#62 絶望。あるいは悲劇の結末
今回、なんと個人最長の一万一千文字となってしまいました。区切りのいいところで終わらせることができず、中々投稿できませんでした……
世の中にはこのぐらいの作業を三日以内に終わらせられちゃう人が少なくないようですが、どうやら私はまだまだのようです……
目が覚めたら、まず最初に見慣れた屋敷の天井が視界に入りました。シミ一つない、真っ白で清潔に保たれた奇麗な天井です。
見慣れているとはいえ、その行き届いた手入れには感心してやみません。
いつもありがとうございます先輩方の皆様。
……そんな感謝を経て、私はようやく自分の置かれた状況を把握することができました
「……あれ? なんで私、自分の部屋で寝てるんですか……?」
どうやら私は、自分の部屋で横になっていたようです。
この一ヶ月ちょっとですっかり体になじんだベッドの感触が、ここがいつも使っている床であることを雄弁に物語っていました。
しかし、それが余計に私の混乱を助長させていることは言うまでもありません。
私は一体なぜ、そしていつからこのベッドの上で寝ていたのでしょうか。しばらくの間そのことばかりを考えて、ぼーっとしていました。
なんとなく首筋がヒリヒリと痛むのが気がかりです。首を怪我するミスなんてした記憶がないのですが……?
「……思い出せない……」
結局、数分かけて一連の出来事を思い出してみようとしても、私の疑問は何一つとして解決されることはありませんでした。
思い出せないものは、いくら思い出そうとしても仕方がないというもの。
何があったかは分かりませんが、仕事に戻りましょう。それが一番いい。
私はベッドから上半身を起こして、頬をぺちぺち叩いて気を入れなおしました。
「よし! 気合い、那由他パーセントです!」
「入るわよ……華炎……」
いつもの景気付けをしたところで、丁度よくセレンさんがドアから現れました。
やけに暗いトーンで、浮かべた顔からも憔悴した様子が見て取ることができます。
私はちょっとだけ思考の鈍い頭で、深く考えることなくいつもの調子であいさつをしました。
「あ、おはようございますセレンさん!」
「ッッ……!? 華炎、目が覚めたの!?」
どうしたことでしょう。セレンさんがとても驚いた表情でこちらを見てきます。
鳩が豆鉄砲を食ったよう、とはこのことか。おちゃらけた言い方をするなら、シュールっぽい顔です。
「セレンさん? そんな宇宙人を見たような顔をして、どうされたんですか?」
固まって動かなくなってしまったセレンさんに恐る恐る言葉をかけると、次の瞬間に私は彼女の腕の中にいました。
「はえ……? セレンさん?」
「よかった……! 本当によかった……!! もう目を覚まさないかと…………あなたまでもいなくなってしまうかと思ったわ……!!」
「え、ええ? あ、あのあのあの。どうされたんですか?」
ベッドの上で身動きの取れなかった私は、どうやらセレンさんに抱きしめられているらしい。
強く抱きしめられているせいで首がちょっとだけ痛みましたが、それ以上にセレンさんの様子に強く戸惑ってしまいます。
セレンさんは私に抱き着いて、よくわからないことを口走りながらぽろぽろと涙を零していました。
本当に何があったのでしょう……
こんなに泣いているセレンさんは見たことありませんし、抱きしめられたこともありません
セレンさんらしくない行動に、混乱を隠すことができませんでした。
「お、落ち着いてくださいセレンさん! 何があったか分かんないですけど、まずは泣き止みましょう! メイクも崩れちゃいますから、ね?」
「ええ……ええ……!!」
まずとめどなく涙を流し続けるセレンさんを宥めすかし、彼女の呼吸が落ち着いたところで引き離しました。
知り合いが泣いているところは、あまり見ていて気持ちがいいものではありません。それが喜びからくるものでなく、悲しみから来る涙であるなら猶更に。
「大丈夫、大丈夫ですよ~。私はちゃんとここにいます。勝手にいなくなったりなんかしません」
その後も優しい言葉を投げかけて、セレンさんがいつもの平静さを取り戻すまで待ちました。
「ご、ごめんなさい華炎。らしくもないことをしてしまったわ……」
「気にしないでくださいセレンさん。泣いてしまうのは悪いことばかりじゃありませんから」
セレンさんがすっかりいつもの『かっこいいセレンさん』に戻ったところで、私は早速今の状況を尋ねることにしました。
自分がなんで寝ていたのか、今は何時なのか、いろいろ聞きたいことは山積みです。
「それでセレンさん、どうして私はここにいるんですか?」
「え……?」
しかし、セレンさんはその一番最初の質問で、ぎょっとした形相で私の方を見てきます。
「……あなた、何も覚えていないの……?」
「え? 覚えるって、何をですか……?」
「覚えていないの!? お嬢様のことは? 押し入ってきたやつのことは? あなたがやられたことは?」
「は、はい? あの、ごめんなさい。どういうことなんですか?」
詳しいことは何も分かりませんが、セレンさんと私との間で妙に会話が成立していません。
どうにも、セレンさんが知っていて私の知らないことがあったように聞こえますが、どうなのでしょう。
セレンさんは自分を落ち着けさせるために深呼吸を繰り返し、つとめてゆっくり言葉を紡ぎました。
「……あなたは、自分が倒れる前のことを覚えているのかしら……?」
「私が倒れる前……?」
倒れるというと、私は仕事の中の事故で気を失ってしまったということなのでしょうか。
でも、それじゃなんで私はそのことを覚えていないんだ……?
