天変地異
とある数日後のことだった。
何時もどおり出社して朝礼が終わって。今日も、何もかもが変わらない毎日が始まろうとしていた。
あれから熊沢さんはなにも、あの夜には触れなかった。わたしが大泣きしたのも、二人でご飯を食べたのも。
あの日からまた、職場ではみんなと当たり障りのない会話をする小さな日常が、ただただ続き、そしてまた新しい1日が重なろうとしている。
朝礼が終わり、席に着くかどうかのタイミングで、お局様に呼ばれた。
「今度の健康診断、物流センター分も来ているわ。電話して取りに来させて。」
と、取りにこさせて…って…
総務の仕事ってなにしてるの?って よく聞かれる。
やってみると いろんな仕事があるって、結構知られてないんだよね
勤怠の管理…社員の出勤、遅刻早退、有給発生とかのチェックでしょ、
正社員とか契約社員とかなら当然、健康保険に加入しているから、怪我とか病気したときに使う傷病手当とか、休職退職,産休育休,関係の保障制度の手続きもそうだし、
お給料払った事にからむ税金の話、
会社の運営に絡む諸経費と申請の話
労務・財務・社内の事務関係と色々ある。
私の担当は 労務
…なんだけど、そんなに任せてもらってない。実際は 申請書類のチェックとか、入力とか。
決められたフォームに打ち込むだけの仕事。
自分でも 分かってる。会社員に向いてないって。
公的な書類読んで 社内への「告知メール」作ったりは好きだけど、それを人に伝えたりするのって、苦手。
実際に 人から問い合わせ受けたことに返答をするっていうのが、苦手。
一人で黙々とテンキーを打っていたり、自分の入力の確認している方が…好き、かもしれない。経理課とかの方が…良かったな…
だから、社員の皆様にお願い。
出来れば 間違わないで欲しい、な。こちらから、問い合わせして修正する手間があるから。
ううん、違うの。
連絡するのが怖いの。
こんなアタシ、会社員とかって向いていないと思う。
ダメだよね。分かっているけど… 頑張れない。
はあ、と 勝手にため息が漏れた。
「物流センターに郵送、しても、いいですか?」
お局様の目がギラっと光った、ように見えた。
「電話一本で済むでしょ?」
「蕃昌チーフ、なかなか電話に出ないし…折り返しとかも遅い方ですし。お忙しそうな様子なので…」
この前見た印象だと、電話が常に来ては、ずっと対応に追われ続けて…忙しそうな人に見えた。「取りに来て」なんて言ったら、怒るだろうな…
「貴女、わたしは『電話して』と言ったのよ?
物流センターにあの検査キットを郵送したら、送料が掛かるの。ここから物流センターは近いんだから、電話して取りに来させて。」
絶対NOと言わせない態度… こうなっちゃうと、お局様は絶対引いてくれないんだよね… 自分の思い通りにならないと、すっごく意地になるの。
あー、でもなぁ…
電話しづらい。あの蕃昌チーフに電話なんて、考えただけでも怖い。
「貴女、総務課の経費を増やすような事を言わないで頂戴。」
念を押された。
絶対電話してってことだろうな…やだなあ
ノロノロと席に戻って溜め息をついた時だった。
「柏木チーフに頼めば?家で渡してくれるんじゃない?」
先輩が間を取るような助け舟を出してくれた…って、秘書課の柏木チーフも怖いんだけど…っ!
