#58 最後の安らぎ
――――それは例えるとするならきっと、「嵐の前の静けさ」ではなく、朝が明けるまで陽が沈むようなものだったのではないかと、今にして私は思ったのです。
死という落陽を迎える前の、最後の晩餐のように――――
マグノリアさんとお話ししてからしばらく。時計の短針がいくらかの目盛を通過し、東の地平線の斜めより顔を覗かせていた太陽が中天に差し掛からんとする頃。
「今日はいい天気ね」
「そうですね。暑くもなく、寒くもない素敵な日です」
月光館の二階でぽかぽかな陽気に包まれながら、私はお嬢様のティータイムの給仕をしていました。
「ゆっくり楽しみましょう、お嬢様」
「そうさせてもらうわ」
今日は療養のための日ですので、いつものように株の取引だとか商談などのお仕事は全てお休みです。もちろん学校の予習復習もありません。
とにかく徹底した心を落ち着けるためのスケジュールを、セレンさんと一緒に考えて組んできました。
お嬢様は日曜日にも働いているのですから、せめてこんな日くらいはしっかり休んで欲しいものですね。
そんな思いを抱きつつ、中身のなくなったティーカップを一瞥してお代わりを勧めました。
「お嬢様、新しい紅茶は如何ですか? この前セレンさんが高いお茶っ葉を買ってきてくれたんです。淹れ方も教わったので、どうでしょうか」
「へぇ、それは美味しそうね。頂こうかしら」
「かしこまりました。新しいお茶菓子の補充と一緒にどうぞ」
ささっと迅速かつ正確に精密にお茶を淹れ、お皿に乗せたお菓子と共にお嬢様へお出しします。
「はい、お待たせ致しました。このお茶はジャムを入れると美味しいですよ。それからスコーンの補充です」
「ありがとう、華炎」
この紅茶はいわゆるロシアンティーで、専用のジャムを溶かして混ぜることで更に美味しくなるものです。
わざわざ北の国から取り寄せたとのことですから、その美味しさは折り紙つきでしょう。私が飲むわけではありませんが、とてもいい香りがしてきます。
きっとお嬢様も気に入って頂けるはずです。
「これがジャムね」
お嬢様は一緒に運んできたジャム瓶に手を伸ばし、きゅぽんという可愛らしい音を立てながらアルミ製の蓋をひっぺがしました。そのまま蓋を開けた手でスプーンを掴むと、ほんの少しだけジャムを取り出します。
いちご特有の甘酸っぱい香りが鼻腔を刺してきて、これまた新鮮で美味しそうなジャムです。お菓子にも使ってみたいなぁ……
続けてお嬢様は赤いイチゴジャムを紅茶の中に落とし、ティースプーンでかき混ぜます。ジャムが溶けてなくなったことを確認すると、スプーンを置いてカップを手にしました。
中の紅茶を揺らしながら香りを楽しむお嬢様。匂いを嗅ぐにつれて頬が緩んでいるところを見るに、いい反応ではないでしょうか。
最後に口をつけて赤い液体を嚥下し、味を確かめました。
「……なるほど、確かに美味しいわね。お茶がいいのもあるけれど、あなたの入れ方が上手なのかしら」
「えへへ、ありがとうございます」
どうやらお気に召してもらえたようです。後でセレンさんにもお嬢様が喜んでいたと伝えておきましょう。
なんてことはないという顔をしつつも、内心はとても喜んでいる彼女の姿が浮かぶようでした。
そんな微笑ましい光景を想像していると、お嬢様が
「あなたは本当に飲み込みが早いわね。まだ一ヶ月くらいしか経ってないのに、もうベテラン並みの仕事をするんだもの」
「いえ、そんな! 私はまだ未熟です。セレンさんや先輩たちには及びませんし、付き人見習いの文字も取れていません」
「それでもよ。きっと将来、あなたは優れたメイドになるのは間違いないわね」
……それは果たして喜ぶべきことなのだろうか。今後も女装をしてメイドをするつもりはないのですが……。
「あはは……そう仰っていただけるのは光栄ですが、私は男なんですけどね……」
「何を言うのかしら。私が誉めるなんて滅多にないんだから、感謝しなさい?」
「フクザツだなぁ……」
「うふふふ……」
さてはこの人、私がこういう微妙な反応することを分かって敢えて誉めましたね? その笑い声はそういうことですね?
