#49 崩壊の序曲
先日感想を頂きました! 本当にありがとうございます!
現在は過去編から進んでいませんが、もう少しで十六夜の傷の話になるのでお待ちください
突然後継者となることを告げられてから、十六夜の生活はがらりと姿を変えてしまった。
指導者に相応しき人物になるためにはまず生活習慣を変えることから、という朧の思惑なのだろう。
遊ぶ時間は極端に短くなるかあるいは取り上げられ、その開いた分の時間を丸ごと勉強に費やされることになった。
学校での勉強は勿論のこと、小学校では習わない数学や経済学や法律学に加え、帝王学などの一般の大人ですら学ばない専門的な分野も勉強することになったのである。
もちろん、そんな大量の勉強を同時に処理して一、二時間で済むはずもない。
とある一日の様子を覗いてみよう。
十六夜は学校にいる時間を除外して、一日に十時間近くも勉強をしている。
その内の十分の一くらいは学校の勉強の予習復習に充てられるが、それ以外はほぼ全て専門学的な内容の勉強をしているのだ。
当然、休憩時間などは計算に入れていない。そもそも休憩など一秒たりとも挟んでいないのだから。
それが学校のない休日ともなれば、どうなるかは簡単に想像がつくのではないだろうか。
敢えて二十四時間のうち、四分の三は勉強の時間とだけ言っておこう。それが小学校低学年だった十六夜にとって、どれほど苦痛なことだったかは語るまでもない。
だが、十六夜はこれほどまでに辛い勉強を強いられたとしても、投げ出すようなことは絶対にしなかった。
昔同じことをした彼女の兄姉たちが、何度も脱走をた図ったのにも関わらず、だ。
今の権謀術数を得意とする陰湿邪悪な十六夜からは考えにくいかもしれないが、このときの彼女は良くも悪くも純真だったのである。
この場合は悪い方向に純真さが傾いたと言った方がいいのかもしれないが。
望まぬ形だったとはいえ、十六夜は次の後継者に選ばれてしまった。
そして選んだのが他の誰でもない朧だったともなれば、【豊葛グループ】の重役たちが彼女に期待するのも当然の流れだ。
自分が期待されているということを知った十六夜は、その期待に応えようと努力を始めたのである。
……いや、この言い方は正確ではない。
正しくは『いい子』であろうとした、と言うべきだ。
『いい子』とは何だろうか。
悪い事をしない、嘘をつかない、友だちを傷つけない、ご飯を残さない……そんな子供を指すのだろうか。
違う。
子供の視点で見ればそれこそが最も理想形とされる『いい子』なのかもしれないが、大人たちが言って聞かせる『いい子』はそんなものではないだろう。
大人たちの言ういい子とは、大人にとって都合の良い子供のことだ。
言うことを聞く。
駄々をこねない。
我が儘を言わない。
いたずらしない。
そんな手間がかからず自分に恥をかかせることのない模範的な子供のことを、人はいい子というのではないだろうか。
辞書の出版社が定める正確な定義がどうあれ、十六夜はいい子という存在をそのように考えていたことは確かだ。
いい子になるために勉強をしなくちゃいけない。いい子になるためなら、後を継がなくちゃいけない。
いい子になるために。
いい子にならなきゃ。
もっといい子に――――
兄姉たちと違って勉強から一切の逃避もしなかった理由もこの想いが……いや、洗脳によく似た強迫観念があってこそだった。
十六夜は無意識の内に自らを『義務』によって縛り付け、一歩も引くことのできないある種の背水の陣を敷いたと言える。
まさしく自縛。
まさに自己催眠。
十六夜が人間の精神医学に興味を持ち始めたのも、思えばこの頃だったかもしれない。
少し話は変わってしまうが、当時の彼女を象徴する言葉としてこんなものがある。
これは豊葛本家の屋敷に勤めていたとあるメイドたちの会話だ。
「十六夜のお嬢様、最近なんだか怖いわ。まるで何かに取り憑かれたみたいで……」
「私もそう思いますわ。だって、辛いお勉強にも不満や泣き言一つこぼさず、一心不乱に取り組んでいらっしゃるもの」
「本当によくないものに憑かれているんじゃないかしら。誰かに相談した方が……」
「でも、ご当主様は何も仰りませんし、他のお坊ちゃんやお嬢様と比べたら随分大人しくて『いい子』じゃありませんか」
「それはそうだけれど……」
「考えすぎですよ。さ、お掃除しましょう」
過剰とも言える十六夜に対しての英才教育と、それらに対して病的なまでに取り組む十六夜を見ての言葉であった。
『取り憑かれたように』、『一心不乱に』、『いい子』で……まさにこの時の十六夜を表す的確な表現だ。
彼女自身が知る由もないことだが、屋敷にいる人物の誰もが口を揃えて不気味といって憚らないほどである。
使用人も庭師も、家庭教師も誰も彼も、滲み出る十六夜の異常性に勘づいていたのだ。
とはいえ、十六夜に精神的な欠陥が生じてしまった訳ではない。
彼女の一つ上の姉は本物の精神異常者となってしまったが、彼女と十六夜とでは精神構造がそもそも違うのだから。
ただ、自分で自分を苦しめる選択をしてしまうほど追い込まれてしまった、というだけで……
それほどまでの極限状態に立たされた十六夜が、その原因が全て自分にあると思い詰めるようになるにまでさほど時間はかからなかった。
「いい子にならなきゃ」
ただいい子であるように。いい子になろうとして。
いい子になったzら全部元通りになると信じて
「いい子にならなきゃ」
いい子じゃないから今がある。
いい子じゃないから間違ってる。
いい子じゃないからおかしくなった。
「……いい子にならきゃ……」
いい子じゃないから兄姉たちは優しくなかった。
いい子じゃないからお父様は残酷だった。
いい子じゃないからお母様は何もしてくれない。
いい子じゃないからみんな酷い事をする。
「いい子にならなきゃ…………!」
自分が悪い。悪いからいみんな冷たくして、私に反省させようとしている。
そうだ、そうに決まっている。だって先生が言ってた。テレビが言ってた。昔の小説にも書いてあった。
『家族は互いを愛するもの』だって、大人たちはみんな言ってる。
だから違う、違うのだ。
お父様もお母様もお兄様もお姉さまも。
自分を愛していないはずがない。
「もっと、もっともっともっと……」
足りないんだ。これじゃきっと足りない。
みんなが褒めてくれる『いい子』になるには、もっと沢山お勉強をしないと。
「いい子に……もっといい子に……」
いい子になろう。
もっといい子になろう。
いい子になって、みんなに褒めてもらおう。
だからもっといっぱい頑張ろう。
もっと、もっともっともっともっともっと。
もっともっともっともっともっともっともっと。
もっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっと…………
……十六夜がそんな妄執に取り憑かれ、体を壊しかけながら知識を詰め込んでから一年ほど経った。
十六夜はたくさん勉強して、たくさん『いい子』に近づいて、並みの大人よりも遥かに優れた知能を獲得するに至っていた。
豊葛に連なる誰もが、十六夜という稀代の大天才の名前を耳にするようになった頃。
十六夜を快く思わない四人の『後継者』たちが、ついに動き出す。
「十六夜……俺たちはお前を、絶対に許さねぇ……!」
「お兄……様……?」