それに、番昌チーフの住所変更届は届いてるけど、入居開始日は来週とかだった。頼めないよ…
諦めて、電話番号一覧を開いた時だった。
「物流部から借りてた社有車、返さないといけないんじゃなかったっけ?」
熊沢さんがふと声を上げた。
なんかね、取締役がトップセールス掛けていたところがね、本社とか支社が持ってる車だと…メーカーの系列の都合とかで乗り入れしづらい「大人の事情」があるだとかで…
「なら、ちょうど良いじゃない。それでお帰り頂ければ?」
御局様の一言に、総務課のフロアの空気がぴきっ…と凍った、気がした。
きっと、誰しもが思ったと思う…それは…ちがうだろうって。
そもそもが、「本社が貸して下さい」って切り出した車両だもん。
「ありがとうございました」返しに行くのが、マナーっていうか…ルールっていうか…その、うん…
でも、こうなっちゃった時の御局様は 絶対引かない。
「本社が、支社や他末端を管理しているの。本社の人間の指示は、会社の指示なのよ、そうでしょう?」
分からなくは…ないけど…
思ってても、口に出さないのが普通。
だけど、このお方は…言ってしまう。
あーあ、また悪い癖が始まった。
まるでそういいたげな総務課長の他人事な顔がちらりと見えた。
先輩たちはもう、慣れきってて ずっと何かを打ち込み続けてる。
これが…大人の対処。そう、これでいいの…
そう思っては自分に言い聞かせてきたけど…脳裏には、総務課宛てに掛かってくる支社とか他部署からの嫌みめいた質問電話とか、卑屈までの低姿勢メールとか、沢山沢山思い出してはきりがない。
わたしも…はやく。
そう思って、電話番号一覧をもう一度見返した時だった。
「大川さあん。
ぼく、物流センターには 車を返しにいく姿勢だけでも見せた方が良いんじゃないかなあって思うんですけど…?」
その声は、熊沢さんだった。
「何故?どうしてその必要があるのかしら?」
御局様は、意見されたのを驚きながら、でも 申し開きを聞いてあげると言いたげな…余裕を見せるようかのハッキリした言い方をした。
すると、熊沢さんは
「大川さんの言うとおりだと、ぼくも思います。」
え?引いちゃうの?でも、その割には声は堂々としていて、話し掛ける雰囲気は全くのいつも通りで。熊沢さんは、ニコっと笑って続けた。
「でもね、今回は、物流センターにも、ちゃんと説明しないと『何で?』ってなっちゃうと、ぼくは、思うんです。
『使って下さい』ならともかく『貸して下さい』って持って行かれた車だから、ちゃんと、ありがとうございました~って誠意見せないと、ね。
社内の繋がりが『何なんだよ』ってなっちゃうと思うんです。」
それはまるで…
老いて介護を受けている人を諭すような…愛情ある語り方。
「そうね。そういう考え方もあるわね」
御局様が、一瞬黙った。
「大川さん、ダメかなあ?」
熊沢さんは、今度は 頼るような雰囲気を匂わせた。畳み掛けるような言い方ではあったけど、熊沢さんのあの顔と話し方だもん… 悪気がっていうより…
「ダメじゃないんじゃないかしら? それも一つの考え方だもの。物には正解はひとつじゃないの。」
教えを請われたと思った御局様は、意気揚々と答える。そして…御局様だけが気が付かなかった事態が此処で静かに起きていた。
「クマ、車をよく確認してから、返却する旨を連絡して頂戴。貴方、今日、お昼は持ってきたの? 食べに行くなら、お昼も兼ねて洗車してそのまま返してきて。」
…折れた。
いま、御局様が、折れた…!
ちゃっかり話をすり替えて、指示を出し直してるけど…
今、折れたよね?
総務課のフロア全員が不自然な間を醸しては、これは事件だと実感していた。
熊沢さん… すごい。
話術なのか、生まれ持ったものなのか。
あの御局様に意見して、話をひっくり返した…
「熊沢さん、これ 物流センターの車の鍵だから。」
総務課長がおもむろに立ち上がって、鍵を熊沢さんに渡す。その様子は、どことなく、課長も驚いている様子で。
「ありがとうございます~ じゃあぼく、車見てきますね。」
驚いてないのは、熊沢さんだけ。そして、全く空気を悟れない御局様。
本当に… 謎なひと。熊沢さん…
この人は… 一体… 何者なの…?
この不思議な新人が、実は不思議で収まらないことを、この後わたしは もっと知っていくことになり…
そして、まだまだ序章でしかなかった。