人間は弱っても弱ってなくても、そういうSっ気があるところは変わらないんだなぁとしみじみ実感します。こんなところで実感したくありませんでしたが。
性別を貶されたという理由で、セクハラを訴えてやりましょうか。ついでにパワハラでも訴えれば百点満点です。このご時世なら勝訴は間違いないでしょう。
勝ったながはは。
……まぁ実際のところ、こんな生活も悪くないと思ってしまっているわけで……。お嬢様を訴えるだなんて、この先何があってもあるはずがないんですけどね。
そんな従者いじりもほどほどに、お嬢様はもう一口紅茶に口をつけました。
しかし、カップをソーサーに置いたその直後。
「ねぇ華炎、ちょっとお話をしましょう」
「お話、ですか?」
突然、何の脈絡もなくお嬢様は話をしたいと言い出しました。
本当に突拍子もなく言い出したので、思いがけずおうむ返しでその意図を訪ね返してしまいます。
「特に深い意味はないわ。ただあなたと他愛もない話をしてみたくなった、ただそれだけのことよ」
「そ、そうですか」
お嬢様の話を聞く限り、私と雑談をしたいというように聞こえますが、どうしたことでしょう。今まではそのような無駄な話をしたことはあまりなかったはずですが……
首をかしげる私をよそに、お嬢様は席に座るよう勧めてきます。
断るわけにもいかず、私は大人しくその指示に従いました。
「ほら、座って。それともあなたは主人と立ったまま話すのかしら?」
「わ、分かりました。じゃあ失礼して……」
一言断りを入れて、恐る恐るお嬢様の向かいの席に腰を下ろしました。お尻に感じる高級椅子の感触が、どこか自分の感じているものではないように感じて仕方ありません。
耳をすませば自分の心臓が聞こえそうな気がする。
普段はお嬢様のお世話をすることは多かれども、こうして同じ席に座ってお話をするということはあまりないので、どうしても緊張してしまいます。
お説教ではない……と思いますけど、どんな話をするつもりなのかは皆目見当もつきません。
後ろ向きな話じゃなければいいんだけどなぁ……。
「それじゃあ、楽しくお喋りをしましょう?」
「そ、そうですね。頑張ってみます……」
そうしてなんとか気の利いた話を考える私をよそに、傍目から見てなんとも奇妙なお喋り会が幕を開けるのでした。
「最近の学校はどう? 何か困ってるのなら相談に乗るけれど」
「えーっと、特にありません。みなさんとても良くしてくださいますし、勉強にも困っていないです。今のところ順調と言えると思います」
まず最初の話題は千春峰でのことでした。最初ということで共通の無難な話題を選んだのでしょう。無難ですが、いい話題なのではないかと思います。
おかげで返答に頭を悩ませることもなく、すいすいとお喋りができる気がしますね。
「日本屈指の名門校なだけあって確かにレベルの高い授業が行われていますが、今のところほとんど復習みたいなものですよ。小さい頃に家庭教師の先生から教わっていた内容とあまり差はありません」
実際、私からすると千春峰での授業に苦痛と言える苦痛は特にないのです。
昔先生に教えてもらった内容がほとんどの割合を占めていて、この調子ならテスト百点も夢じゃないという気もしてくるほど。
やっぱり持つべきは先生なんだなぁと思いました。
「……小学生に大学クラスの勉強を教えるって、それはそれでまた酷いスパルタね……」
「はい? あの、何か仰いましたか?」
「何でもないわ。続けて」
途中、お嬢様が毒づくようにボソッと喋ったような気がしますが、何だったのでしょう……。まぁいいか。
「聞く限りだと、特に大きな問題はないみたいね」
「はい。ありませんよ」
「ふーん、そう?」
……なんですか、その信じてなさそうな顔は。
「じゃあ聞くけど、あの生意気な妹のことはどうなのかしら」
「ギクッ!」
「随分と嫌われてるわねぇ……大丈夫なの?」
「ギクギクギクッ!」
「まだ疑われてるようだし、このままだといずれ大問題なってしまうかもしれないわよ? それでもまだ無問題と言い張るのかしら?」
こ……この人、私が必死に忘れようとしてたことをここぞとばかりに抉りに来てッ……!?
ああそうだった! お嬢様はこういうドSな人だった! 隙を見せてしまったのが敗因です!
紫炎ちゃんの話が出た途端に私が悶え始めたのを見て、お嬢様がニヤニヤと愉悦の笑みを浮かべます。ぐぬぬ……
「……はい、ごめんなさい。実はとても問題です……」
「ふふ、華炎は素直でかわいいわね」
やっぱり雑談をしても結局私はいじられる宿命なのでしょうか。
私はMじゃない……Mじゃないはずなのに……!
