#6 怒れる月
セレン:原子番号34の元素。英名でセレニウム。元素記号はSe。ギリシャ神話の【月】の女神セレネが由来。
セレンさんの手が閃いた。
パチンッ!
「痛っ……」
動揺して避けられなかった僕の頬に命中し、赤い手形が残される。じんと痛みを発する頬に手をやり、セレンさんを見た。視線の先のセレンさんは、憎悪と侮蔑を込めた形相で僕を睨んでいた。
「男がなぜここにいる!」
「…………」
僕はどうすることもできず、顔を逸らしてただ黙ることしかできなかった。こういうとき、どうすればいいのか分からなかったから。
しかし、セレンさんは黙りこくることを許さず、肩口まで伸びた僕の赤い髪を引っ張って無理矢理自分の方を向かせる。髪の毛を力任せに引っ張っられる痛覚に顔を歪めながら、僕はセレンさんの望み通り質問に答えた。
「……拉致されただけですよ。あなたのお嬢様にね」
「拉致ですって?」
セレンさんは僕の髪を掴んだまま眉をひそめ、何かを思い出したかのように「ああそういうこと」と言葉を溢した。どういうことかと思った瞬間、セレンさんは赤い髪を放した。そのまま重力に引かれて僕は床に落っこちる。
「うぐっ……!」
「お嬢様にも困ったものね。まさか相手側の同意なしに屋敷に連れてくるだなんて」
「な、何を……?」
セレンさんの言っていることの意味が分からず、息を整えながら聞き返した。そんな僕を一瞥し、セレンさんは鼻で笑ってから答える。
「別に。ただ、あなたをこの屋敷に運んだのは私だから、あなたがどういう状態で運ばれてきたか知っているだけよ」
「え……?」
「お嬢様の催眠術で眠らされていたのなら、確かに反応が薄かったのも頷けるわ。女装しろと言われたら抵抗するでしょうし」
……どうやら、路地裏で意識だけを眠らされた後の僕を知っているようだ。さしずめ僕と十六夜さんを運んだ車の運転手、といったところだろうか。勝手な臆測だけれど。
「けど、それとこれは話が別よ」
しかし、途端にセレンさんは先程と同じような顔に戻り、蔑むような視線を僕へ寄越した。
「お嬢様の屋敷に男は不要よ。どのような風の吹き回しかはしらないけれど、お嬢様が望んだとしても私が許さないわ」
「……この屋敷に男性はいないんですか?」
「いないわ。使用人は全て女性よ」
「女性ばっかりというのは気のせいじゃなかったんですか……」
道理で試験のときにもメイドさんしかいなかったわけだ。
「そこに女装した男がいるなんて言語道断! たとえお嬢様のスカウトといえども、男をおいておくことは不可能よ!」
セレンさんは語気を強めて僕を認めないと宣言する。僕はどうしようもなく、ただそんなセレンさんを見上げることしかできなかった。
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トラップ☆トラップ☆ガーリートラップ!
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兄様が行方不明になった。
その報せを聞いたとき私――――村雨紫炎はとてつもないほどの衝撃と、どうしようもないほどの喪失感に襲われた。
兄様とは血の繋がった実の兄、村雨焔のことだ。男の子なのに私とおなじくらいちっちゃくて、肌が綺麗で、本当に女の子みたいな兄だった。この頃しばらく連絡を取り合っていなかったけれど、何者にも代えがたい大切な家族。それが村雨焔という赤髮の兄様だ。
その兄様の足取りが掴めない。私は兄様を探そうとして、でもその手段がなくて何もできずにいる。
お父様とお母様は先日にあった原因不明の火事によって死んでしまい、しかも追い討ちをかけるかのように兄様が行方不明に……
分家の間で情報が錯綜して情報交換ができない今、兄様の行方を捜すのは不可能と言ってよかった。
私はこの数日間の間、感情の処理が追い付かなくてずっと泣き続けていた。あんなに大好きだったお父様とお母様が亡くなった悲しみは、想像していたものよりずっともっと重く、大きかった。
親友や親戚の人たちのおかけで今は持ち直しているが、いつまでも泣いていられない。まだ希望はあるのだから。
お父様とお母様は死亡が確認されたけど、兄様は安否が不明なだけなのだ。つまり、生きている可能性はある。願望だけれど、生きていてほしい。