倒れる前の記憶、倒れる前の記憶、倒れる前の記憶……
頭の中の記憶を司る部分をフル稼働させて、それらしき記憶を引っ張り出そうと頑張ってみました。
色々と思い起こしてみましたが……
「……ごめんなさい、何も思い出せません」
「そう、なのね……」
どうあがいても、私が何かしらの事故で倒れるという記憶は思い出せません。
昨日の夜のことなら覚えているのですが、今日起こったことは何も覚えていませんでした。
今朝は何をしましたっけ……何を食べたのでしょうか。
まるで鋏でその部分だけを切り取られたかのように、まるまるすっぽりその記憶だけが抜け落ちているかのようでした。
「防衛反応が働いた……? でも記憶を忘れさせるだなんてこと、今まで聞いたこともないわ……」
「セレンさん……?」
「一時的な記憶喪失ならともかく、そんな局所的な記憶だけが欠損するなんて都合のいい話があるの? いえ、あるいは」
セレンさんはぶつぶつと呟きながら、何か考え込みはじめてしまいます。
私が今日起こった出来事をきれいさっぱり忘れ去っていることに、仮説を巡らせているようです。お嬢様が脳に関連する本などを読んでいたので、セレンさんもそういう方面の知識があるのかもしれません。
「ねぇ華炎、本当に思い出せない?」
「思い出すって……記憶ですか?」
「人間の記憶はね、『具体的な物事』と『そのとき思った感情』の二つに分けられて脳に保存されるの。今のあなたは、そのうちの『具体的な物事』を忘れた状態にあるわ」
「……つまり、『感情』の方の記憶は残っているはずだ、と?」
「そういうことよ」
感情……感情ですか……。言われてみれば確かに、思い当たるものはありました。
何か、大事なことがあったような気がします。
それが何かと言われると言語化するのは難しいですが……そうですね、強いて言うとすれば、
「……とても悔しかったような、あるいはとても許せなかったような……そんな感覚がします」
私の内側で、『怒り』と『後悔』の二つが渦巻いていました。
なぜかは分かりません。しかし、確かに私の胸の内側ではドス黒い想いが鎌首をもたげています。
思い出せない……どうしても思い出せないんです。こんな感情を抱くほどのことがあったのに、全然覚えていません。
何があったのか、知りたい。
「教えて下さいセレンさん。この屋敷で、一体何が起こったんですか?」
「そ、それは…………わかったわ」
背筋に冷たいものが走る感覚を押さえ付けながら、私はセレンさんに問いました。
一瞬だけ、彼女は話すことをためらうような素振りを見せます。しかし誤魔化しきることもできないと悟ったのか、苦しげな表情をしながらゆっくりと語り始めるのでした。
「まずは落ち着いて最後まで聞いて。いいわね?」
「は、はい」
「お嬢様が……お嬢様の兄姉たちに連れ去られたわ……」
「…………え?」
続けてセレンさんは、事のあらましをかいつまんで教えてくださいました。
―――――――――――――――――――――――
トラップ☆トラップ☆ガーリートラップ!
