#47 そして月は陰る
日曜日中に完成しなかったので、一日遅れの投稿です
放課後、屋敷に帰ってからセレンたちに挨拶をするのさえもどかしく、私は真っ直ぐに脇目も振らず自分の部屋に逃げるようにして閉じこもった。鍵のロックも忘れない。
そして制服の上着をだらしないながらも床に放り捨て、ベッドの上で猫のように丸まった。
誰も見ていない、誰も聞いていない孤独な空間に閉じこもってようやく、私は冷静さを取り戻すことができたのだった。
しかし反対に冷静になれば冷静になるほど、後悔せずにはいられない。
「私は……なんてことをしてしまったの……」
とんでもない失態を犯した。ここ数年の中でも、とびきりのレベルでの大失態だ。間違いなく今年の私のやらかしオブザイヤーに掲載されるだろう。
世が世なら情けなさのあまり、短刀で自分の腹を捌いていてもおかしくはない。
それほどの失態を犯したのである。
「…………見られた」
服で隠した肌の表面を布越しに撫ぜる。衣擦れの音と共に、肌からは決して快くない、不自然な凹凸のような手ごたえを感じる。
私はその線のような凹凸をなぞり、そっとその部分にかかっている衣服を剥いだ。その下にある肌には――――
「誰にも見られてはならない、傷を見られた……」
曝け出された腕には、不気味な傷跡が縦横無尽に駆け巡っていたのだった。
過去に付けられた裂傷痕、打撲痕、火傷跡。勿論これだけではない。枚挙に暇がないほどの数の傷が、私の肌の上で異様に存在感を放っている。あたかも聖跡に刻まれたヒエログリフであるかのように。
そう考えるとあまりもの禍々しさに、思わず顔を顰めた。
やはり見ているだけで気分が悪くなる。
見た目の気持ち悪さもあるが、それ以上にあの事を無意識のうちに思い出してしまいそうで。
フラッシュバックするコンクリートの壁。
逃げ出せないように加工された鉄の扉。
壁面にこびり付いた赤黒い私の一部だったモノ。
申し訳程度に備えられた医療キットと、私を見下ろす兄姉たち。
彼らは逃げられない私を囲み、キットの中にあったメスで私の肌を――――
「イヤッッッ!!」
やはり反射的にあの光景を脳内再生してしまい、より一層の気分の低下がもたらされた。
あの生活から抜け出してもう五年近く経過しているにもかかわらず、私の中では戦地に落ちた負圧団のようにトラウマとして残っている。
確か、PTSDと言うのだったか。この手のトラウマは。
医師が言うには時間が唯一の特効薬とのことらしいが、生憎と時間は私を癒すことはなく、むしろ延々と終わりのない痛みをジクジクと私に与え続けるだけだ。
「……根本的な原因は、まだ取り除かれていないものね……」
私を苦しめる悪夢は今でこそ悪夢で留まっているが、過去には実際にあったものだ。その経験が記憶として私の脳裏から離れないでいて、さっきのように幻影を見せるのである。
そして私は痛みを与えた者たちから逃げ出した。今の平穏な生活も、彼らから逃げ出して手に入れた仮初のものでしかない。
いつかこの尊い平和も、彼らの手で終わらせられる日が来る。予測でも想像でもなんでもない、来たるべき約束された未来なのだ。
だから、彼らを打ち倒して真の自由と安息を手に入れるときまで、私のトラウマは永遠に消えないだろう。
「華炎…………」
だが、彼女に見られた。
いや、正確に言うと華炎は女装した男性だから彼と言うべきなのだが、実質的に華炎は女性だから彼女でいいのである。
「華炎は、私をどう思うのかしら……」
思いがけないハプニングにも程がある不慮の事故の連続で、私はこの傷を彼女に晒してしまった。それはもう見間違いなんて言い訳が通用しないくらい、思いっ切り見られてしまったのだ。
あの時の華炎の表情はよく思い出せる。
突然のことへの戸惑い。
蜘蛛が苦手と露呈したことへの呆れ。
傷を見たときの驚き。
私に傷があったということの悲しみ。
それから、私の下着姿を見てしまったという緊張と恥ずかしさと興奮の混じった、とてもいじめ甲斐のある……
「ああもうっ、そうじゃなくて」