私と兄様は遠く離れて暮らしていた。私が全寮制の女子中学校に入学すると同時に、兄様も中高一貫校だった学校の寮に移り住んでしまったのだ。
それ以来私と兄様は直接顔を合わせていない。兄様と連絡をとれる手段も限られていて、兄様のいた寮の電話でしか通話することはできなかった。携帯電話を持つことが許されていなかったからだ。そのせいで私たちは兄様と連絡を取ることができず、今どこにいるどころか、その安否さえもが不明なのだ。
聞いたところによると、兄様は既に学校の寮を引き払っていて、お父様とお母様の家に戻るつもりだったらしい。どのような理由があったのかは計り知れないが、兄様が寮から去っているのは確かだろう。
そうなると、今の兄様は寝泊まりする場所がないということになる。兄様のことだからカプセルホテルやネットカフェで済ませようと考えるだろう。
それを見越して夕立を始めとする分家も寮から一番近い街の中心街で捜索をしている。生きているのなら見つかる可能性は高いはずた。……そう信じたい。
両親の亡き今、血の繋がった唯一の肉親だ。絶対に兄様を見つけ出す。探し出して保護しなくてはならない。
父と母の遺志は尊重したかったけど、もうそうは言っていられない状況だ。兄様を真の意味で『村雨』に迎えなくてはならないだろう。
兄様はもう無喜の市民としては生きていられない。兄様もまた、村雨の血族ならば逃れられぬ運命にあったということなのだ。
「お父様、お母様…………どうか、お許し下さい……」
兄様を、再び村雨へと連れ戻すことを。
◇ ◇ ◇
豊葛十六夜は生粋のお嬢様である。彼女は世界の三分の一を牛耳ると噂される『豊葛グループ』の令嬢なのだ。広い屋敷に住み、数多くの従者に囲まれ、金にはそうそう困らず、そして莫大な個人資産を抱える彼女は立派な立派なお嬢様だ。
さて、そんな十六夜嬢は現在大変ご機嫌である。それは屋敷で三番目に広い部屋である自室にて優雅にティーカップを傾けながら、そう遠くない未来を想像していたのが原因である。
「うふふふ……あの子が手に入ったら、まずは何を着せてみようかしら。いきなりミニスカメイド服はハードルが高いから、露出の低いドレスから慣らしてみましょう」
十六夜はメイド試験を受けている焔……もとい華炎の姿を脳内で想像し、顔の筋肉を緩めに緩めて悦に浸っていた。
彼女は一種の男の娘フェチズムにはまってしまい、それ以来このような男の娘にさせるドレスコードを考えているのだった。つまりはまぁ、等身大着せ替え人形で遊んでやろうという魂胆である。
長らく想像の中だけでしかできなかったことが現実でもできるとなれば、このように浮かれるのも無理からぬことだろう……その感性に他人が共感できるかどうかは別として。
「楽しみねぇ……しかもあの村雨の直系を侍らせることができるのだから、もう笑みが止まらないわ」
村雨という単語を発した瞬間にその双眸に剣呑な色が宿ったが、それもすぐに空想……もとい、妄想に掻き消されて霧散していった。
「いずれきわどい衣装も着せたいわね。ボンテージを差し出したらどんな顔をするのかしら……可愛い美少女は散々着せ替えているけれども、男の娘は初めてだから手探りでいきましょう」
うふふふ……
華炎が見れば底冷えするような悪だくみの笑みを浮かべ、十六夜は空になったティーカップをソーサーに置いた。揺れる紅茶の水面にそんな顔をした十六夜が映る。
「楽しみで仕方ないわぁ。心底楽しみよ」
恍惚とした表情で何度も呟く。
――――その想像が、今まさに獲らぬ狸の皮算用になることなど微塵も知らずに。
「さて……そろそろ仕事を再開しなくてはならないわね」
十六夜は優雅なティータイムを終えると、そばにあったノートパソコンを立ち上げる。ブルーライトを遮断する専用のグラスをかけて、その細長い手指をキーボードに走らせた。カタカタとキーが軽快な音を打ちならしているところを見るに、かなり使い慣れているらしい。
さて、彼女が今何をしているかというと、さしずめ『仕事』といったところだろうか。仕事とはいっても資料を作ったり、プレゼンの準備をしている訳ではない。
――――ずばり、資産運用である。分かりやすいように言えば、株取引とかいうものだ。
