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駄菓子屋

 昭和の代名詞といわれて最初に思い浮かぶのは『駄菓子屋』だろうか。

 最近ではコンビニにその役割をとってかわられ、めっきり見かけることのなくなった、懐かしい『郷愁』の一つだ。


 だいたいの駄菓子屋というものが小さくて古い建物であるというのは、それがその店の歴史でもあるからだろう。

 わたしがよく通っていたなじみの店はアパートの一階部分、大家さんの家の前座敷という店舗ではあったが、やっぱり古びれていた。

 たいがいの駄菓子屋がそうであるように足元はコンクリート製の三和土。そこに木性の二段棚が三台、店を二筋に分けるように両方の壁際に一台ずつと中央に一台置かれて、店内は狭い。そして棚の上にはとりどりの、細かな駄菓子が並べられてにぎやかしい。

 まさに昭和の駄菓子屋を代表するような造りの店舗である。もちろん店の奥には住居につながり小さな縁側があって、「くださいな」の一声をかければ前掛けで手をふきながら、ちょっと年のいったおばちゃんがそこに現れるという仕組みになっていた。

 それにこの店舗は近所でも一番大きく、店の片隅にはお好み焼き屋のような鉄板が置かれている。後年これが正しい駄菓子屋スタイルだと知ったが、子供心にはひどく異色な存在に思えて、心ときめいたものだ。

 鉄板があり、ちょっとしたお好み焼きなどが供されるのだから昼間からそこに陣取って瓶ビールなど楽しむ大人もいる。もちろん働き盛りをすぎたようなくたびれたじいちゃんたちで、その大半は無口で寡黙で、わあわあと子供が騒ぐ店内になど興味もない様子であった。

 時にどうしたことかおちゃめなおっさんなどがいるときもあって、そういうときは店内が少し混乱する。おっさんは、ほろ酔いの陽気さで子供たちにちょっかいをかけに来るのだ。

「おう、坊主、今日はいくら持ってきた? お、百円か? 豪勢だねえ」

 少し計算の弱そうな男の子を見つけては計算の手伝いをしてやるのだが。

「そのガムが10円ぐらいだろ? ニンジンはたぶん20円だな、で、そっちのチョコが……30円でいいんじゃないか?」

 ひどく曖昧模糊、不明瞭かつ不明確な計算の結果、必ず差額が発生するという、いわゆる酔っ払い特有のからかいだったのだが、このおっさんの人気は絶大であった。

 いまどきならこの話を聞いて眉をひそめる親もおられるやもしれん。「そんな見知らぬ大人にちょっかいかけられてへらへらしているなど、警戒心の薄い」と。

 しかし、それは駄菓子屋の店内だけでのことであり、衆人環境でもあるのだからよもや間違いなど起こるまいという、そうした安心感のある微笑ましい光景であった。

 もし件のおっさんが駄菓子屋の外でも子供について回るような偏執的な性質であればこれほど子供に懐かれるわけがなく、おっさんのほうもそれをよく心得ていたのである。つまりはおっさんも客であり、子供たちも客であるという、店内のみで通用する対等な立場だからこそ成り立つ関係であったのではないだろうか。

 一杯飲み屋で常連が一見の客をちょっとだけからかう、あの感覚である。

 そしてこの鉄板だが、主な利用客は一人二人のおっさんたちではなく、実は子供たちであった。

「おばちゃん、タマセン焼いて!」

 子供からの注文があれば、おばちゃんは皺っぽい手で卵を掴み上げる。それを鉄板の上に割り落とし、コテで平らに広げ、そのうえにえびせん(薄っぺらくて顔ぐらいの大きさに焼かれた、オレンジ色のせんべい)をかぶせて軽く焼しめるのだ。出来上がったものはえびせんの表面に薄い卵焼きがはり付いただけのチープなものだが、これにソースとマヨネーズをかければお好み焼きに似た味が楽しめる。しかもこれが一枚80円という価格だったのだから、人気メニューだったのである。

 もっとも私は小遣いが少ないほうで、駄菓子屋用の財布の中には20円30円入っているのがせいぜいだったクチであるから、鉄板とはあまりなじみがなかった。もっぱら店内の菓子を眺めて回っては小さな菓子を一個二個買うだけだったのだが、他の子たちだって似たようなものである。こうした小口の顧客が駄菓子屋の経営を支えているといっても過言無い。

 そもそもが駄菓子は一個ずつは小さくて小容量、しかもチープ。わたしのお気に入りはヨーグルという、小さな容器にヨーグルト味の練り砂糖が詰め込まれた菓子だったが、これが一個10円というリーズナブルさ。

 他にもマルカワのガムが10円、串に刺したノシイカが10円、薄っぺらい型に流し込まれたチョコ類が10円……まあ値段を見れば品質は推して知るべし、スーパーで売っているもうワンランク上の菓子からは想像もつかない粗悪でキッチュな食味ではあったが、これは今日でも私たちの世代に『駄菓子屋の味』として擦りこまれている一種の味覚ジャンルを形成する要素なのだ。

 もっとも、この味覚の再現だけなら可能である。

 今日日コンビニやスーパーにも駄菓子コーナーが設けられ、当時と変わらないパッケージの菓子を廉価で、それこそ子供同士が連れ立って一人前気取りで買い物をすることはできる。しかしその光景を見るたびに現代の子供たちの不自由を思い、失われた駄菓子屋の風景にノスタルジー以上の感慨を禁じ得ない。

だいたいが駄菓子屋は子供たちが自分の小遣いの範囲内で楽しめる、親がまったく干渉しない場所であった。親連れで駄菓子屋に出入りしている子供など見たことがない。そこでは子供が主役であり、一人前であり、大人による束縛を受けない自由な空間でもあった。

 そうした場が失われて久しいように思う。

 コンビニはほかの商品を買いに来る『大人のための』空間であり、子供たちの駄菓子はそこに間借りする形で置かれているのだ。そこでの主客は大人たちであり、子供たちは大人のおまけでしかない。

 

 あの日……もはやわたしの記憶の中だけにしかない古びた駄菓子屋の中では、確かに子供たちが主役であった。店内には子供たちのための商品ばかりが並べられ、財布を出すのは子供たち自身であった。

 店の隅で瓶ビールを舐めながら不機嫌そうに子供をにらみつけるおっさんも、子供たちを茶化してはつまみにして酒を飲むおっさんも、全ては『子供のための』空間に間借りしている肩身の狭い大人だからこそ味があったのだ。

 そしてノスタルジックな『駄菓子屋の味』の正体とは、そんな大人社会との隔離空間が見せる子供であったという特殊な一時の夢に似た感慨が見せる幻であるということを、今この時、角のコンビニで買ってきたうまい棒をかじりながら思うのである。


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