いや、違う。そうじゃない。
私は華炎に対してそんな目を使っていない。だって彼女は女の子なのだから。ないったらない。
華炎は私のこの傷を見て何を思ったのだろう。
私を蔑むだろうか。気味悪がるだろうか。それとも、あの人たちと同じように……
「……何よ、我ながら馬鹿らしいことを考えるじゃない」
……そうだ、私は何を考えているんだ。
なぜそれほど華炎に拘っているのだろうか。彼女は貴重な天然の男の娘とはいえ、私にとってただの使用人であることに変わりはない。
私がメイドたちに求めることは唯一無二の能力を発揮して私に仕えること。心の拠り所になってくれだなんて、私は一言も頼んだ覚えはなかった。
私が心を許すのはセレンだけで十分。それ以外は同じメイドであっても、彼女たちの持つ能力以外に用はないのである。
華炎が私をどう思おうが、そんなものは所詮たかが使用人風情の感情だ。いい印象を持たれようが悪い印象を持たれようが、私が関知することではない。
ないはずなのに……
「……この締め付けられる感覚は何……?」
苦しい。どうしようもなく苦しかった。
華炎が私から離れていくイメージをしただけで、胸に大きな穴がぽっかり開いたような、肉体的な痛覚を伴わな痛みを感じるのだ。
肉体的ではない痛覚とは何のことだと思うかもしれないが、私にもよく分からない。私の痛覚神経は何の信号も出していないのに、私の中の何かの器官が痛いと訴えている。
これが「胸が痛い」と文学的に表現される感覚の正体とでも言うのだろうか。
「……馬鹿馬鹿しい」
そんなはずがあるか、馬鹿らしい。私がたった一人の使用人如きに心を痛めると?
あまりにも馬鹿らしくて考えたこともなかったが、今日初めて考えてみたらやはり馬鹿らしかった。
「華炎……」
どうしようもなく、私の胸の内には華炎への想いばかりで溢れかえっていた。
この感情は何と呼べばいいのだろう。私には分からない。
分からない……何も分からなかった。
「……わから、ないわ……」
ベッドに背を預けて深く考えごとをしていていたら、眠気が差してきた。
段々と瞼が重くなりとろんと落ちてくる。
呼吸も深くゆっくりしたものへ。
体が休眠体勢へと移行していることに気が付いた頃には、既に脳の半分が活動を停止している。
そのまま抗えぬ睡魔に引きずられ、私の意識はヒュプノスの海へと沈んでいくのだった。
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トラップ☆トラップ☆ガーリートラップ!
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豊葛十六夜という少女は、今から十七年前にこの世に生を受けた。
彼女は世界に名を轟かせる【豊葛グループ】を数百年受け継いできた豊葛家の第五子、三女として生まれる。豊葛家の中で彼女は末っ子で、一番年の近い姉とは二歳ほどの差があった。
十六夜は末っ子ではあるものの、世間一般の末っ子によくある甘えん坊としては育たず、むしろ子供たちの中で最も自立していたことは特筆すべきだろう。
ただ不幸なことに、十六夜の十五にも満たない短き半生は、実に悪い意味で常に他の兄姉たちと共にあったのだ。
ハイハイから卒業すれば、兄姉たちに一足先に後脚で立ち上がっていた二女と比べられた。
意味を成す言葉を操れるようになれば、彼女より幼い頃から喋れるようになっていた次男に小馬鹿にされたり。
たどたどしくも読み書きができるようになれば、長女からその拙さを嘲られ。
知識や経験を蓄えてエゴと呼べる自己が成立された頃になると、急に生意気になったと長男に謂れのない暴力を振るわれるようになったのだ。
『豊葛家』の中にあって、豊葛十六夜は実に凄惨な日々を過ごしてきたと言える。
血を分けた実の家族たちから、理不尽なことで不条理になじられる毎日だったのだから。
最初は特に理由もない、子供同士でよくある些細なちょっかいが、いつの間にかエスカレートして精神的及び肉体的苦痛をもたらす暴力にまで発展していたのだった。
