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理由

 その晩の食事の席でもそうだった。

「今日は沙理が好きなものばかりにしたから、たくさん食べなさい」

 母親はそう言って、薄茶色の手羽元がすでに三本も入っている沙理の取り皿に、手羽元をもう一本追加した。大皿の中にはレンコンもニンジンもゆで卵もない。あるのは、ちょっとした下処理を施し、所定の時間煮汁で煮込んだ鶏手羽元、約ニ十本。

 たくさん食べなさい。母親はその言葉に続いて、「だから明日こそは学校へ行きなさい」と付言したかったのだろう。不登校になったのを機に、沙理は不完全ながらも読心術が使えるようになった。

 余計なことを言うまいと、娘といるときは唇と精神に自ら負荷をかけている母親。無関心という処世術を採用し、そうすることが娘のためになるという大義名分を暗に掲げて、余計な重圧から逃れることを選んだ父親。

 父親はしゃぶるようにして、太短い骨から肉を駆逐しにかかっている。その徹底的な、時代や同席者によっては「食べ物を粗末にしない、感心な人」と称賛さえされるかもしれない食べかたが、耐えがたいほど不愉快に感じるようになったのは、不登校になってからだ。

 そりゃあ、行けるなら行くよ。でも、行けない。なぜかって理由を訊かれても、答えられない。親を納得させられるような答えを用意できない。でも、親としてはそれが一番気になるところ、知りたいところであって、たぶんだけど、休んでもかまわないから、その代わり理由は明言してほしいと願っている。でもわたしは、その理由が言えない。言いたくないから言わないんじゃなくて、なぜ学校に行けないのか、休んでしまうのか、自分でもよくわからない。だから、なにも言えない。言えることがなにもない。なによりも理由を欲しているお母さんは、当然怒る。でもたぶん、本音では、できればそんな真似はしたくないと思っている。声を荒らげるのがみっともないからじゃなくて、なんらかの正答な理由があって不登校に陥っている娘に、鞭を打つような真似はしたくないから。お母さんはきっと、わたしが不登校にはなったのにはちゃんとした理由があるって思い込んでいる。ここで言う「ちゃんと」とは、休むのも納得できる、という意味だ。納得できない理由から休んでいるなら、言っても損をするだけだから言わないだろうけど、娘は納得できる理由があって休んでいるはずだから、きっとちゃんと親に話してくれる。お母さんはそう信じている。でも、わたしは言わない。言えないから、言わない。そんなわたしに、お母さんは怒る。なんではっきり理由を言わないのって、苛立つ。同時に、不安を感じてもいる。苦しんでもいる。ちゃんとした理由なんだったら、話してくれさえすれば理解も共感もしてあげられるのに、なんでこの子は言わないの? わたしのことを信用していないの? それともまさか、言えない理由があるとでも? 本当はちゃんとした理由じゃないというの? だったら、不登校になった理由ってなんなの? 思うところ、感じるところ、考えるところ、いろいろあるはずだ。はぐらかされるたびに混乱して、こんがらがって、わけがわからなくなって、わたしの口から真相が明かされるのを待つしかない、みたいな感じに実質的になっているはずだ。でも、不登校で苦しんでいるわたしのことを思うと「理由を言え」と強くは迫れない。ジレンマ。ようするに、お母さんは苦しい。苦しんでいる。そして、わたしはそれを知ってしまった。不完全ながらも読心術を使えるようになったことで、知ってしまった。自分一人の苦しみだと気分が憂鬱になるだけだけど、自分のために苦しんでいる人を見ることで感じる苦しみは、心臓に物理的な痛みさえもたらす。

 お母さんとしても、通じない策を愚直に行使するばかりじゃない。同じことをただくり返すだけであれば、それはゲームの中の村人Aだ。お母さんは血の通った人間だから、手を替えるし品も替える。お母さんはわたしの保護者だし、わたしは大切な娘だから、わたしが答えをはぐらかし続けながら、不登校連続記録を伸ばすだけの生活を送ることを是としない。諦めない。もがく。試行錯誤をくり返す。わたしの好物を食事に出すのもその一環。期待度としては、散歩のついでに近所の小さな神社に願掛けに行くようなものかもしれないけど、娘の不登校が念頭にあっての選択なのは確かだろう。

 でも、それが手羽元の甘辛煮。ゆで卵を別の鍋で作る面倒くささはなんとなく理解できるけど、皮を剥いて一口サイズに切ればいいだけの根菜すらなし。沙理、今日はあなたの好きな手抜き料理にしたわ。だから明日は学校に行ってね。今日はパートが休みだったお母さんが作った手抜き料理で精をつけて。

 ――ああああああ!

 奇声を上げてテーブルの上の食器という食器をひっくり返したくなるが、それはできない。暴力的な行動をとることで、一線を越えてしまう気がするからだ。沙理に対する心証が劇的に、というよりも悲劇的に悪化し、今までは許されていたことが許されなくなるような気がするからだ。越えてはいけないラインを越えてしまったあとの具体的な情景はイメージできない。だから、畏怖の対象はそれではない。破滅という記号、それに沙理は怯えている。

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