人である兄姉たちがいた。
決して全員が暇という訳でも無かろうに、わざわざ揃っての登場である。余程もことがあったのだろうか。
ニヤつく下卑た顔を見る限りでは、彼らにとって「イイこと」があったのは明白だ。
「よぉ十六夜。まだ生きてるか~?」
「…………」
「チッ、無反応かよ。つまんねぇな」
豊葛家長男である白夜は反応の薄い十六夜に落胆したような表情を見せ、興が削がれたとばかりに露骨な舌打ちをした。
「別にいいでしょう兄さん。こんな出来損ないの愚昧に構う必要ありませんよ。どうせこいつはここでお仕舞いなんですから」
「世界も同じ事を言っている……。既に破滅が決定された者に時間を割く必要はない、と……」
「兄さん、十六夜をもっといたぶりたい気持ちも分かるけれど、そろそろ止めにしておきましょう? この子は私の屋敷の地下に閉じ込められる手筈になっているんですから、お楽しみはその後でも遅くはないのでは?」
腹いせに手を上げようとする白夜とは対照に、他の兄姉たちは用事を手早く済ませる魂胆らしい。
どちらにしろ、十六夜にとっては良くないことだ。
「じゃあ私から言わせて貰うわ、兄さん」
「ケッ、勝手にしてろサド女」
白夜を引き下がらせて、千夜は座り込む十六夜の頭に自らの顔を近付ける。
そして彼女の耳元に口を持っていき、さも地獄の悪魔であるかのように――――浮わつく魂を地獄へ引き摺り込まんとするかのように囁くのだった。
「あなたは私の屋敷に運ばれるわ。地下室でおもちゃとして、ね……ふふふ」
「…………」
深い絶望に突き落とさんと囁かれた言葉は、かねてから十六夜が想定していた己の未来のことであった。
この血のつながった姉は、自分のことを愛玩動物かそれ以下としか見ていない。そのことを地獄の数年の間に身をもって知った彼女にしてみれば、捕らえた自分をどうするかは簡単に想像がつくことだ。
自分は二度と日向の下に行くことはできないであろうという確信を抱きながら、肯定も否定もせず俯くことしかできなかった。
「世界は言っているわ。お前のような正当ならざる簒奪者にはお似合いの最期だ……って」
「まぁ、精々お疲れさまでしたってことですよ。ゆっくり死んでっていけ、愚昧」
「…………」
十六夜は何も言わない。何も語らない。
何か喋れば、それだけで覚悟が薄まってしまいそうだったから。
待ち受ける未来に逆らいたいという生存本能が暴れて、守りたいものを守れなくなってしまうから。
やがて案山子のように口を噤んだままの十六夜の反応に飽きが差したのか、口々に罵倒し続けていた兄姉たちは面白くなさそうな顔をする。
小さい頃のように泣き叫びながら抵抗するところを見たかったらしい。
「……やれやれですね、微塵も面白くない。すっかり冷めてしまいました。先に帰らせてもらいますよ、これでも多忙な身ですので」
「何が多忙だよクソが、俺もずらかるぜ。後は勝手にしてろサド女」
「……世界以外と言葉を交わす舌は持っていない。私も教会に帰る」
一同の間に白けた空気が漂い、千夜以外はそそくさと出て行ってしまう。
残された彼女は、まるで宣教師が蛮族に信仰を理解されなかったときのような、なぜこれが分からないのかという表情をするのだった。
「おかしいわねぇ……あなたを酷い目に遭わせられるだけでこんなにも楽しいというのに……まぁいいわ。私も早く帰らないと」
正真正銘の怪物は一人、誰にも理解されることのない心情を吐露した。ともすれば、吐き気がするほどの天然さであった。
純粋に楽しさを理解できないことが理解できないのである。怪物と呼ばずしてなんと呼ぶべきか。
豊葛家の子供全般に言えることだが、いっそおぞましい人の形をしたナニカであるというべきだ。
ともあれ、用事は終わってしまった。
するべきことをすべて終わらせてしまった以上、速やかに千夜も自分の屋敷に戻らなくてはならない。
ここで十六夜で遊べないことに口惜しさを感じる彼女だったが、自制心を利かせて大人しく引き下がることにするのだった。
……しかし、ただでは帰らないのが彼女である。
「ああそうだわ、十六夜?」
「…………」