十六夜が甘えん坊にならず自立した性格になったのも、甘えることのできる相手がいなかったからだ。
普通の家庭なら子供が真っ先に甘える相手と言えば両親だが、豊葛家は『普通』ではない。【豊葛グループ】を引っ張るリーダーとして、そしてリーダーを支えるものとしての仕事で二人が家に帰ることは少なかった。
したがって両親にも兄姉たちにも甘えることのできなかった十六夜が、歪ながらしっかり者であったのも当然の成り行きと言えるだろう。
ここで一つ、彼女の兄姉たちを擁護しておきたい。
彼らは決して、全員が全員人間の屑の見本のような精神構造をしていた訳ではない。豊葛家に生まれてさえいなければ、彼らはそのほとんどがまともな人間として生きて行けたことだろう。
彼らを狂わせたのは、ひとえに【豊葛】という家の名前が持つ重責や義務、そしてその名前と一緒についてくる『力』だったのだ。
名家の子供として生まれたからには、世に溢れる俗人になることなど許されない。名家の名前を背負った義務として、相応の成果を世に残さなければならない。
そんな並大抵の人間では背負いきれぬ重圧に負け、精神を屈折してしまった者もいる。
豊葛という名前とそれに伴う『力』を手にし、自分にできないことはないと錯覚する。豊葛を受け継ぐ立場を偶然に立ち合い、それが全世界が望む事だと思い込んだ。
常人では到底手にできぬ力や名声に充てられて酩酊した挙句泥酔し、暴走を始めて止まれなくなった者もいる。
「俺が豊葛を継ぐんだ。全てを手中に収め、地球の王になってやる! だからお前は俺の邪魔をすんな!」
長男は『力』に固執し、障害になり得る十六夜に暴『力』を振るった。
「楽しいわぁ……あなたの悲鳴を聞いていると、本当に愉しくなるの。だからもっといたぶらせて?」
長女は人の上に立つ立場に溺れて人間を家畜のように扱うことをこよなく愛するようになり、十六夜を躾けてやろうとした。
「私は優秀な後継ぎになる……! 【豊葛グループ】を統べ、歴史に名を遺すのはこの私だ……!」
次男は生まれ持った『高貴なる者の義務』に押し潰されるあまり兄弟姉妹の中で最も優秀であるべきという強迫観念に囚われ、歴史に名を残すという命題を己に課してしまい、そのために目の上のたんこぶになった十六夜を排除しようとした。
「世界は私が後継ぎになることを望んでいるわ……あなたには聞こえないの? 世界の声が、あなたを糾弾しているでしょう?」
次女は豊葛家の異常すぎる空気に耐えられなくなって精神を病み、本物の精神病患者になりながら後継ぎの地位を狙うようになった。
そう。彼らは皆等しく狂ってしまったのである。
末っ子の第五子、三女の豊葛十六夜ただ一人を除いて。
「天才は天才であることが求められて初めて天才と認められる」。
『豊葛』に連なる人々は彼ら五人の子供たちに次世代のリーダーになることを求めた。彼らの両親もまた、同じことを子供たちに求めた。
その結果十六夜ただ一人だけが『豊葛』の名前に溺れることも潰されることもなく平然と受け止め、大人たちの目に留まったのである。
人々は当たり前のように十六夜に注目し、十六夜を持ち上げて、彼女こそ本物の天才だと称えた。まだ小学校に入ったばかりの年齢だった十六夜を。
この時の彼女は、まだ豊葛を嫌っていなかった時期だ。大人たちのどす黒い欲望に気が付くことなく、その期待に応えようと必死になった時期もあったのだ。
当然、末っ子が注目されて面白くないと感じるのは十六夜の兄姉たちである。
『なぜ自分ではなく一番年下の十六夜なのだろう』。『どうして自分を差し置いてアイツだけが栄光を手にすることができるのだろう』。
そんな屈辱は嫉妬へ移り変わり、嫉妬が逆恨みになっていくのに時間はかからなかった。
十六夜はよく覚えている。
いや、忘れたくても忘れることなどできない。
父から後継ぎの選定を伝えられ、同時に自分が最も後継ぎに相応しいと告げられたとき。
その日その瞬間から、十六夜の地獄は始まったのだから。