―――――――――――――――――――――――
「この代償は、安く済みませんよ?」
まずは屋敷を荒らしたツケを払ってもらいましょう――――そう嘯きながら、華炎は四人の兄弟姉妹に歩み寄っていく。
華炎が一歩踏み出すたびに、彼らはあからさまに狼狽えながら後ずさった。
「な、何だよテメェ……お、俺たちに逆らっていいとでも思ってんのか?」
「申し訳ありませんが、私が聞くのはお嬢様ただ一人の命令です。逆らうも何も、あなたははじめから私にとって赤の他人でしかありませんよ」
「は、はははは! 果たして本当にそうですか? 私は豊葛、豊葛雨夜なんですよ? このまま私に手を上げたらどうなるか分かって――――」
「おや、これは妙なことを宣いますね。そちらこそ私たちのお嬢様に手を出して、ただで済むとお思いなのですか?」
情けない負け惜しみの言葉を吐き捨てる白夜と雨夜に鋭い視線を向けて、華炎は侮蔑と怒りという負の感情を隠すことなく買い言葉で返した。
普段なら冷静に切り捨てるであろう珍しくまともじゃない人間と、華炎がまともな会話をしている。贔屓目に見ても、明らかに頭に血を昇らせてることが分かるだろう。
事実、華炎は本気でキレていた。一度や二度のみならず、三度まで十六夜を苦しめようとしているのだ。温厚な彼であっても、怒り心頭になるのは当然だろう。
固いローファーで足音を立てながら、胸の前で握りこぶしを作る華炎。
その素振りを見て、この中で一番年上であるはずの白夜はただ喚き叫ぶことしかできなかった。
「クソが! おいお前ら、さっさと俺を守れ! 元はと言えばお前らが始めたことだろ!?」
「嫌よ。痛い目に遭わせるのは好きだけれど、痛い目に遭わされるのは好きじゃないわ」
「世界は言っている……第一にあなたは支配者に相応しくない。だから私のために犠牲になりなさい……」
どうしてこうも、目の前にいる人間たちはお互いを口汚く罵り合いをすることができるのだろう。どうして家族なのに蹴落としあえるのだろう。
華炎にとって……家族が唯一無二の代えがたいものと認識していた華炎にとって、豊葛という家がとにかく歪に見えて仕方がなかった。
――――なぜ、こんな人間たちのために十六夜が傷つけられなければならなかったのか。そう考えれば考えるほどに腹が立ってくる。
「ふざけるな……」
危機的状況にも関わらず内部分裂をするばかりの光景に、華炎はとうとう憎悪の色を浮かべるようになる。
「ふざけるなよッッ!!」
我慢の限界だった。朧と会話をしたときに爆発した怒りは飲み込むことができたが、今度こそ抑えようのない際限なき怒りが溢れ出てくる。
その身勝手さが、その利己的な考えが、他人を何とも思わない素振りが、どこまで行っても自分本意でしかない彼らの存在そのものが、ついに華炎の――――ひいては村雨焔の逆鱗に触れたのだ。
「どうして家族に手を挙げられるんですか!? どうしてつまらない地位のために妹を傷つけられるんですか!? どうしてそんな自分以外のものが目に入らないんですか!?」
今までに見たことのない剣幕でいきり立つ華炎。
そのプレッシャーたるや、後方にいるセレンをはじめとしたメイドたちでさえ足がすくむほどである。それも半ば十六夜の私兵として少なくとも修羅場を潜り抜けてきた彼女たちがだ。
セレンもまた例に漏れず、華炎の言葉一つで肌がひりつく錯覚に襲われていたのだった。
「か、華炎ちゃん……」
「華炎……」
無論、四兄弟姉妹に至ってはさえずることすら不可能である。
「ここから出ていけッ! お前らなんかにお嬢様は渡すものか!! 二度と私たちの前に姿を見せるな!!」
そのまま華炎は屋敷から立ち退くことを突き付けて、金輪際関わらないことを約束させようとした。
「選べ。ここを去って慎ましく生きるか、それともお前たちの手下と同じようになるか!」
わざとらしく足元で芋虫のように這って気絶している男に視線を向けながら、華炎は選択を迫る。
彼らからすれば、これは究極の二択だろう。保身のために逃げ出せば野望は叶わなくなる、かといって野望を優先すればどんな目にあうかも分からない。
どちらにせよ、片方を選んでも明るい未来がないことには違いない。
「み、認めねぇ……! 俺が、この俺がこんな……!!」
「十、九、八……」