こう見えて、十六夜はかなりのやり手である。どのくらい凄いのかと聞かれれば、僅かな金で莫大なリターンを必ず得るほどだ。今まで一度たりとも損をしたことはない。
「さて……華炎の服を買うためにも、ここで上手いことやらなくてはならないわね」
何を隠そう、この屋敷の収入はほとんどがこの資産運用に依存している。桁外れなメイドを抱え、高級調度品ばかりを揃え、更に十六夜が趣味でブランドものの衣服を購入していることから、彼女の稼ぎは伺えるだろう。その気になれば日本の経済を大きく振り回すほど暴れまわることもできるはずだ。やるかどうかはさておき。
「お仕事お仕事……と」
そう言って口端を歪めたその瞬間、その気勢を削ぐかのように部屋のドアが開けられた。出鼻を挫かれた十六夜は何事かとドアの方を向く。
「おくつろぎのところ失礼します、お嬢様」
優美に一礼しながら現れたのは銀色の髪を持ったメイド長、セレンさんこと月詠セレンであった。十六夜は突然の来訪に眉をひそめながらも、セレンだからいいと考えて水に流した。この十六夜邸において、メイド長は主の部屋だとしてもノック無しに入室することが許可されているのである。
十六夜はかけたばかりの遮光グラスを外し、セレンに何用かと尋ねる。
「何かしらセレン。私はこれから仕事なのだけれど」
「それは失礼いたしました。いつもぐーたらしていらっしゃいますので、私が来ない限り仕事をしないのではないかと……」
「失礼ね! ……実際その通りだけど……」
威勢よく言い返したものの、小さい声で付け足した台詞によって台無しである。そんな主の生活態度にため息をつきつつ、セレンは本題に切り込むのだった。
「お嬢様……お尋ねしたいことがあるのですが」
「何かしら? あなたが質問なんて珍しいわね」
――――セレンが質問だなんて、珍しいこともあったものね……
十六夜は全て自分から理解して自分で何事もこなしてしまう普段のセレンの姿を思い浮かべつつ、どんなものかと想像をしてみた。
「……お嬢様が拾った、あの少女のことです」
「華炎のこと? あの子がどうかしたのかしら」
十六夜はどうして華炎がセレンの疑問になるのかと首をかしげ、その言葉の続きを無言で促す。
セレンは己の恥に繋がるために口にするのを躊躇ったが、メイド長として聞かねばならぬと覚悟を決め、十六夜へ真っ直ぐに懐疑の念を叩きつけた。
「お嬢様。なぜ男をこの屋敷に、あろうことかメイドとして招き入れたのですか?」
最初はセレンの問いの意味がわからなかった。男? 華炎?
……ああ、そういえば華炎は元々焔という名前で、女装した可愛い男の娘なんだったけ……
華炎の本当の性別すら忘れているあたり、違和感を覚えさせない彼が凄いのか、十六夜が自堕落なのか。しかし、そこまで思い出した十六夜は更なる疑問に襲われる。
「……あら? なんでセレンが華炎の性別を知っているの?」
「…………」
十六夜がそう言った瞬間、セレンの目がまるでドブネズミを見るかのような目に変わった。そして再び思い出す。セレンには華炎のことは黙っていたんだと……
十六夜は見事に自爆したのである。
「そうですか。お嬢様は奴が男だと知っていらっしゃったのですか」
「い、いや別に? 今のは言葉通りの意味よ? 男とも女とも言っていないのに、どうして男と決めつけるのかしらって……」
「お嬢様。その件については後程しっかりと追及させて頂きますね?」
「…………ハイ」
苦し紛れの弁解をばっさりと切り捨て、セレンは子供っぽい主に呆れの念を含んだ溜息をついた。
「さてお嬢様。事のあらましを説明していただけますね?」
「……分かった、ちゃんと話すわよ」
十六夜は観念して、華炎と出会ったときのこと、セレンがやって来るまでのことを話すのだった。
華炎と運命的な出会いをしたこと。
どこかの誰かが差し向けた暴漢に襲われたこと。
華炎に助けられたこと。それと直後に拉致しようとしたこと。
セレンに電話した後、散々華炎で遊んだこと。
その話を聞いて百面相を浮かべるセレンだったが、苦言を呈するのは後にしようと頭を振った。
「なるほど。お嬢様が奴を気に入った理由はともかく、そういったことがあって女装していたのですか」
「ええ。本人は「男性としての尊厳がなくなる」と言って本気で拒否していたけど」
「鬼ですかあなた」
「豊葛十六夜よ」
「茶番を口にする口はこの口ですか?」
