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トラウマ的な  作者: 阿波野治


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ウサギたち

 その菅谷選手との距離は、少し立ち止まっているあいだにかなり広がっていた。すぐさま駆け足で走り、追いつく。さっきまで背後にいなかった沙理が背後まで移動しても、彼は知らん顔で歩き続ける。長身で脚が長い分歩幅も広く、それが差をつけられる一因だと気がつく。これからは、心持ち早足で歩くようにしよう。その決意は、なんでもないことかもしれないが、彼女の心はささやかながらも昂ぶった。

 観客のものか選手のものかコーチのものかもわからない、断末魔の大絶叫、それが最後に聞いたグラウンドからの音声だった。

 通路を来たときとは逆に進み、球場の外に出る。来たときとは違い、たくさんのウサギが放たれている。その数、百羽は優に超えるだろうか。体の大きさは軒並み大人で、体毛の色はさまざま。苺の飾りがついたシルクハットや真っ白なチョッキなど、ウサギ用なのか人間の子ども用なのか、衣服の類を身に着けている個体も中にはいて、割合は全体の三割ほど。植栽された植物の葉を食んでいる個体、無闇やたらに駆け回り跳ね回っている個体、きょうだいのようにそっくりな柄の仲間と体をくっつけ合ってじっといている個体など、ウサギにも各個体に確固たる個性が備わっているのだぞ、というところを存分に見せつけている。

「菅谷選手、このウサギたちは……」

「スガケン、と呼んでほしいかな。ガキのころからそう呼ばれているんだけど、凄く気に入っているんだ」

 螺子が一回転分緩んでいるような顔とは裏腹に、口調は真面目くさっていた。ウサギたちが場違いながらも思いも思いに生を謳歌する中での彼の発言は、どこか滑稽に響いた。憧れの選手の要請を拒めるはずもない。即座に「わかりました」と答えたが、当の菅谷選手は物足りなさそうな顔で沙理を見下ろす。一羽のウサギが二人の前をジャンプしながら横切った直後、彼女は足りないものの正体に気がつく。

「わかりました。スガケン……さん」

 さんづけをしたのは逆にまずかったかな、と思ったが、菅谷選手はちょっとした落し物を見つけたように微笑んだ。それはしゃべり出す合図でもあった。

「このウサギたちは、穴を通ってこの場所まで来たんだ。俺のような大きな男でも余裕をもって出入りできる、巨大な縦穴さ。まあ、陳腐な比喩だけど、膣みたいなものだね」

「膣……」

「沙理ちゃんは俺といっしょに、その穴を探してほしいんだ。この球場の周りに何個か、そう多くはないと思うけど――そうだな、十個くらいはできているかな。穴っていってもウサギたちが蓋をしてあるから、おいそれとは見つからないと思うけど、二人で協力すればきっとなんとかなるよ」

「穴を探して、どうするんですか?」

「いい質問だね。俺がその答えを今まさに言おうとしているところでなければ、の話だけど」

「す、すみません」

「なぜ穴を探すかっていうとね、そこから帰るためだよ。俺の家に帰る。それで、君と今後の方針について話し合うというわけ」

「それ、おかしくないですか。ウサギたちが掘った穴なんですよね。だったら、スガケンさんの家じゃなくて、ウサギの巣なのでは……」

「もちろん、俺の家がウサギの巣の中にあるわけじゃない。新宿区にあるマンションの二十二階にあってね」

「だったら、なんで……」

「わかるよ、納得いかない気持ち。うん、凄く分かる」

 両手を腰に当て、半分笑った顔でくり返しうなずく。

「どう考えてもおかしいよね、ウサギの竪穴を通ると俺の家に行けるなんて。あり得ないけど、でも、そうなっているんだよ。なぜかっていうと、それがこの世の中のルールだから」

「この世の中のルール……」

「そう、ルール。馬鹿げているし、あり得ないし、非現実的なんだけど、紛れもない現実なんだ。そう考えると、この世界は独裁者が作った箱庭みたいなものなのかもね。秩序に逆らうと痛い目に遭うところなんかもそっくりだ」

 ようするに、夢の中だからなんでもありということですか。

 抱いたその思いは、伝えない。夢の中の登場人物に「ここが夢だ」と教えても、理解してくれないのではないか。理解したとしても、その事実を認めたくないあまり、精神が不安定になるのではないか。それらの可能性を思うと、なにも言えなかった。スガケンさんの言っていることはおおむね理解しました、とばかりに、神妙な顔を縦に振ることで代替としておく。

「じゃあ、とにもかくにも穴を探そうか。手分けしたほうが早いと思うけど、どうする?」

「そう、ですね。それがいい、と思います」

「ウサギは俺たちに友好的だから、広い意味で焦らずに行こう。じゃあ、見つかったら呼んでね」

 軽く手を挙げ、菅谷選手は沙理から離れていく。球場の外周に沿って、「悠長になりすぎない程度にのんびり」を実践してみせるような歩行速度で、ぐんぐん遠ざかっていく。沙理の反対側から探し始めるのだとすぐに気がついたが、穴を通れば自宅にたどり着けるうんぬんはすべて嘘で、離れた場所から、あるはずのない穴を探すわたしの姿を眺めて笑い者にするつもりなのでは、という疑念を抱いてしまった。

 突然の乱闘に混乱するわたしを助けてくれた人に、いっしょに穴を探す役目を任せてくれた人に、なんて失礼な真似をしてしまったのだろう。自己嫌悪を振りほどくように頭を振り、探索を開始する。

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