いつまでたっても狼狽えるばかりで選択をしないことに痺れをきらし、カウントを始める。数字がゼロになったら、どうなるかは言うまでもないだろう。
そんなときだった。
「――――華炎!」
「七――――お嬢様!?」
セレンたちが築き上げた防衛線の向こうより、濡れ羽色の長い髪を揺らしながら十六夜が走ってきたのだ。
秒読みをやめて、華炎は十六夜の方に向き直った。
「華炎、待って! 待ちなさい!」
バリケードを抜けて華炎のもとへ寄ろうとしたところをメイドに止められつつも、十六夜は声を張り上げて彼を制止した。
どうして十六夜が安全な自室から出てこっちに来たのか、という疑問を抱く暇もなく華炎の思考はその言葉に向けられる。
「華炎、そいつらを殴らないで!」
「お嬢様……?」
「……やっぱりこうなったわね……」
突如として家族を擁護するような行動をする十六夜の姿に、華炎は困惑するほかなかった。なぜ自分を害そうとした相手を庇うのだろう、と。
その一方で、セレンは一人予測通りの事態になったことに歯噛みするのだった。
勿論他のメイドたちもどういうことだと当惑している。
そして十六夜はバリケードから見て華炎の向こう、血の繋がった四人の兄姉と言葉を交わした。
「よくも姿を見せれたわね、十六夜。世界も厚顔無恥と罵っているわ」
「十六夜ィ……! テメェ……!!」
「……お久しぶりですね。兄様、姉様」
噛みついてくるパラノイドとクズ男をいなし、十六夜は「何を言っているのか分からない」という顔をする緋色に頭を下げる。
「あなたの気持ちも分かるけれど、私は兄様たちと同じになりたくなんかないわ。だからお願い華炎、抑えて頂戴……」
「お嬢様……」
「私を『豊葛』にしないで」
十六夜は自分の家である『豊葛家』を嫌っている。故に豊葛の名字で呼ばれることを忌避し、初対面の華炎にも名前の十六夜で呼ぶことを強制したのである。
しかし、もしもここで華炎が怒りに身を任せて彼ら四人に暴力を振るえば、その主である十六夜は同じ穴のムジナということになってしまう。
かつて自分がされた仕打ちをそっくりそのまま「暴力」という形で返すことは、結局は自分も争えぬ豊葛の血を引いているということの証明になるのだ。
十六夜はそれだけはよしとしなかった。
「……分かりました……!」
華炎はそんな真剣な想いを聞かされて、なおも食い下がれる人間ではない。噴火した怒りの炎を理性という名の檻に封じ込め、十六夜の言うとおりに出しかけた拳をひっこめた。
村時雨華炎とは、献身を誓った相手のために己を殺せる人間である。
震える声が憤怒の本能を抑えようとしていることの証明だろう。
「ぐッ……オォ……!!」
そんな華炎の足元で、ダークスーツを着た男の一人が目を覚ましていたことに気づくことなく。
「……お嬢様に感謝しなさい」
最後に四兄弟の方へ振り向きながら、そんな台詞を吐き捨てて華炎は完全に背を向けたのだった。
――――それが唯一無二の、これ以上ないチャンスを相手に与えることになるとも知らず。
「ウオオオオォォォォォ!!」
「な――――ッ!?」
背を向けた華炎の隙をついて足元でくたばっていた男が跳ね起き、華炎を無力化せんと組み付く。
怒りを飲み込んで背を向けた、その一瞬の隙がその組み付きに反応する猶予を奪った。予想外の不意打ちで体が動かず、回避行動をとれない。
両腕の動きを封じられて足技も出せないほど密着を許してしまう。そして、男の手には武骨な造りをした箱のようなモノ――――スタンガンが。
「しま――――」
「華炎!!」
「させるか!」
十六夜が悲痛に叫び、セレンが部下の制止を振り切ってバリケードから飛び出す。
だが悲しいかな。バリケードから華炎たちのいるところまでには短くない距離の隔てがあった。
セレンが到達するよりも早くスタンガンは緋色の髪の隙間から首筋にねじ込まれ、男によってスイッチが押される。
「あぁッッッッッ!?!?!?」
市販のそれを改造し遥かに上回る電流を流せるようになった違法スタンガンは、その威力を余すことなく華炎に喰らわせた。
今までに感じたことのない痛みを人体構造上の弱点に叩き込まれ、華炎は一瞬意識を吹き飛ばされる。
一度目の放電が終わる頃には瞳は限界にまで開かれ、手足はだらんと力なくぶら下げられていた。開いたまま塞がれない口に至っては血の混じった赤い唾液が垂れ流されていた。
