#45 The・Panic
ここからシリアスが加速します。
多分、恐らく、十中八九、メイビー(保険乱発)
本校舎から少し距離のある離れには、主に部活動で使用される『クラブ棟』と呼ばれる別の校舎があります。
ずる休みして授業を抜け出した私たちはこのクラブ棟の中にある、シャワー室の前までやってきてしまいました。
「結局、何も言えぬままです……」
「何言ってるのよ。私は今すぐにでもさっぱりしたいの、異議は言わせないわ」
「うぅぅ……」
お嬢様の言うことももっともです。頭から牛乳をぶっかけられれば、誰だって一刻も早く頭を洗いたくなるでしょう。その点で言えば私もお嬢様とは同意見でした。
しかし、それとこれとは全く別のお話なのです。
私が言いたいのは、そもそもの前提に問題があるということなのですから。
恐らくシャワー室前にいる今が最後のチャンス。今言いそびれたら一生指摘することはできません……! 恥をかなぐり捨ててでも言うのです華炎!
脳内の自分の声援を受けて、私はお嬢様に今一度思い直していただくように懇願しました。
「お嬢様、どうか私の話を聞いてください!」
「また言わせる気なの? 私は早くシャワーを……」
ええいまだそんなことを……! いいから聞いてください! 私が男であるということの問題点を!
「お嬢様、私は男です。男である以上お嬢様と同じ空間でシャワーを浴びるというのは、その、なんというか…………良くないと思いますっ! 貞操観念的に!!」
届け! 届いてください私の言葉! どうかご再考くださいお嬢様!
私の必至の上申を受け、お嬢様は――――
「……それもそうね。確かにそれは少し問題があるわ」
事の問題を受け入れて、私を道連れにシャワー室への突入を思い留まって頂けました!
やった、勝った! 強引グマイウェイを地で行くお嬢様の行動を曲げることができたのです! これは歴史的な大勝利!
ああ、これでセレンさんにぶっ飛ばされるということもなくなる。私はお嬢様の外聞と私の胃を守りきりまし――――
「じゃああなたが目隠しをすれば問題ないわね」
――――は?
「へ?」
想像の斜め上を行く解決法をいとも簡単に言ってのけたお嬢様は、帯状の長い布を取り出しました。そしてそれを私に差し出してきます。
まさか……それをつけろと?
視線で尋ねてみると、無言で首肯されました。これを巻き付けて目を隠せということなのでしょう。
いやいやいやいやいや。
おかしいですって。おかしいですよこれ!
何もせずにシャワー入にるよりかはマシですけど、根本的解決になっていません。
「……これマジ?」
「マジよ」
お嬢様は私とシャワーに入ることを全く気にしていないようです。いえ、気にしてはいるのかもしれませんが見られなければ無問題、と考えてるのでしょうか。
どちらにしろ私からすれば問題しかなくて八方詰まりなんですけどね。
どうしよう、帰ったらセレンさんに殺される……
「…………ええい、ままよ!」
前進するには問題があるが後ろに引くこともできないなら、いっそこのまま突っ切ってしまうしかない! セレンさんごめんなさい!
ヤケとも言える一世一代の盛大な覚悟を決めて、私は手渡された目隠しを装着しました。
「はぁ……やっと洗い流せた。しばらく牛乳は飲みたくないわ」
「ソーデスネー……」
私は女私は女私は女私は女私は女そうだ女なんだ……!
同性が隣でシャワーを浴びても動じる訳がない。私は女だから……!
「アーイーユダナー」
無心。無我の境地。煩悩退散。汝一切の煩悩を捨てよ。
髪を洗うことだけに集中するのです。お嬢様が隣にいても無視無視無視。
「困ったわ。こうも髪が長いと汚れがなかなか落ちないわね……」
お嬢様は牛乳を落とすのに中々手間取っている様子。そりゃあ腰ぐらいまで髪が伸びていたら苦労するでしょうね。
その点私は肩口くらいまでなので楽です。
「華炎、ちょっと大変だから手伝って頂戴」
「ぶふっ!」
そこへお嬢様が、意識外からの不意打ちで私を打ちのめします。
思わず咳き込んでしまいました。
「お、おっ……お嬢様ァ!?」
「……? どうかしたの?」
どうかしたの、って……
「どうかしてるのはお嬢様の方ですよ!」
雇用主に対してよくも流れるような罵倒が出たな、と自分でも思いました。
「さっき言いましたよね! 私男ですよ、男なんですよ!? 男がお嬢様の髪洗っちゃだめでしょう!」
「……ああそうね、そんなことも言っていた気がするわ。あなたは男だったわね」
この一件で学習しました。お嬢様は、私が男であることをたまに忘れるということを!
