第捌話 足元の幸福
あたしは何もかもに絶望していた。
数年間付き合っていた彼から
「お前とは一緒に居られない」と
いきなり別れを切り出され、
そのショックで
何もやる気が起きなくなり、
会社も休みがちになった。
上司や同僚からは
「そんなに気を落とすな」
そう言われていたが、
一ヵ月後、会社から
いきなり「解雇通告」を受けた。
いかなる理由であれ、
世間とは、社会とはそういうものだ。
あたしがどうなっていようと
これから先どうなろうと
「こいつは使えない」
そう判断した時点で
知ったことではないのだ。
―自分でいうのも何だけど
あたしは彼にも、会社にも
尽くしてきたつもりだ。
それをいとも簡単に捨てられた。
あたしは彼にとっても
会社にとっても
「いらない人間」になってしまったのだ。
こんなに辛いなら
いっそ死んでしまおうか・・・
時々そんなことを
考えるようになってしまった。
街へ出ても足元ばかり見ている。
時折聞こえる、楽しげな声。
それすらも恨めしく思った。
いつものように足元ばかり
見ながら歩いていると
「ニャーン」
黒い猫が擦り寄ってきた。
「あら・・・」
そう呟くと
あたしの足に
身体を絡ませ、甘える。
その仕草に久しぶりに笑う。
あたしは座り込み、
猫と目線を合わせる。
逃げるかと思ったが、
猫はあたしの顔を
その金色の瞳で
じっと見つめ動かない。
そっと頭を撫でてやると
嬉しそうに喉を鳴らし、
あたしの手に擦り寄ってきた。
動物は正直だな。
優しく接すれば
その分ちゃんと応えてくれる。
その応えてくれたことが
何よりも嬉しかった。
「ジオン!」
その声にあたしは振り向く。
すぐそこに黒いマントを羽織り、
大きな鎌を持った少年が立っていた。
この猫の飼い主だろうか。
猫は彼の姿を見つけると
飛んでゆき、
ヒラリと少年の肩に乗った。
「ダメじゃないか」
「勝手に歩き回って」
そう叱るが、少年の顔は穏やかだ。
猫は少年の耳元に口を近づけた。
―何か話してるように見える。
でもこの二人なら、通じていそう。
不思議とそう思えた。
少年はあたしと目を合わせる。
「―僕の姿が見えるのですね?」
そう聞かれ、
「え?」と思いながらもあたしは頷く。
「貴方は・・・?」そう聞くと
少年は少し黙って
「僕は死神です」と応えた。
―死神?
あの、死ぬ時に
魂を奪いにやってくるという?
タロットで見たのと大分違うが、
少年の持つ、あの大きな鎌は
同じだった。
それに気づき、
あたしは咄嗟に身を引いた。
「死んでしまおうか」
そう考えていたからだろうか。
そう思ってはいたが、
実際に目の前に
その死神が現れたと判ると
死の恐怖が襲い、体が震えた。
「あたしのことを連れに来たの・・・?」
震える声を抑えて聞いてみる。
少年は首を横に振った。
「貴女は確かに」
「ほんの少し死を願ったかも知れませんが」
「まだ連れては行けません」
そう静かに言った。
―連れていかない。
その言葉を聞いて
あたしは恐怖感から解放され、
安堵の溜息をついたが、
この先、生きていても―。
やり切れない気持ちもまだ残っていた。
自ら命を絶つ勇気なんて全然ないくせに。
自分勝手なのは判っていた。
「―まだまだ生きろってことなのね」
そう呟くと
「今は辛いかもしれませんが」
「この先悪いことばかりでもないはずです」
そう少年が言う。
その言葉を聞いて
「そうね」
「この子に」
「ジオンに会って久しぶりに笑えたわ」
そう言うと
ジオンは少年の肩から降りて
またあたしの前に来た。
「ニャーン」そう泣くと
あたしの膝に前足を乗せ、甘える。
あたしはジオンの身体を撫でる。
「柔らかくてあったかい・・・」
そう呟くと少年は
「それが判るなら」
「貴女は大丈夫ですよ」
そう言って静かに微笑んだ。
「貴方、死神なのに変な子ね」
そう言って笑うと
「えぇ、よく言われます」
照れたように笑う。
別れ際に少年は
「足元ばかり見てると」
「そのうちぶつかりますよ」
「―それが幸福ならいいですけどね」
そう言ってジオンを肩に乗せ、
去っていった。
ホントに変な死神―。
あれで魂なんて奪えるのかしら?
そう思うとまたおかしくて笑ってしまった。
相変わらずあたしは
足元ばかり見ていた。
あの頃に比べたら気持ちは
大分落ち着いてきたのだけど・・・
あたしは前を歩いて来た人と
ぶつかり、その足元に
ガシャン!と音を立てて
携帯が落ちてきた。
「あ、ごめんなさい!」
謝りながら拾いあげると
「あ、すいません」と男の人の声がする。
あたしは顔を上げた。
「こっちこそボーッとして・・・あれ?」
あたしの顔を見て
驚いた顔をする。
「あれ・・・」
あたしも思い出した。
高校の時の同級生だった。
「―それが幸福ならいいですけどね」
死神の彼の言葉を思い出した。
「久しぶりね。元気してた?」
あたしは彼に笑顔を見せた。
―これが彼の言った幸福であるように、と。
―第捌話 降幕―