穴
穴には蓋がしてあると言っていた。外敵に易々と侵入されないための処置なのだとすれば、周囲の景色と同化するなどして、見つけづらくなっているはずだ。とりあえず、足下に注目しながら歩き回ってみたが、それらしきものは発見できない。地面の一点を何度も強く踏み締める動作も加えてみたが、硬い感触が跳ね返ってくるだけだ。
沙理を見て近寄ってくるウサギもいれば、逃げるウサギもいる。近寄ってくることもなければ逃げることもないウサギももちろんいる。割合でいえば、1・3・6といったところで、五万人を収容できる球場の前に巣穴の出入口を作るだけあって、胆が据わっている個体が多いようだ。近寄ってきた個体に対しては、お義理程度に背中を撫でてやるが、すぐにどこかへ行ってしまう。エサがもらえないと悟ったからだろう、と彼女は解釈する。近づきも逃げもしない個体にこちらから近づいて撫でようとすると、逃げる個体と、撫でられることを許す個体はおよそ半々にわかれた。かわいいが、積極的に歓迎されていないのが伝わってきたし、穴を探すという目的がある。沙理はウサギを自由意思を持つ障害物だと見なし、穴探しに意識を集約した。
しかし、思うように成果は上がらず、やがて余計なことを考え始める。
なぜウサギなのだろう? 今、この球場で試合――正確には乱闘だけど――を行っている両チームのシンボルとなった動物は、ユニコーンとオオカミ。ウサギはまったくの無関係だ。夢の中だから、潜在意識が形を変えたのだと考えても、首を捻ってしまう。単純に好きな動物が現れたのだとしたら、ネコでなければおかしい。ウサギも嫌いではないが、ネコには劣る。わたしはユニコーンズのファンなのだし、夢の中だから、ユニコーンが出てきてもよさそうなのに。地面に穴を掘る生物代表ということでウサギ、ということなのかもしれないけど、そもそも菅谷選手の自宅までに素早く行くには、必ずしも穴を通過するという方法ではなくてもいい。
せっかく一人で球場までひいきチームの試合を観に来たら、試合そっちのけの大乱闘が勃発して。エースのスガケン投手と会話できたのはうれしかったけど、なぜか穴を探す羽目になって……。
なにをやっているんだろう、わたし。
思いどおりにならないからこそ夢だ。そう定義することもできるだろう。
でも、それだと現実と同じだ。
そもそも、どこからが夢なのだろう? 沙理はもはやボーダーラインを見失っている。突然の大乱闘。防球ネットを乗り越えて観客席まで会いに来てくれるプロ野球選手。球場の周囲にいつの間にかいるウサギたち。いかにも夢ならではの光景だが、現実世界でも絶対に起こり得ないわけではない。試合の模様はリアルで手に汗握ったが、夢にしてはリアル過ぎた気もする。
わたしは本当に夢の中にいるのだろうか?
遠くから声が聞こえた。沙理は思わず背筋を伸ばす。再び同じ声。菅谷選手だ。沙理は声がするほうへ走った。
大きく手を振っている菅谷選手の姿が見えた。体が大きいという情報がインプットされているせいか、遠近感を無視した大きさを持っているように見える。少し足を緩めて手を振り返すと、彼は手を下ろして「おーい、こっち、こっち」と言った。彼女は走る速度を上げ、二人は合流を果たした。
「見てごらん。こいつが穴だよ」
菅谷選手はそう言って足元を指差さす。日本中のどこにでも生えているような雑草が一株生えているのみの、一見なんの変哲もない大地。
彼は雑草の根本を鷲掴みすると、かき氷マシンのハンドルを回すように時計回りに回し始めた。途端に、直径一メートルほどの円形が浮き彫りになり、回転を開始した。回転運動に合わせて床は徐々にせり上がっていき、周りの地面から六・七十センチ高くなったところで停止した。六十センチから七十センチの高さの、地面と同色の太短い一本の円柱が出現した形だ。
円柱には五十センチ四方の空洞が開いている。菅谷選手の指の動きに促されて、沙理は覗き込んでみる。空洞は垂直に、円柱の円周を維持して続いているようだったが、底が見通せない。どこまで落ちていかなければいけないのだろう。そう思った瞬間、にわかに恐怖が込み上げ、素早く上体を引いた。
救いを求めるように菅谷選手を見上げると、彼はスポーツマンらしいさわやかな微笑を満面に浮かべ、
「じゃあ、落ちようか。落ちればあっという間に俺の家だ」
「えっ……。でも……」
「怖いんだね。でも、平気さ。ふかふかのシーツに静かに体を横たえたみたいに安全に着地できるし、落下途中に穴の内壁に接触するとか、穴の中を飛んでいるなにかにぶつかるとか、そんな心配はまったくないから。なんたって、この穴は俺の自宅に近道するための道であって、飛び込んだ人間が怪我をするために作られたものじゃないからね」
落ちる人間に都合がよすぎる理屈だが、ここが夢の中だということを考慮すれば、言っていることは正しいのだろう。
ただ、それを差し引いても怖い。高層階に設けられたガラス張りの床の上に立つと足が竦むように。グロテスクな動画を見たあとで食事が喉を通らなくなるように。腹を上に向けて息絶えた虫の屍骸に触れることができないように。そんな沙理の臆病さを、菅谷選手は察してくれているし、同情もしてくれているようなのだが。
「どうしてもと言うなら別ルートを選んでもいいけど、凄く遠回りになっちゃって、逆に沙理ちゃんの負担になるよ。例えば――」
穴を通る以外にどのようなルートがあるのか、ということについての説明だ。しかし重要なのは、何線からいつ出る何駅の電車に乗るかではない。別ルートを選んだ場合、菅谷選手に確実に多大なる迷惑をかけることになる、ということだ。
最初から選択肢は一つしかなかったのだ。
「わかりました。怖いけど、行きます」
説明の言葉を切れるや否や、沙理は菅谷選手の目を見ながらきっぱりと言った。彼はほっとした表情を見せた。
「よし、じゃあ、先に行く? それともあと?」
「では、先にします」
恐怖感は強かったが、説明させる手間をかけた償いをしたい、その一念だった。
空洞の縁に腰掛け、空気を探るように両脚をぶらぶらさせる。温度は円柱の外と同じで、なにが肌に触れることもない。なにもない、どこまでも空虚な感じが、かえって恐ろしい。それがどこまで続くかが不明確なのも恐ろしい。
それでも、落ちなければ。
「……よし」
縁の上の尻を徐々にずらしていくうちに、いきなり体が離れた。「あっ」と思ったときには、沙理は穴を落下している。足を下にして、吹き上げる風の圧力を感じながら、どこまでも続く縦長の空洞をどこまでも落ちていく。
無理やり気味に首を曲げ、自分が落ちた方向を向くと、穴の出入口から菅谷選手が中を覗き込んでいる。目が合うと、彼は少し首をかしげて手を振った。
騙された、と沙理は悟った。
陥れられた自分の運命がこれからどうなるのか、考える間もなく、蓋をされたように穴の出入口が暗く塗りつぶされた。
いささか唐突ながら、それがその世界の終焉であり、水沼沙理の終焉でもあった。