「お前ェェェェェェェ!!!」
かけがえのない大切な部下を傷つけられ、今度はセレンが激昂する。
華炎を縛る男の顔を砕かんと接近するも……
「近づくんじゃねぇ!」
その男の後ろで四兄弟姉妹の長男、白夜がそれを制止した。
「近づくなクソメイドども! こいつがどうなってもいいのか? ああ!?」
「クソッ……貴様ァ!!」
白夜は男からスタンガンをぶんどり、華炎の首筋に突き付けながらセレンたちを脅す。
華炎のために動くことのできないセレンは、殺意を乗せた目で白夜たちを睨むことしかできなかった。
「十六夜! てめぇがこいつの身代わりになれ!」
「……!?」
調子づいた白夜はいいことを思いついた、とばかりに愉快そうな顔をして十六夜に声をかける。人質交換をしよう、と。
「お前が一人でこっちに来て俺たちの【ホリョ】になるってんなら、このクソメイドを離してやる。分かるか? お前がこいつの代わりになるんだよ!」
「え……?」
「馬鹿なことを……!」
「テメェは黙ってろクソメイド!」
十六夜は人質交換の交渉を聞かされ、その選択に揺れ動いていた。
「私が身代わりになれば、あの子を助けられる……?」
「駄目ですってばお嬢様! それじゃ意味ないですよ!」
「しっかりしろ! 冷静になれお嬢!」
「華炎ちゃんが心配なのはわかりますけど、いくら何でもお嬢様が代わりになったら……!!」
「で、でも! でも華炎が!!」
いつもの十六夜らしくないことだ。普段ならメイド一人と自分の身柄との交換など、割に合わないと鼻で笑って交渉を蹴るところだろう。
それがどうしたことか、酷く迷っている。
メイドたちも必死になってとめようと説得しているが、目に見えて焦っている十六夜を正気に戻すことができない。
「華炎が! 華炎が……!」
……それはある意味、華炎の努力が結んでしまった『悲劇』なのかもしれなかった。
華炎が十六夜と接し身近な付き人になってしまったから。
自らを省みない献身をしてしまったから。
人を信じきれない十六夜が拒絶しても、諦めず支えようとしたから。
何度も意地悪をしても、華炎が変わらぬ信頼を預けてしまったから。
付き人として接して、不意に男性らしい一面を見せてしまったから。
いつの間にか……華炎も本人である十六夜さえも知らないうちに、彼女の中で村時雨華炎という存在が大きくなりすぎていたのだ。
だから彼が傷つけられただけで、十六夜は酷く動揺しているのだろう。
「お嬢……様……!」
意識を手放しかけていた華炎が、弱々しく十六夜を呼ぶ。
強力なスタンガンとはいえ、一撃だけでは完全に沈黙させるには至らなかったらしい、
「華炎!?」
「な!? あれを食らって無事なのか……!?」
華炎のその並外れたフィジカルに、白夜は心底驚いた。十六夜はこんな危険なヤツを飼っていたのか、と。
他の兄弟姉妹たちもまた、同じように驚愕している。
華炎は残された気力を振り絞り、交渉に応じないよう訴えた。
「セレンさん、皆さん……! 私に構わないでこいつらを……!!」
だが、それを許す白夜ではない。
「クソガキィィィィ!!!」
目一杯スタンガンを気道に押し当て、スイッチを押す。
「―――――――――――!!!」
声にならない悲鳴を上げ、もう一度高圧電流が華炎を襲う。
今度はさっきよりも出力を上げ、そして長時間放電されている。
「お、お……お嬢さ――――」
「黙れ!」
「――――――――――!!!」
三度目の放電。
直後に四度目。
それでもなお意識を残していたため五度目、六度目、七度目の連続放電。
常人なら脳が損傷しているだろう。さしもの華炎も、ついに意識を失った。
「華炎ちゃーーーーん!!!」
「うちの華炎ちゃんに手ェ出したなァ!?」
「絶対に死ぬまでブッ殺す!!」
「ゴミ掃除のお時間ですわァァァァ!!」
その非道な所業を目にし、他のメイドたちの怒りも頂点に達する。
過半数が武器を手にし、ばりけバリケードを飛び越えていった。
しかし――――
「分かったわ! 要求を呑むっ!!」
「え?」
「お嬢様……!?」
十六夜が白夜たちに向かって、人質の交換に応じることを宣言したのである。
もちろん、メイドは皆セレンも含め再三に渡ってやめるよう訴えた。