ああもうっ、自分で拾ってきた人物くらい覚えておきましょうよ! だから世の中から捨てペットがいなくならないんです!
「仕方ない……自分で洗うわ」
「そうしてくださいっ!」
酷いお嬢様がいたものである。
ああどうしましょう朧さん。あなたのご息女はこんなことになってます。助けてください……
そんな届かぬ祈りを胸に抱き、私は独り溜息を吐くことしかできませんでした。
「兎にも角にも、抜け出さない事にはどうしようもありません」
腰に巻いたタオルが濡れないよう細心の注意を払いながら、丁寧に髪だけをシャワーで流します。
「……シャンプーはしなくてもいいかな」
気持ち的にはシャンプーもしようかと思いましたが、目隠ししていてはボトルの場所も分かりません。それに悠長にシャンプーをしている場合でもありません。
お嬢様はほとんど気にしていませんが、私たちは今裸も同然なのです。私は腰にタオルを巻いてますが、お嬢様はその……何も身に纏っていないのですから。
早めに切り上げて先に着替えないと、実に色んな意味で地獄を見る羽目になるでしょう。ああっ、セレンさんの怒りの形相が目に浮かぶ……!
一通り髪を洗い流せば汚れは落ちるでしょう。それでも気になる汚れがあったら屋敷に帰ってからお風呂に入ればいいのです。そうです、だからシャワーはこれまでにしましょう。そうしましょう。
「じゃ、じゃあ私は先に上がりますねっ!!」
若干声を上ずらせつつも、私はシャワーの栓を締めてお嬢様に告げました。シャワーの音からするにまだまだお嬢様は時間がかかるでしょう。勝ったなこれは!
そして返事を待たず真っ暗な視界の中壁の感触を頼りに出口の方へと向かいます。
「あ、待って華炎。そこの床は滑りやすいと有名で――――」
「きゃひん!」
「ああ、遅かった……」
いったああああい!!
足が滑ってお尻を床に思いっ切りぶつけてしまいました。強力なワックスでもかけられているんじゃないかと思うほどツルツルしてます。
尾てい骨がじんじんして脊髄が麻痺する感覚。流石に骨折やひびが入った訳ではないようですが、それでも立ち上がれそうにありません。とても痛い。
「は、早く言ってくださいよぉ……」
遅い注意喚起に文句を言い放ち、私はそのまま文字通り這い蹲ってシャワー室を出たのでした。
「ひ、酷い目に遭った……」
脱衣所まで戻れば、腰の痛みも引いて立ち上がれるぐらいに回復しました。
こうしちゃいられません。早く次の行動をしなければ。
ふらつく足取りで体を支えて、更衣室から持ってきた替えの体操着を引っ張り出します。お嬢様が上がらない内に着換えましょう。
髪を拭く手間すら厭い、タオルでさっと体を拭いたらそのまま下着に手を伸ばします。
その次に男性用パンツの上から女装用のドロワーズを着用。
最後に体操着with長袖ジャージを着れば、お着換え終了。
牛乳で汚れてしまった制服は綺麗に畳み、ビニール袋に入れて後でセレンさんに渡すことにします。
最後にバスタオルで髪の水気を落とし、だらしなくない程度に整えました。
メイクはどうとでもなるので後回しです。
「よし、お嬢様が出てくるまで間に合った……!」
これでセレンさんプレゼンツ:ハイキックの刑を免れることができました。
完全勝訴、閉廷!
内心でドヤ顔をしていると、シャワー室の方でシャワーの音が止みました。ペタペタというはだしの足音も聞こえます。
そのまま急ぎ荷物を纏めて脱衣所を後にしました。扉を完全に閉めて廊下でお嬢様の着換えが終わるのを待つことにします。
万が一のことがあったときに備え、扉に耳をあてて中の様子に傾注すると……
「あら、華炎は? 先に上がってしまったのかしら」
シャワー室から出てきたお嬢様は私と私の荷物が無いことに気が付き、去ってしまったと察した模様。
「……着替えを手伝ってくれればよかったのに」
またあんたは性別の問題を忘れたのか! 絶叫したくなる衝動を理性で抑え込み、なんとか口から呻き声が漏れる程度で済みました。
この性別に対する認識の甘さは、今度屋敷中のメイドを集めて緊急会議をするべき案件では……? そう思わずにいられない心情でした。
その後しばらくタオルが体表を擦る音だけが聞こえるようになりました。
特にトラブルが起こる様子もなさそうです。お嬢様のことだから心配はしていませんでしたが、これなら私も安心してのんびり待機していられますね。
……そう思ったのがいけなかった、という訳ではないのかもしれませんけど。
「きゃああああーーーー!!!」
耳を扉から離した瞬間、脱衣所から絹を裂くような悲鳴が轟いたのです。
「今のはッ――――!?」
脱衣所にはお嬢様しかいないはず。となればこの悲鳴は間違いなくお嬢様のもの!