「私はノーマル私はノーマル……」
「そうは言うけど、強く拒絶しない辺り私には嫌がっていないように思えるわよ。やっぱり本当はMじゃないのかしら」
「ぐふっ……」
本日何度目にもなるか分からないクリティカルヒットをくらいつつも、私はあたかも何でもなかったかのように振る舞いました。
そう何度も何度も攻撃チャンスはくれてやりません。
……と思っていたのですが……
「ちなみに私は自分の中であなたをMとして扱っているわ」
「まさかのM説定着!?」
「更に言うと私の中であなたは従順なワンちゃんに見えているの。いつでもセクハラできる、便利で可愛い可愛いワンちゃんとして……ね」
「にゃああああああ!? 私そんな風に思われてたんですか!?」
ぶわっ、と鳥肌が立ったのが自分でも分かりました。
思わず両手で肩を抱き、自分で自分を抱きしめるような恰好をしてしまいます。
怖い……お嬢様怖い……
「あの、冗談ですよね? 流石にそれは冗談なんですよね……?」
「うふふふふふふ……どうかしら」
「ひえぇぇぇ……」
お嬢様がとても悪ノリしてるぅ……。
ノリノリだ、今までにないくらいノリノリだ。だってすっごいイイ笑顔してますもん……。あの手この手でいじめてやるって顔してますもん……!
嗜虐敵な愉悦の笑みを隠そうともせず、猛禽類を思わせる目でこちらをじーっと見てきます。
セレンさんというストッパーがいない現状、このままエスカレートしたら一体どんなことになるのか……恐ろしくて仕方ありません。
久しぶりに本気ののドSっぷりの片鱗を見た気がしました。
「まぁあなたがMか否かはさておき……」
全然捨て置いていい問題じゃないんですけど、という言葉は飲み込みました。もしも口にしてたらもれなくおもちゃになっていたことでしょう。
空気が読めなくては生き残ることはできないのです。
「あの小娘に関しては放置する方針で行きましょう。下手に刺激する必要はないわ」
「そうですか……」
さしものお嬢様と言えど、流石に部外者である紫炎ちゃんの問題はどうにもできないのでしょうか。
肩を竦めながら両手を上げて、「おてあげ」と表現します。
「あなたにはちょっと辛いかもしれないけれど、接触するのは控えなさい。勿論その従者にもね」
「え、灯音さんとも?」
「そうよ。彼女は彼女で察しがいいみたいだから、モロッコに送られたくなければ無闇に話しかけないことね」
「え、モロッ……!?」
モロッコというと、性転換手術の盛んな性別観念先進国として有名な北アフリカの国です。なのでお嬢様が言っていることはつまり……
「あなただって、まだ『ちょん切られ』たくはないでしょう?」
「全力で拝命いたします! サー!」
モロッコ送りだけは、絶対に回避せねばならないと心の底から思った瞬間でした。
まだ男性をやめる気はないです。下腹部のアレとお別れしたくありません。切られたくないので命令に従うことを誓います。
「まぁ、そうしてくれた方が私としても嬉しいわ。世界に二人としていない貴重な天然男の娘なのだから、それを手放すのはもったいないもの」
「落ち着け、落ち着け私……! 怒りを引っ込めろ……!」
私は喧嘩を売られてるんでしょうか。
男友達に言われたら宣戦布告と見なして喜び勇んで買っているところですが、ぐっと抑えてスルーしました。
「――――そういえば今思ったのだけれど、もう華炎がここに来て一ヶ月なのよね」
ふと、お嬢様がこんなことを言い出しました。
特に感慨深かったり懐かしんでいたりしている様子ではないものの、何かを考えているように見えます。
「んー、正確にはもうちょっと後ですけど、そろそろそのぐらいですねぇ。でもそれがどうしたんです?」
適当に相槌を打ちながら、急にその話題を出した真意を問いました。
すると、お嬢様は予想もしていなかった答えを言います。
「いえ、折角だからあなたに何かプレゼントでも贈ってみようかと思ったの」
「え? プレゼントですか?」
「そうよ。なんだかんだ私の我が儘に付き合ってくれている訳だし、そのぐらい貰ってもバチは当たらないでしょう?」
……すごく意外だ。
お嬢様はセレンさん以外の使用人とは然程仲がいいというわけじゃないから、贈り物はセレンさんだけに贈るものと思っていました。
