苗字
廊下に出たのを契機に足を速める。直後、なにかにつまずいた。体が大きく前のめりになり、足下にあった異物が視界に映る。赤い砂漠に転がっていた岩石をうんと小さくしたような、小石だ。
受け身をとる間もなく、リノリウムに突っ伏した。衝撃はあまりにも強く、長時間正座したときの痺れを何倍も強めたものが体の前側全域を襲った。辛うじてBカップだった胸が、正真正銘のAカップへと圧縮された気がした。
「水沼さん、パンツ見えてるよー」
間近から聞こえたのは、炭酸が抜けたコーラのような声。少し遅れて、何者かが沙理の体を跨いで横断していった気配。
首をもたげ、足音が遠ざかっていく方角へと視線を投げる。目に映ったのは、二人組の女子生徒の後ろ姿。中学三年生のときに同じクラスだった二人だ。
向かって右側を歩いているショートヘアの女子が、喜屋武。本人から聞いた話によると、彼女の父方の祖父が沖縄本島出身で、本土で就職して本土で知り合った女性と結婚した。ニックネームは、きゃんきゃん。
「なんだよ、きゃんきゃんって。犬の鳴き声かよ。ちっちゃくて弱い犬が、でかい犬にびびって鳴くみたいな」
などと男子からからかわれる事態は、少なくとも沙理がいる場では一度も発生しなかった。喜屋武さんが年齢のわりに落ち着きがある女子だったからだろう、と沙理自身は分析している。大雑把な言いかたをするならば、強い人だった。強く見える人ほど弱い、といった類の言説は巷にあふれているが、喜屋武はどこを切り取っても強かった。正真正銘強い人だった。
なんらかの勝負に臨む者は、誰であろうと負けたくない。好戦的であるがゆえに彼我の力関係を見極める能力に長けた男子たちは、喜屋武の苗字の珍奇さそれ自体を話題にすることはあっても、決して笑いものにはしなかった。「殺すのは誰でもよかった」と口では言っても、道の向こうから歩いてくる筋骨隆々、二の腕に禍々しいタトゥーを刻んだ若い男を、銃器でも持っていないかぎり通り魔殺人鬼たちは襲おうとはしない。それと同じだ。
喜屋武というレアでインパクトのある苗字のせいで、下の名前は覚えていない。新年度恒例の自己紹介のさいにはフルネームを口にしたはずだし、彼女と親しい生徒の中には当然下の名前で呼ぶ者もいただろうが、沙理の記憶には残っていない。だから、名前を呼ぶときは「喜屋武さん」。その響きは人名ではないようで、声に出すたびに違和感を覚えたものだが、彼女の名前を呼ぶ機会はそう多くなかった。
喜屋武はさほど上背はないが、運動神経は目を瞠るものがあり、体育の授業ではちょっとしたヒーローだった。ただし、部活は帰宅部だったはずだ。あれだけの資質を持ちながら、運動部の部活に所属しないのはもったいない気もするが、ただのクラスメイトだった沙理には話すまでもない、あるいは話したくない、なんらかの事情がきっとあるのだろう。あるいは、運動部に所属しないという判断は気まぐれのようなもので、高校進学を機に自分の能力を活かせる部活に入ったかもしれない。
運動神経といえば、喜屋武さんにまつわるエピソードの中で沙理が記憶しているのは、
「きゃんきゃんって運動神経いいよね。なんで? なにかスポーツとかやってたの?」
クラスメイトの女子にそう訊かれて、運動神経がいいのは沖縄生まれだからだよ、と断言したことだ。沖縄の人間には、本土の人間よりも多くの大陸の人間の血が混じっているから、全体的にその傾向がある。喜屋武さんはそう説明していた。もっとも口が薄く笑っていたから、冗談のつもりで言ったのかもしれない。喜屋武という珍しい苗字を持ち、たびたびそれを話題に取り上げられる彼女は、長所である運動神経も自らの出自と紐づけて、持ちネタの一つにしている感があった。
沙理のパンツが丸見えだと口頭で指摘したのは、喜屋武ではないほう、左側を歩いているセミロングヘアの女子だろう。喜屋武は少し男性的なハスキーボイスだが、「水沼さん、パンツ見えてるよー」は、輪郭が大気になかば溶け出しているような、シチュエーションによっては眠気を催しそうな、のんびりとした声だった。聞き覚えのある声でもあった。中学生のときまでとは違い、髪の毛を明るい茶色に染めているが、間違いない。喜屋武と同じく、その女子も沙理のクラスメイトだった。喜屋武と仲がよく、苗字に明治神宮の「宮」の一字が入っていた覚えがある。総字数は二で、使われていたのは一文字目。そこまでは間違いない。断言してもいい。
でも、なんという苗字だったのだろう? 宮本? 宮崎? 宮川? 宮田? 宮村? 宮沢? 宮岡? 宮井? 宮北? 宮口? 宮迫? 宮谷? 宮尾? 宮野? 宮下? 宮里? 宮原? 宮江? 宮富? 宮地? 宮中? 宮藤? 宮木? 宮島? 宮永? 宮戸? 宮園? 宮山? 宮部? 宮前? 宮管? 宮倉? みや、みや、みやみやみや、みやみやみやみやみやみやみやみゃーみゃーみゃー。……ネコの鳴き声? 喜屋武さんのニックネーム「きゃんんきゃん」が「にゃんにゃん」に転じた? ていうか、リアルで聞こえてるんですけど。しかもすぐ近くから。
二人が去って行ったのとは反対方向、音源に顔を向けた。ネコはいなかったが、一メートルほど離れた床にメモ帳が落ちていた。水色の表紙。黒色のボールペンが挟んである。メモ帳もペンも沙理が使っているものだ。転んだ拍子に、制服の胸ポケットから飛び出した。そんな方角と距離に見える。
「――いや」
そんなはずはない。わたしはメモの内容を盗み見されるのも、「水沼のやつ、なんかメモとってるな」と思われるのも嫌だから、メモ帳は学校には持って行かないようにしている。間違って鞄の中に入れ、結果持ってきてしまうことならあるかもしれないけど、それを制服の胸ポケットに入れる? いやいや、有り得ないから。