考えたくはありませんが、お嬢様の身に何かあったとしか考えられません!
もしや、【豊葛グループ】令嬢の身柄を狙って暴漢が……くそっ、考えている暇はありません! 今すぐにお嬢様を助けねば!!
「お嬢様ッッ!!」
私は扉が半壊することも厭わず、脱衣所の扉を蹴破ってダイナミックエントリーしました。
そして瞬時に辺りを見渡して不審者がいないか走査し…………
「……誰も、いない?」
脱衣所にはお嬢様を襲う暴漢などいませんでした。
念には念を入れて頭上の天井や、入違った可能性も考慮して廊下を確認します。やはり不審者など人っ子一人も見当たりません。
ノータイムで応戦できるよう構えながら突入したのですが、完全に徒労というか杞憂もいいところと言うか……いや、まだそうと決まった訳ではないのです。
尻餅をつくお嬢様を背に庇うようなポジショニングを取り、引き続きあたりを警戒してお嬢様に話を――――
「くっ、クモ! 蜘蛛! 蜘蛛がいるわ!!」
……は? クモ?
えっ、クモって言うと、あの空にフワフワ浮かぶ水素分子の塊ではなく、八本脚の節足動物であるあの蜘蛛……?
いやいやいやいや。まさかそんなことがあるわけがないですって。
【豊葛グループ】令嬢ともあろう者が、そんな矮小な小生物一匹にビビり散らすだなんてこと、あるはずが……
――――カサカサカサ。
視界の隅を、一匹の小さな蜘蛛が通りかかりました。
「…………」←(絶句)
私は無言でその蜘蛛に近寄り、ヒョイと摘まみ上げました。顔なんてあるはずのない蜘蛛が、どこか申し訳なさそうな顔をしているような気がします。
無性に可哀想になって、私は廊下の窓を開けてそこから彼を逃がしました。二度と戻ってくるなよ~……
あー、一仕事終えたら気分がよくなったなぁー。
永く苦しい戦いだったなぁー。
……よし、教室に行こう。遅刻したとはいえ授業はちゃんと受けないといけませんから。
「ま、待ちなさい華炎! 蜘蛛は!? 蜘蛛はどうしたの!?」
そのまま2-Aへ行こうとしたところで、脱衣所からまたもや悲鳴じみた絶叫が聞こえてきました。
デスヨネー。
こう、胸に何となくモヤモヤしたものが湧き上がるのを黙殺しながら、悪魔が去った後もビクビクしつづけるお嬢様の方へ。
「大丈夫ですよ。ちゃんと退治しました」
「ほ、本当!? 本当なのね!?」
いっそ涙声になりながらしつこく何度も聞いてきます。そんなに怖い……というか嫌いなんですか、虫が。
都会っ子だなぁお嬢様は。
そう思いながらお嬢様に向き直りました。
そして、お嬢様の姿を見てしまったのです。
「まったく。誘拐か何かと警戒した私が馬鹿みた…………い、で…………え?」
着替えの途中で蜘蛛とエンカウントしたのか、お嬢様は胸と局部を隠している下着だけを身に纏っていていました。
あまりにものあられもない姿をしていて、思わず目を逸らそうとしてしまいます。
……ですが、私の視線はお嬢様の躯体に釘付けになってしまいました。
水気を帯びた四肢。シャワーを浴びて火照った女性的な柔肌。
普段は服に隠れて見えなかったカラダの大部分が、私の前で惜しげもなく晒されていました。
一人の男としてそれに目を奪われた、というのも否定しないでおきましょう。
でも私はそれ以上に、お嬢様の体にある『とある物』を見て目を奪われたのです。
「おじょう……さま…………!?」
「え? あっ…………」
私がその存在を認めた瞬間、お嬢様自身も見られたことに気付きました。
今まで必死に隠そうとしてきた、がちょう番の娘の秘密を。
「なんで……なんで!?」
「こ、これは……!」
お嬢様の胸、お腹、二の腕、太もも、背中にも、馬鹿らしいくらいに沢山。
「どうしてお嬢様の体には、そんなに傷があるんですか!?」
「…………!!!」
お嬢様の体には、数えきれないほどの古傷が刻まれていたのでした。