それだけ近しい存在と思ってくれている証左なのでしょうか……。そう考えると、嬉しくなってしまいますね。
「でも、肝心のプレゼントに何を贈ればいいのか分からないのよ」
「あー。ありますよね、それ。私もよく妹のプレゼントに頭を悩ませたので分かります」
プレゼントで大切なのは中身ではなく心だとはよく言うものの、実際のところはその人が欲しいものをプレゼントするのが一番なわけでして……
実際、昔紫炎ちゃんに適当なものをプレゼントしたら機嫌を損ねてしまい、何日か口を利いて貰えなくなったりする事件もありました。
お嬢様が悩むのも当然のことでしょう。
よし、そうとくれば簡単です。
この場には他ならない私自身がいるのですから、欲しいものを今言えば解決です。
「だったら私に好きなものを聞けばいいじゃないですか。私は歌と料理が好きですよ。ちなみに今一番欲しいものはこれから美味しくなるかき氷を作る機械です」
「じゃあそれ以外をプレゼントにするわ」
「なんで!?」
が、お嬢様は青筋を立てながらかき氷機の購入を却下しました。ついでにいつの間にかメモを取り出していて、かき氷機という文字の上からばってん印をつけています。
欲しいものを言ったのにどういうことですか、納得がいきません。
あれがあったら夏に美味しい氷菓子を皆さんに振る舞えたのに……
「それだとただ欲しいものを買ってあげたっていうだけになって、プレゼントの意味がなくなってしまうじゃない。嫌よそんなの」
ああ、そういう考え方もあるんですね。
紫炎ちゃんは余程下手なものを贈らない限りは喜ぶので、そういうことを考えたことがありませんでした。
ちなみに紫炎ちゃんを怒らせたのも、適当に選んだプレゼントが下手なものだったのが原因です。
あの一件以降、私はプレゼントを選ぶ時は絶対に失敗しないよう『厳選する』ということを覚えました。
「えへへへ、お嬢様からのプレゼントかぁー」
結局かき氷機は貰えないようですが、それはそれで何が貰えるか分からないお楽しみが増えるというもの。
ルーレットを回すような気分で、ちょっとだけ期待しながら待つのがいいでしょう。
そんな未来の想像をしていると、お嬢様は不思議そうに首をかしげました。
「……そんなに嬉しいの?」
「そりゃあ嬉しいですよ。だって、大切な人からプレゼントを貰えるんですもの」
「そういうものなのかしら……」
あれ……? お嬢様の反応が微妙ですね……
そんな変なことは言っていないはずなんですが……
「私、プレゼントってあまり貰ったことがないから、よく分からないのよね」
「あ…………」
……お嬢様は幼少の頃から親に愛ではなく鞭を向けられ、兄姉からは常に殺意を向けられて育ってきました。
誕生日を祝って貰ったことのないお嬢様は、きっとプレゼントというものを知らなかったのかもしれません。
だから大切な人から贈り物を貰ったときの嬉しさがピンと来ないのでしょう。
……それは、とても悲しい話です。
そんな『悲劇』。見逃していいはずがない。
「……分かりました。じゃあ、私もお嬢様にプレゼントを贈ります」
「はい?」
「お嬢様がプレゼントを貰ったことがないというのなら、私が贈って差し上げます! 流石に高級アクセサリーは手が出せないですけど、手作りのアクセサリーなら作れるはずです!」
お嬢様は私の言葉に目を点にしながら、呆けた顔をしています。
突然のことで言っていることが分からないのでしょうか。
「いいですかお嬢様! 歴史を遡ってみても、主人と使用人が互いに贈り物を交換しあうということはそう珍しいことではありませんでした! だからお嬢様、私たちもプレゼント交換しましょう!」
過去にあった例を盾にして、半ば以上勢いで力説しました。
お嬢様になぜそんなことをする必要がある、とか詰まらなそう、と思われてはおしまいでした。
――――あなたに贈り物を貰うという嬉しさを知ってもらいたいんです。お願いしますお嬢様……!
そんなことを祈りながら、お嬢様の返答を待ちます。
「……ええ、分かったわ。あなたの贈り物を楽しみにしているわね」
ほんの少し……少しだけ微笑んで、お嬢様はプレゼントを交換する約束を結びました。
「……! はいっ、お任せください!」
――――この日見た笑顔を忘れないよう目に焼き付けて、精一杯元気な返事をしたのでした。