骨について
外で雷が鳴っている。雨音は聞こえないが、本当に降っていないのか、降っているが音量が小さすぎるだけなのかの判別はつかない。
雨は嫌いだ。自転車通学だし、雨具の用意はしていない。濡れるのは、まあ我慢するにしても、濡れた路面にタイヤが滑るのが怖い。沙理は中学一年生のときに一度そんな目に遭って、ピンク色の自転車から投げ出されて尾骶骨を強打したことがある。服がびしょびしょになり、カゴもプロレス技かなにかをかけられたかのように凹んでしまって、自転車は水色のものに買い替えた。それは今も現役だ。全体的に薄汚れてしまったが、上品な汚れかた、万物の宿命たる経年劣化によるものだと一目瞭然の汚れかたをしているし、カゴには凹み一つない。一般に自転車のカゴは、プロレス技でも食らわない限り凹むものではない。
尾骶骨を強打したのは確かだけど、そういえばわたし、病院には行ったっけ? 思い出すだけで顔をブサイクにしかめてしまうあの痛み、とてもじゃないけど病院に助けを求めずにはいられないと思うのだけど、病院で診察を受けた記憶はまったくない。骨折して放置は有り得ないから、折れてはいなかったのだろうけど、そもそもの話、骨が折れているか否かを素人が判断できるものなのだろうか? たぶん、ていうか、絶対に無理。しばらく様子を見て、痛みが引かなかったら病院、みたいな方針をとって、結果的に後者だった、ということだと思うのだけど、
「……いや」
ちょっと待って。自転車に乗っているさいの事故ということは、必然に事故が起きたのは屋外。家族がすぐに駆けつけた覚えはないから、自宅からはある程度離れた場所でスリップしたのだろう。骨折したのか・していないのかはわからないけど、低く見積もっても骨折を疑うくらい強く打ったのだから、自力で帰宅するのは無理だと思う。動けずにいるわたしを通りかかった人が見つけて、救急車を呼んで、病院に搬送されて検査、みたいな流れだろうか? わたしの性格的に、「大丈夫です」とかなんとか、弱々しい声で言ったはず。でも、通行人の「頭を打っているかもしれないから」とかなんとか、至極まっとうな正論を返されて、なかば無理やり……。
わたしは病院まで行った可能性が高い。
なのに、そのときの記憶がない。
人が忘れるのは、どうでもいいこと。そして、忘れたいこと。
救急車で病院に搬送されたのだったら、検査をされて、どこが痛いの、ここです、頬を赤らめながらお尻を指差す、みたいなやりとりがあったはず。当然、患部はさらけ出したはずだ。ベッドにうつ伏せに寝そべって、そして――。
『水沼さん、パンツ見えてるよー』
パンツどころじゃない。臀部まで丸出しだよ、馬鹿野郎。いや、宮ナントカさんは女子だから、正しくは女郎か。全然メロウじゃない。医者は女じゃなくて男だったぞ、たぶんだけど。日本経済を停滞させている深刻な要因の一つである女性の社会進出の遅れは、こんなところにも表れているっていうか、表れていて然るべきっていうか。
当時の記憶はまったくない。その事実が意味するのは、ようするに、つまり、つまり、ようするに……。
記憶している中で、確かなことが一つだけある。事故後、家で最初に食べたのは、鶏の手羽元をしょうゆベースの煮汁で甘辛く煮込んだ料理だった。水沼家では比較的頻繁に登場する料理で、味は申し分なく、なおかつ食べ応えがあり、さらには白いごはんが進むから、沙理は好きだ。特別な場合にしか提供されない料理を除けば、ピラミッドの最上部に位置する一品かもしれない。
鶏手羽元のしょうゆ煮はちらし寿司のようなものだ、と沙理は認識している。ほんの少し贅沢なものを食べたいときに奮発して作る、文句なしの美味しさ、ちょっとした特別感、以上二つが売りの料理だと。
好きなものについては詳しく知りたくなるのが人の常。沙理は過去に、今まさにその料理を作っている最中の母親に尋ねてみたことがある。それ、作るの大変じゃない?
「ああ、これ? わりと簡単よ。いちいち切り込み入れるのがちょっと面倒だけど」
以上が母親の回答だった。
「切り込みを入れる」の意味はその場では呑み込めなかったが、「わりと簡単」という一言は、意味の観点からも、響きの観点からも衝撃的だった。簡単に作れる、ちょっとしたご馳走。ちょっとした御馳走、なのに簡単に作れる。
沙理は部屋に引っ込むなり、鶏の手羽元を使った煮込み料理の作りかたについてネットで調べてみた。結果、三つのことがわかった。一つ、「切り込みを入れる」とは、手羽元の大黒柱である太い骨に沿って肉に包丁で切り込みを入れ、味を染み込みやすくさせる下処理を指すこと。一つ、鍋に注いだ合わせ調味料に手羽元を投入して火にかけるだけで、料理は完成すること。そして、最後の一つは――。
衝撃的だったのは、鶏手羽元の煮込み料理関連のレシピのすべて、と言いたくなるくらい大多数は、手羽元とともに根菜やゆで卵など、他の食材もいっしょに煮込んでいたことだ。豆板醤で辛みをつけるなど、煮汁にもバリエーションが数多く存在している。水沼家の食卓に上るのは、記憶するかぎり例外なく、甘辛く煮込んだしょうゆ味の手羽元のみなのに。
手抜き料理。
この事実が発覚して以降、沙理は無垢な気持ちでその料理を賞味できなくなった。心が変わっても味まで変わるわけではない。骨から口でむしりとった肉片を咀嚼するたびに、美味しいなぁ、としみじみ思う。白いごはんの減りも、他のおかずと比べていくぶん駆け足だ。
しかし、不幸にも沙理は知ってしまった。味は文句なしに美味しいけど、手抜きじゃん。手放しに称賛できなくなった。美味しいねと、食事中に母親に伝えることですら恥ずかしくなった。なまじっか味には文句をつけようがないだけに、切なかった。




