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植物博士モチオののんびり遺跡フィールドワーク ~歌姫カリーナと二人の木の精霊に囲まれて、伝説の果実を育てることになりました~  作者: ゆうぎり
第6話:離れの湯屋と、ハーブの香りの贈り物

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星の湯と、次の一歩

 出発を明日に控えた夜。

 アイレックスの森は、かつてのような乳白色の湿り気に守られることなく、どこまでも透き通った、剥き出しの静寂に包まれていました。


 モチオくんは、再び離れの湯屋の石組みの浴槽に、ゆっくりと身体を沈めていました。


 窓の向こう。

 霧という物理的な障壁が消えた夜空には、数えきれないほどの星々が、まるで黒檀の板に散りばめられた宝石のように峻烈しゅんれつな輝きを放っています。


 それに応えるように、浴槽の脇。

 濡れない場所に置かれた星瞬草セイシュンソウも、一パルスごとに青白い、それでいてどこか人肌のような温かみを感じさせる光を放っていました。


 立ち上る湯気は、昨夜よりもさらに濃密なハーブの香りをまとっています。

 光の粒子を核にして、モチオくんの周囲を「ふわふわ」と幻想的なカーテンのように漂っていました。


(……僕は、この森の中で生涯を終えるものだとばかり思っていた)


 モチオくんは、湯に浸かった自分のてのひらをじっと見つめます。


(一グレインの未知を解明し、一ドロップの新しい薬効を見つけ出す。それだけで、僕の人生の研究日誌は十分に満たされ、静かに完結するはずだったんだ)


 湯気の中の光の粒子が、指先の間をすり抜け、黄金色の尾を引いて消えていきます。


 けれど――


 星瞬草と出会い、その光が自らの意志で霧を晴らしたあの日から、森はモチオくんを優しく閉じ込めておく「安全な箱庭」ではなくなりました。


 一節いっせつごとに、これまで嗅いだことのない街の熱気を孕んだ風が吹き込みます。


 隠されていた遠くの景色が、

「ここへおいで」と無言で手招きをしているように感じられるのです。


「……均衡バランスは、開かれたんだね」


 モチオくんはぽつりと呟きました。


「もう、昨日の僕らには戻れないんだ」


 独白は、光る湯気の中に溶けて消えていきました。


 その時でした。


 脱衣所の方から、明るい声が届きます。


「モチオー、のぼせてない?」


 カリーナちゃんです。


 彼女は扉を、冷気が入り込まない程度に少しだけ開け、湯気の届かない縁に腰を下ろしました。


 そして、少しだけ間を置いて言います。


「……ねえ。街に行くの、やっぱり少しだけ嫌?」


 その問いかけには、いつもの一ドロップのからかいも混じっていませんでした。


 彼女もまた、この静かな森の暮らしを深く愛しています。

 だからこそ、外の世界へ最初の一歩を踏み出そうとするモチオくんの「緊張」を、自分のことのように繊細に感じ取っていたのです。


 モチオくんは、正直に答えました。


「……嫌じゃないよ」


 少し考えてから続けます。


「ただ、足元がふわふわするような感覚があるんだ」


 湯気の中で指先を見つめながら。


「一グレインの計算違いも許されない研究室の中での真理探求とは、全く違う種類の『制御不能な未知』が、あの石畳の街には待っている気がしてね」


 その言葉を聞いて、カリーナちゃんは小さく笑いました。


 夜の森を渡る風のような、柔らかな笑いです。


「じゃあ、大げさな遠征や冒険旅行じゃなくて」


 少し考えてから言います。


「『ちょっとしたお買い物』ってことにしましょうよ」


 モチオくんは顔を上げました。


「星瞬草に似合う新しいテラコッタの植木鉢を探して」


「アイベリーちゃんには、見たこともない珍しい花の種を」


「カリンベリーには、お口の中で溶ける甘いお菓子を買って……」


 カリーナちゃんは、くすっと笑います。


「ついでに、あの香り袋を誰かに届けてみる」


「ただ、それだけのことだわ」


 モチオくんは少し考えてから、ふっと笑いました。


「ちょっとした、お買い物……」


「……そうだね。その方が、僕らしいかもしれないな」


「ちょっとした」


 その魔法のような言葉が、硬く強張っていたモチオくんの肩の力を、一節の間に優しく解きほぐしてくれました。


 湯船から上がると、身体は芯からぽかぽかと温まっています。


 肌には星瞬草が引き出したハーブの清涼な残り香が「さらさら」と、まるで透明な衣のように纏わりついていました。


 これなら、たとえ街の雑踏や喧騒に紛れたとしても、

 一パルスの迷いもなく、自分たちの本質を見失わずにいられるはずです。


 小屋へ戻る道すがら。

 モチオくんは不意に立ち止まり、夜空を見上げました。


 霧のない空に輝く本物の星々。


 そして、腕の中の鉢で静かに瞬く星瞬草。


 かつてはあまりにも遠く、決して触れることのできない冷たい存在だった「星」。


 それが今では、こんなにも近く、

 凍えた掌を温めてくれる存在になっていました。


 モチオくんはまだ知りませんでした。


 明日、アイレックスの街へ持ち込むこの小さな「星の香り」が、人々の鼻腔をくすぐり、どのような驚きと歓喜、そして既存の理に対する波紋を広げることになるのかを。


 けれど彼はもう、一グレインの迷いもなく、愛用の鞄の中に日誌を収めています。


 新しい一節を書き出す準備は整っていました。


 明朝の清冽な光が、森の出口を抜け、街へと続く真っ直ぐな一本道を照らし出すのを――


 静かな、けれど熱い期待と共に待ちわびながら。

調査ログ:補足事項


【物理の理】


一ドロップ:カリーナちゃんの声に混じる、ほんのわずかな、けれどモチオくんの心を癒やすのに十分な気遣いの温もり。


一グレイン:モチオくんの心から剥がれ落ちた、古い「固執」という名の重み。あるいは、湯上がりの肌に微かに残ったハーブの有効成分の質量。


一ストライド:湯屋から小屋への帰り道。一歩踏み出すごとに、決意が地面に定着していく感覚。


【刻・振動の理】


一パルス:星瞬草が規則正しく刻む、周囲の不安を期待へと変換する光の鼓動。


一節いっせつ:モチオくんが「お買い物」という言葉を受け入れ、心の底から旅立ちのわくわくを感じるまでの、静かな意識の転換。


温弦おんげん:ハーブの香りと光の共鳴が、四人の心と体を芯から温め直していく際の、穏やかな夜の響き。


航弦こうげん:明日への旅立ちを祝い、湯屋の薪が最後に小さく爆ぜた瞬間の響き。

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