これは、岩戸なんかじゃない
熊沢さんは何も言わなかった。しばらく何も言わなかった。
嗚咽が止まったわたしに、初めて口から言葉といえば
「ぼく、お腹すいちゃいました… お開きになったら、ごはんを食べに行きませんか?」
適度に的がずれた一言で。
「お店は、決めてあるんです。行ってみたいなぁ〜って思ってるトコなんです。」
まるでわたしが泣いていたのを、もう忘れたかのような…のんびりとした口ぶり。
「じゃあ、そこでいいです」
一人暮らしで、お財布がピンチじゃないといえば、そうだけど… 人前で大泣きしたあとに、ひっそりと帰ったら、きっと引きずっちゃう。
「楽しみだなぁ〜 絶対、美味しいだろうなぁって思って気になってたんですよ」
熊沢さんが笑いながら、それはもう自然に洗面台から会社の人がいる個室に戻ろうとした。まるで、泣き腫らしたのを知らなかった風に。
「まって、最後に鏡見たいの」
泣き腫らした顔で席に戻りたくない。
「そう? このままでも可愛いのにな?」
熊沢さんが笑う。可愛いなんて、言わないで。喜んじゃうじゃない。泣き顔で固まった顔、その唇がすこしだけ…ほぐれるのが分かった。
「これ使って」
スーツのポケットから出されたハンカチ…いや…手ぬぐい、かしら。
躊躇いもせず、一気に濡らしたかと思うと 固く絞って渡された。
「冷たい方が、気持ちいよね」
ニコ、その顔がやっぱり無邪気だった。
「それ、毎年貰ってる手拭いだから、気にせず使って。」
ハンカチじゃないから、気を遣わないで、そう言ってるんだ…
手拭いを広げて柄を見ると、どこかの街の名前が、筆文字で大きく描かれてる…紺だから、もし汚しちゃっても…目立たないかも… 助か、あっ そんなこと言っちゃいけないか。
「熊沢さん!」
顔を上げると、ドアがパタンともう閉まろうとしていて。
わたしはまた、一人になった。
でも、寂しくない…自分を整えるための穏やかな一人。
元気になろう。
手拭いを目に当てた。
熊沢さんが待っててくれてる。待つ人がいるんだから、元気にならなきゃ。
これ以上無いほど煮詰まった感情を吐き出したわたしは、顔はもうヒドイもんだったけど、心は晴れやかだった。
まぶたと、頬を冷やしながら、鏡をのぞき込んだとき
『何もかも、人に何らかの…』
心に白くて鮮やかな感情が差し込んできた気がした。それは、悩みを一刀両断するような、清らかな訓示。
『今回に至るまで、全部自分が悪いじゃない?
今までずっと、人に自分の感情とか思いとか…会話っていうの?コミュニケーションを避けてきたから、社内で浮いてたんじゃない?
出来なかったのは仕方ない。
けど。そもそも。わたし。
自分から発信したことあった?…ないよね…?』
決して、自分を責めてるんじゃなくて…整然と事実が胸に入ってきては、素直に受け止められる心境になってる。
きっと今回は、感じるだけ感じ続けて、吐き出さなかったから心のタンクが破裂しちゃったんだ。排出路がこれから急に大きく成長するとは思えないけど… ここに居ても大きくはならない。大きくする方法も、ここに居ても分からない。
出なきゃ。出たほうがいい。出ればきっと分かる。
わたしは最後に エイっ! と洗面台に張った水の中に顔を漬けた。
ひんやりとした水温が肌を刺激する。もっと刺激が欲しくて、まぶたを開けた。水道水特有のピリピリがきたけど、それは全て生きてるから、感情があるから。
「ぷはあ!」
声を出して、新しい酸素を吸い込んだ。居酒屋のトイレの空気が美味しいワケがないけど、ドロドロの身体に宿る空気なんかよりきっとキレイだよ、きっと。
濡れた顔を手拭いで拭いて、最後に ペーパータオルで拭きあげた。すっぴんだったけど、夕方によくある化粧が落ち果てた顔よりずっといい。
よし、いこう!
長い人生だもの、こんなことは おっきい壁でも扉でもない。
わたしは、清々しく扉を開けて 踏み出した。