印旛彩華
「実物は無理にしても、エロ動画があるよね。無修正のものとか、探せば腐るほどある。それなのに見たことないの? 一度も? ……ふーん」
印旛彩華は席を立つ。下は赤い砂なのに、発生したのは椅子の足が教室の床を擦る音。傲岸不遜な微笑みを維持して歩み寄ってくる。
沙理は一歩も動けない。足どころか、指先をほんの少し動かすことさえも。まるで金縛りにあったかのような。
彩華の足が目の前で止まった。沙理の視界に映るのは、私立星香学園高等学校のブレザーに包まれた胸部。衣服越しにも豊かさが見て取れる膨らみ具合だ。高校生になって初めての体育の日、更衣室で着替えていたときに、下着に包まれただけの印旛彩華の乳房を目の当たりにして、圧倒された記憶が甦る。同性からすれば不愉快なだけの女くささの中、音を立てないように唾液を嚥下した。沙理は異性愛者だから、性的興奮を覚えたのではない。文字どおり圧倒されたのだ。大きいのは武器だ、とつくづく実感した。
印旛彩華は上半身下着姿のまま、親友相手に長々と無駄話をしている。彩華の行きつけのカフェが、流行りに乗っかってタピオカミルクティーを販売しはじめたので飲んでみたが、いまいちだった、という話を。
「あたしは流行には飛びつくタイプなんだけど、タピオカミルクティーは敬遠していたんだよね。友だちに誘われても、さり気なく他のものを注文しようって誘導したりして。どうしてか? だって、美味しそうじゃないし。実際飲んでみたら、案の定いまいちで。そもそも見た目が気持ち悪くね? なんだよ、あの黒いの。両生類かなにかの卵かよ」
前方に扇状にスタンバイする友人一同の顔をさっと視線を走らせ、印旛彩華は笑声を立てる。同調するように友人たちが笑う。呼応するように豊かな胸が少し揺れる。隠そうとしないどころか、周りの女子たちに見せびらかすために、下着姿のまましゃべり、笑っている節さえある。胸部からぶらさげた一対の恥を見られまいとするかのように、素早く体操着を身に着けた沙理とは対照的だ。
過剰に自己主張するかのように突き出しているものを放置するのは、みっともないことだ。それなのに、隠そうとしない。恥じらいもしない。沙理からすれば信じがたい振る舞いだ。
印旛彩華は自信に満ちあふれている。怖いものなんてないように見える。胸も大きいし、人によっては憎らしいとさえ感じるくらいに堂々としているし、図太い。そういえば彼女は、身長も女子にしては高めだ。
「水沼、なにぼーっとしてんの?」
印旛彩華が突然、肩越しに振り返って声をかけてきた。沙理は肩が不自然な跳ねかたをした。いつの間にか二人は教室の中にいて、沙理は自分の席に座っている。机の前に印旛彩華が沙理のほうを向いてしゃがみ、天板に両手の指先をかけている。
二人の視線が重なる。彩華の顔に、人を見下すとき特有の微笑みが点灯する。
「水沼って、いっつも本読んでるよね」
教室の隅々まで届きそうな大きな声。彩華は両の掌で天板を押すようにして立ち上がり、沙理に横顔を向けながら自席の方角へと去る。上履きを履いた足が床を踏みしめるたびに、校則違反したスカートの短い裾が揺れる。そこから突き出した脚にはほどよく肉がついていて、若々しさと生命力が横溢している。
沙理はいそぎがちに机上の文庫本を鞄に仕舞う。前方、黒板の横の押しピンでプリントがとめられた領域を見ながら、制服のネクタイを直す体を装って左手で左胸に触れる。初めて動物病院に連れてこられた子犬の心臓のように、鼓動が早鐘を打っている。たしなめるように自らに言い聞かせる。
印旛さんはわたしを馬鹿にしたわけじゃない。事実を指摘しただけだ。馬鹿にする意図があったなら、もっとこう、いかにも嫌味な言いかたをしていたはずだ。他にも一言二言、余計な侮言を付け加えていたはずだ。たしかに印旛さんは人が眉をひそめるようなことを平気で言う人だけど、接点のないわたしにわざわざ悪口とか、有り得ないから。読書自体は入学したときからずっとしていたけど、印旛さんが気づいたのは今日が初めてで、誰にでも話しかけられる性格、臆することなく事実を指摘できる性格だから、指摘した。それだけの話。悪口じゃなくて、指摘。きっとそうだ。それが真相。それが真実。
くり返し自分に言い聞かせたが、印旛さんの微笑みを脳裏から消し去ることができない。人を見下すときに決まって浮かべる、あの美しくもおぞましい、絶対的な微笑みが。
……人を見下すときに。
あああああああ!
心の中で声の限り絶叫し、椅子を撥ね飛ばすようにして立ち上がる。実際は、隣席でぼーっとしている男子生徒さえ見向きもしないほど静かな起立だ。
すぐさま移動を開始する。机と机のあいだを縫って、最短距離で廊下へ。行き先は決めていない。印旛彩華から遠ざからなければ、と思う。百メートルを全力疾走したわけでも、愛犬が昨日死んだわけでも、酔っぱらったわけでもないのに、足元がふらつく。
ていうか、学校の授業では五十メートル走しかやったことないし。犬どころかペットを飼った経験すら皆無で、お酒に至っては飲みたいとすら思わないんだけど。
心の中でのセルフ突っ込みの声は、ほのかだが明白な震えを帯びている。沙理はその症状を深刻に捉えた。
印旛さんのもとから一刻も早く遠ざかろう。そうしないと、わたしはおかしくなってしまう。




