古本屋
うちの両親は本好きだった。
狭いマンション暮らしではあったが壁面一枚にみっちりと本棚を並べ、そこにぎっしりと書籍が詰まっている、そんな環境だったのである。
松本清張は初版ですべてそろっていた。北杜夫、遠藤周作など、おおよそ有名どころといわれる書物はここから引きずり出して読んだものだ。もちろん子供用に世界名作全集もそろえられており、幼少時は読むものに困らなかった。
しかし、成長とともに読書の好みというものが出てくると、父の本棚では物足りなくなってくる。何しろ父は推理小説が好きで新たに買ってくる文庫本は内田康夫や西村京太郎など……対する私は推理小説をあまり好まなかった。
重ねてちょうどジャンプ全盛期であり、漫画本が一番面白く感じる年頃だ。小遣いの大半を漫画に溶かすこともしばしばであった。
もちろん潤沢に小遣いがもらえるような大金持ちではないのだから、冊数が欲しければ古本屋を頼ることとなる。私と弟たちの休日の楽しみといえば市内の古本を巡ることであった。
ブックオフが幅を利かせている今とは違い、個人経営のこじんまりとした店が多かった。棚間は狭く、あめ色に変色した厚板の本棚にぎっしりと書籍が詰め込まれ、店の奥は薄暗くてかび臭い。その古びた匂いを嗅ぎながら何時間でも立ち読みで粘り、帰宅するときには厳選した一冊を買って大事に抱えて店を出る、そんな時間を毎週のように楽しむことは金のかからない贅沢であり、至福であった。
さて、画一均一大型店舗に小書店が食われている今とは違い、この頃の古本屋は品ぞろえからして店ごとの個性というものがあった。そして私たち兄弟は市内であればどこでも自転車で行動してしまうようなバカ兄弟であったからこそ、市内のほとんどの古書店を把握していた。
一番に利用していたのは家から徒歩圏にある小さな古本屋だ。十数畳の広さの中に本棚を三列並べたここは漫画本が多く、今のようにR規制の厳しくない時代だったのだから、大人向けの漫画が子供向けの漫画の隣に並べられていたりとカオスなことになっていた。
そういえばダミーオスカーはこの古本屋で立ち読みしたんだっけか。
真に古書を楽しみたいなら繁華街に近い店。ここは箱入りだったり和綴じだったりの本物の古書が多く、見て楽しむにはいいが子供の小遣いで手が出せるような代物でもない。それに、これは店の主人の性質でもあろうが子供は歓迎されない雰囲気が芬々と漂っていて居心地悪く、数えるほどしか利用しなかった。
もう少し離れた古書店は、これこそカオスで、おおよそ書籍の形をしていれば買い取るような節操なさで、当然棚に並ぶ商品もそれに準ずるものばかりだ。映画に始まり同人誌、怪しげな実用書の類で棚のみならず足元も埋まり、その狭い通路にしゃがみ込んで背表紙を眺めるのは宝さがしのようなワクワク感があって、ここがいちばん好きだったかもしれない。
ここで実に多くの書物と出会った。もはや題名も覚えてはいないが、当時から創作理論が好きだった私は一般であれば興味もひかぬような心底怪しげな本を引っ張り出しては通路に座り込み、店員に注意もされた。だから今でも創作関係の書物を当たるとき、私の脳裏によぎるのはカビとホコリの混ざり合った湿っぽい匂いと、店員の少し抑えた注意の言葉なのだ。
そうまでして古本屋を回っていたのには理由がある。一つは本好きだということ、もう一つは『初版本集め』だ。
こんにちではまったく付加価値としての用をなさなくなった『初版本』の文字、もちろん私の子供のころには廃れはじめていたが、まだ少しは価値があった。何より父親の影響か、私たち兄弟の間で初版本といえば興奮するキーワードだったのである。
だから偏執的なくらいに初版本で漫画を買いあさった。その甲斐あって我が家の本棚に並んだこち亀の作者名は『山止たつひこ』であった。ほかの漫画も総初版である。
新しいものなら新刊を買えばいいが、古いものほど初版で欲しがり、何件も古本屋をはしごして奥付を確認して回ったあれは、子供特有の意地でもあった。今考えれば手間ばかりかかって馬鹿馬鹿しいことである。それと同時に、子供なりの遊びの形でもあった。あり余るほどの時間を持て余しているからこそできる、時間の無駄遣いという最高の贅沢である。
大人になって時間に追われるようにして生きている今、あの頃の時間がこの上なく愛おしく感じることがある。
古本屋の店内に流れる時間は少しカビの匂いを含んで重たく、ゆっくりと流れていた。その中で大人になる日が来るとも知らずに子供っぽい偏執に囚われていた私たちは何と幼かったのだろうと……棚間広く、きれいに書籍の分類された大型店舗の片隅で、古書を選びながら思うのである。