探究
寝返りを打って仰向けになる。真っ白な天井。フィクションの世界の天井は決まって意味深な形状の染みが刻まれているから、うらやましい。白は無ではないが、無に四捨五入される。四捨五入の注釈つきでも無は無だから、空想は広がらない。粗悪な石鹸か冷凍されたバターのようだ。
決別したばかりのスマホをつける。あと二時間で入浴しなければならない時間だ。沙理、父親、母親、順番は決まっている。沙理は父親のあとだと嫌だから、一番風呂。なるたけ早く入りたい父親は渋々二番手。一日の家事を片づけてからゆっくりと浸かりたい母親がトリを飾る。男性差別なのか女性差別なのか、個々の家庭で定められたルールは欧州情勢ほど複雑ではないが、負けず劣らず奇々怪々だ。
時間帯的には遅くも早くもない。入浴を先延ばしにしたいと思うほど夢中になっていることがあるわけでもない。なのに、なぜだろう、所定の時間に所定の行為をしなければならないことが、こんなにも億劫なのは。着替えを用意して、風呂場まで行って、服を脱いで――想像するだけで面倒くさい。客観的にはなんでもないことだというのは理解できるし、ひきこもりがちな生活が続いるせいで体力が極度に低下しているわけでもないのだが、それでも感情を消せない。沙理が問題視しているのは、行為ではなく、時間に縛られていることにある。
好きなときに入浴できたらいいのに。入浴しないという選択肢もあればいいのに。億劫さは感じてはいるものの、体を清潔に保ちたい願望は重々承知しながら、そんなことを思う。
ルールに縛られることに、心が拒絶反応を示している。
思えば、沙理はあらゆるルールに忠実に生きてきた。初めての逸脱、それが不登校だ。
でも、好きで逸脱したわけじゃない。ベッドに仰向けに寝そべったまま抗議する。行きたいけど、行けなくなっただけ。誰かのせいで。なにかのせいで。
それは誰?
印旛、さん。
なにって、なに?
朝ごはんがしょぼい。ひいき球団が負けた。それで、登校のモチベーションが下がって……。
それだけ?
……。
沙理は返答に窮した。完璧ではないのはわかる。でも、補うための言葉がなにも浮かばない。それゆえに、今朝母親に問われたときのように、沈黙。やれやれと肩を竦めて、不可視の質問者は彼女のもとから消えてしまう。
明日の朝も、お母さんに上手く説明できないのだろうか。たぶんだけど、理由をちゃんと言えないから、家族の接しかたが変になってしまうのだ。
見つけなくちゃ。不登校の原因を究明しなくちゃ。
でも、わからないものはわからない。まるで雲を掴むかのよう。ヒントなしで解答を導き出すのは不可能で、ヒントを出してくれそうな人もいない。
明日も休む前提で思案を進めているっていうことは、登校を拒んでいる壁は自然消滅し得ない類のものだとわたしは理解している、ということなのだと思う。じゃあその「自然消滅し得ない壁」ってなに? なんて自問自答しても、なにも浮かばない。
暗い、暗い、暗い。未来のことはことごとく暗い。では、過去は? 過去も同じだ。なぜって、不登校になった原因が確実に落ちているから。では、現在は? 考えること自体できない。現在はたどり着いた時点で過去になるし、たどり着く前は未来でしかないからだ。つまり沙理は、実質的に闇に取り巻かれているに等しい。旧石器時代、現代人の感性からすれば人間というよりもサルと呼称するのが適当な生物が世界各地で生を営んでいた、あの時代の夜を満たしていた高濃度の闇に。
進退両難極まって、沙理は現実から逃避する意を固める。それは、ただちにベッドから下りて部屋の明りを消し、ベッドに同じ姿勢で寝そべって目をつむる、という行動によって表現される。
経験から知っている。どんなに不安だろうが、考えるべきことがあろうが、暗い場所で目をつむってじっとしていれば、いつかは眠れる。不安がるのに疲れて、考えるのに疲れて、溶けるように眠ってしまう。一睡もできないなどという事態は、そう簡単には起こらない。
入浴? そんなもの、放っておけばいい。部屋の電気が消えていて、呼びかけに返事がないなら、「ああ、眠っているんだな」と自動的に呑み込める。義務教育を修了していれば誰だってできる。お父さんとお母さんの学歴は? 二人の学生時代の話は聞いたことがないけど、お父さんが千葉にある大学に通っていたという話をちらっと耳にしたことがある程度だけど、なんにせよ中学校は卒業してはいるはず。不登校のわたしですら、一日も授業を欠席せずに卒業証書をもらったくらいなのだから、間違いない。
学生時代の二人はどんな感じだったのだろう? わたしのように不登校だった可能性はないだろうか?
あり得ない。「私も/俺も学生時代は学校に行けない時期があって……」という趣旨の発言を二人は一度もしたことがない。
沙理は無性にさびしい気持ちになった。目の奥が滲んだのを自覚する。でも、これは目の縁からあふれるほどには大きくならない類の涙だ。
寝てしまう。掛け布団を顎まで引き上げる。そして気がついた。
これは夢の中だ。
心が少し軽くなったのも束の間、沙理は「あっ」と声をもらす。
寝て、目覚めたら、現実が待っている。