「いひゃいいひゃいいひゃい!」
口の中に指を突っ込まれて思いっ切り左右に伸ばされる。真面目な話をしているのに茶々を入れる十六夜が制裁されるのは自明の理であった。ジンジンする口を涙目で抑えつつ、十六夜は完結に話を纏めた。
「要は華炎を拉致して、女装させてメイドにさせたいと私が一方的に考えたわけ」
「拉致したという自覚はあったんですね」
「あなただって車を運転して加担したくせに」
「…………」
思わず口を閉じてしまった。まさか十六夜に言い返されるとは、夢にも思ってみなかったらしい。あくまでセレンは十六夜に言われるまま車で送迎しただけだが。しかし、セレンの求める答えが来たわけではない。
「ですが、殊更に私には理解ができません。男性嫌いであるお嬢様が、なぜ男性を雇うことを決めたのか」
セレンはより一層表情を険しくさせ、十六夜を見つめた。
怒りを露わにしているのではない。純粋にただただ疑問で、故に理解ができないからだ。十六夜はとある事件を切っ掛けに男性を嫌いになり、屋敷に男性を入れないようにしていた。それがどういう訳か男をメイドとして雇おうとしていたとなれば、嫌でも気にかかると言うもの。
セレンのその言葉に目を逸らしてから十六夜は言った。
「その……陳腐な言葉かもしれないんだけどね……?」
「はぁ」
それがどうした、いいから続けろとばかりに相槌を打つセレン。十六夜はその冷たい視線に気づかず、頬に手を当てて恥ずかしそうに宣った。
「運命、みたいなものを感じたの」
「…………寝言は寝てから仰いやがってください」
うんざりした表情でセレンが吐き捨てた。
大真面目に質問をしているのにこんな脳内ピンクの回答が返ってきたら、誰だって辟易する。しばらくの間、主人を尊敬の目で見ることができなさそうだった。
「敢えて名前を付けるとしたら……【萌え】ね」
「……へ~……」
セレンは心底どうでも良さそうに相槌を打つ。ドヤ顔さえ浮かべて【萌え】と言い切る主の姿は、さぞ耐えがたいものがあるだろう。
今すぐにでも再教育した方が良いのではないか、という考えが思い浮かび、すぐにそれを否定した。――――どうせ今更しても無駄なのは目に見えている。
「……でも、本当に私は彼に――――華炎に何か特別な感情を抱いたのよ。初めて目にした時から」
「……男性嫌いなお嬢様がそう言われましても……」
十六夜はそもそも大の男嫌いだ。とある事件を切っ掛けにこの世の男性を嫌悪するようになり、男性使用人を追い出し、自分は豊葛家本邸から移り住み、女子校へ進学するなどをし、周囲から徹底的に男という男を排除する程である。
それなのにいきなり男を拾ってきて、可愛くて好きなどと言われても、はいそうですかという訳にもいかないのだ。立場の問題だってある。
セレンは華炎のことを諦めるよう説得できないかと考えるが、十六夜はそれを先読みして事前に宣言した。
「言っておくけれどセレン、私は折れるつもりはないわよ?」
「…………」
十六夜は己の欲が絡むと手強くなる。というか本当に手段を択ばなくなる。【豊葛グループ】第五令嬢という立場を、それこそ私利私欲のために好き勝手振るうことを躊躇いもしないのだ。
下手をすると、セレンも十六夜の権力によって丸め込まれてしまうだろう。どうしたものかと思考を張り巡らせるセレンに、十六夜は「そういえば」と何かを思い出したように声を上げた。
「ねえセレン。当の華炎はどうだったのかしら? ちゃんと合格したの?」
「……お嬢様、大変申し上げにくいのですが……」
セレンは苦虫を嚙み潰したような顔をし、歯切れの悪い言葉を並べてから真実を告げた。
「……彼は、屋敷から追い出しました」
「…………は~あ?」
◇ ◇ ◇
「はっくしゅ! うぅぅ~、三月の深夜は寒いなぁ……」
星の見えない満月の冬空の下。メイド服を着た赤髪の少女(?)が、凍えながら廃墟だらけの旧市街をとぼとぼ歩いていた。
華炎ちゃんが屋敷を追い出され、第一章もそろそろ転換に入る頃と相成りました。妹の紫炎ちゃんも初登場ですが、何やら不穏な様子。分かたれた二人の兄妹が再び出会うのはしばらく先のことになるでしょう。
さて、次回のガリトラは来週の金曜日のどこかで投稿です。文章評価やストーリー評価、ブックマーク登録なども執筆の励みになりますので、よろしければお願いします。