だが十六夜は駆け寄るメイドたちの手を撥ね退け、真っ直ぐに白夜たちの藻もとへ歩いていく。
「お止めくださいお嬢様! お嬢様!」
「ダメです! そんなの華炎ちゃんだって……!」
「止めないで!!」
力づくで止めようと考えたものもいたが、これ見よがしに白夜がスタンガンと気絶した華炎をアピールしている。「余計なことをすれば殺す」とでも言いたげだ。
彼女たちは己の無力さにはを噛み締めながら、十六夜が自ら犠牲になることを見守ることしかできなかった。
「……兄様」
「ははは! そんなにこのクソメイドが大事か? ええ?」
「…………」
そして十六夜はセレンの前をも通り過ぎて、白夜と相対して歩みを止める。
あれだけ反抗していた妹が大人しく言うことを聞くようになったのがそんなにおかしいのか、白夜はしきりに笑い声をあげた。
十六夜は何も言わずただ浴びえた目をしながら白夜と、彼の後ろにいる兄姉たちの顔を見るのみだ。
「は、はははは……ほ、ほら見たことですか。私の作戦は間違っていなかった!」
「そうねぇ、あの子が私のもとに戻ってくるならそれより嬉しいことはないわ」
「世界ははじめからこうなることを私に教えていた。今更誰かをたたえる必要もないわ。これは世界の決めた予定通りの出来事。つまり予定調和よ」
相変わらず、彼らはどこかかみ合わない壊滅的な言葉のドッジボールをしていた。
十六夜はこれから先彼らの許でどんな目に遭うのか、今更になって恐怖するのであった。
「……華炎……」
目を開けたまま気絶している緋色の従者の姿を見て、彼女は想う。もしも彼が目を覚ましたなら、自分を助けに来てしまうのだろうか。
華炎を救うために自分を犠牲にしたのに、自分の決意を蹴飛ばして来てしまうのだろうか。
……それはなんだか、助けを待つ絵本の中のお姫様みたいで嫌だ。
「……みんな、私からの最後の命令よ」
「え?」
『最後の命令』という不穏な言葉に、その場にいたメイドの全員が固まる。
全員の意識が向けられたことを確信して、十六夜は笑った。
「私を助けに来ないで。私のために、もうこれ以上誰も傷つかないで」
「……!?」
「そんな!」
「私のことは忘れなさい。それがきっと、だれにとっても悪くないことよ」
廊下の向こうから複数の足音が聞こえてくる。大人の男の、四兄弟姉妹のたちの増援だ。
彼らがやってくれば十六夜は直ちに拘束され、本当に連れ去られてしまうだろう。そうなる前にセレンは主に向けて、精一杯の抗議をした。
助けるな、などという命令は聞けないと。
「お嬢様! 何を仰るのですか!? お嬢様!」
「ごめんなさいセレン。こんな私だったけど、今まで尽くしてくれてありがとう。あの日助けてありがとう。私のために、ずっとそばにいてくれてありがとう」
「そんな、今生の別れみたいな言葉……!!」
セレンが言葉を続けようとしたが……
「はーいダメ―!! 残念だったな! 時間切れだ!」
白々しい白夜の笑い声とともに、男たちがこの区画の廊下に雪崩れ込んできた。
相変わらず全く統一感のない勢力だが、頭数だけはある。士気の崩れた屋敷のメイドたちではもう太刀打ちできないほどの差が広がってしまった。
「拘束して表の車に乗せろ! 早くな!」
「ウッス! オラ、この小娘だ! 行くぞ!」
そのまま男たちは十六夜を取り囲み、乱暴に扱いながら屋敷の外を目指して歩きだしていった。
「お嬢様! お嬢様! 待ってくださいお嬢様! お嬢様ぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
「おっと、忘れもんだ。受け取りな」
「華炎ッ!?」
それでも追いすがろうとしたセレンだったが、今まで男の手の中で気絶させられていた華炎を投げつけられてしまう。
まるで物か何かのように扱われる華炎を抱きとめた彼女。しかし、その隙に白夜たち一行は角を曲がって見えなくなってしまった。
他の四兄弟姉妹も同じように、姿を消してしまっている。
「お嬢……さま……」
セレンは緋色の髪の少年を抱きかかえ、膝を突いて呆然とすることしかできなかったのだった。
「お嬢様あああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」
次回はちょっとした休憩が入ります。
今後の本編はシリアス一直線なのでその休憩にどうぞ