扉に手をかけようとしたその瞬間、ふと千夜は思い出したかのように十六夜に声をかける。
「あなたのところのメイドちゃん、なんていう名前だったかしら。あの赤い髪の」
「ッ……!?」
突然出てきた大切な存在の話題に、十六夜はビクッと肩を震わせた。
――――猛烈に嫌な予感がする。冷や汗が噴き出してやまない。
ここに来て十六夜はようやくまともな反応を見せた。そのことに気をよくしたのか、千夜は口の下に手を当ててその名前を思い出そうと記憶を掘り越す。
「何だったかしらねぇ。とても鮮やかな色の髪で、とても気高い雰囲気を纏ったあの子。あなたに負けないほどの輝きを見せていた緋色の子……たしか名前は……」
「やめて! かれ……彼女には手を出さないで!!」
千夜の顔に極めて残虐な嗜虐的笑みが浮かぶのを見て、ついに十六夜は声を荒げる。それがより一層彼女を興奮させてしまっていることに気が付かず。
自分と引き換えにしてまで守った華炎に手を出させないようにするため、十六夜は何もしないよう必死に懇願した。
「あの子は関係ないでしょう!? やめて! やめてください姉様! だから華炎だけは……! あっ」
そして感情的になりすぎるあまり、不用意にも口を滑らせてしまった。焦りに焦った結果の十六夜らしからぬミスだ。その迂闊さを彼女は呪った、
「へぇ、そうなの。華炎ちゃんって言うのね……教えてくれてありがとう十六夜」
「あ、あああ……!!」
「そんな顔しなくていいの。安心して頂戴? 華炎ちゃんも私がた~っぷり可愛がってあげるわ。そんなに心配なら、あなたと同じ場所に繋いであげるわよ……ふふふ」
「お願い姉様! 姉様! やめて姉様!」
千夜の言葉で絶望する十六夜の脳裏に、緋色の髪の少年の顔がよぎった。屈託のない笑顔を浮かべて全幅の信頼を預けてくれる、初めて信頼したいと思えたあの顔が。
その顔が今、豊葛千夜の手によって歪にされてしまう。笑顔が奪われてしまう。
今度こそ十六夜は心の底から絶望した。
「あの子とっても好みだわぁ……。あなたほどではないけれど、身を挺して仲間を庇う高潔さとか、あなたに向ける全面的な忠誠心とか……そんなあの子の心を折ったら、一体どんな顔をしてくれるのかしら? 楽しみが一つ増えた気分よ」
「華炎……華炎……!」
これ以上ないほど高笑いを上げる千夜。とびきり絶望した表情の十六夜と、新たにできた『お楽しみ』に笑いが止まらない。
まさに愉悦。まさしく嗜虐。他者を痛めつけることへの悦びの神髄がここにある。
高潔な人物を穢す快感。屈強な精神をへし折る達成感。それによって高められる自らの高揚感! その全てを彼女は味わっていた。それはこの世のどんな果実よりも甘美で美味なることだろう。
他者を破壊するという事は、彼女の中で何物にも勝る悦びなのだから。
「そんな……私は華炎を……守れないの……?」
十六夜は自分どころか守るべきものさえ守れなかい事実に、海の底よりも深い絶望を抱く。
「あの子はどうしようかしら……砕くだけ心を砕いた後、私のメイドさんにするのも面白そうね……ふふふふふ……!!」
そんな十六夜に見せつけるようにして、千夜は脳内で繰り広げられる妄想に精を出すのだった。
第三の声がしたのは、その次のことである。
「お生憎様ですが、私は十六夜さん以外のところに就職する気は毛頭ありません」
不意に響いた第三者による声に片方はまさかと思い、もう片方は何事かと警戒する。
「え――――」
「どこから――――」
「窓から離れてください十六夜さん!」
部屋の外側から声がした刹那、閉め切っているカーテンごと窓を破壊しながら、一陣の緋色が二人の間を吹き抜けた。
ガラスの破片を部屋の中に撒き散らした闖入者は、素早く座り込む十六夜を抱きかかえる。
「まさかあなたは……!」
「ど、どうして……どうしてここに!?」
戸惑う十六夜の声に、その人物は短い言葉で答えた。
「あなたを助けに参りました」
その声はあまりにもよく知っているもので、その姿はあまりにも……脳裏にこびりついて離れない【緋色】だった。
「華炎っ!」
そう叫ぶ十六夜の顔は、うって変わって喜色に満ちたものだ。
チカレタ……_(:3」∠)_