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トラウマ的な  作者: 阿波野治


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退場

 沙理の心と体は静かな歓喜に打ち震えた。

 彼女はユニコーンズのファンだ。中でも、若手のころからエースの重責を担い続ける菅谷選手には強い憧れを抱いていた。関連グッズを買い漁るのではなく、彼の登板日には欠かさずインターネット中継で試合を視聴するという方法で、彼女は彼を愛した。今日だって、彼の先発登板が予定された日だからこそ、勇気を振り絞って県外まで観戦に訪れたのだ。彼の雄姿を生で見たい。ただその想いだけだった。

 熱狂的ではないが深く愛しているわりに、込み上げてきた歓喜は静かだった。熱量の控えめさに失望は覚えなかったが、なにかに阻害された結果の静けさなのでは、という疑いは抱いた。では、阻害しているものはなにかと考えて、菅谷選手に別人の姿が重なった。性別は同じ。顔の形はまったく違うし、年齢もおそらく同じではないだろうが、体型が実によく似ている。ほとんど同一といってしまってもいい。

「軍人さん……!」

 三十センチ高い顔を見上げる沙理の口から、当人の意思を無視して言葉が飛び出した。菅谷選手は怪訝そうに片方の眉を上げ、十五センチ話し相手に顔を近づける。沙理はあたふたと胸の前で振り動かして、

「『軍人さん』と言ったのは、その――助けてください。軍人さんが、大変なんです。試合中でお忙しいところ申し訳ないですけど、でも困っているから、でも頼れる人が他にいなくて、だから、菅谷選手に助けてほしいんです。それから、あの、それだけじゃくて……」

 なにもかもを急速に思い出しつつあった。軍人が水を飲もうとしたところ、オオカミのマスクを被った集団に襲われたのだった。生死は怪我の状況などはいっさい不明だが、多勢に無勢で、とても無事だとは思えない。それから、豆腐のおつかい。あれを買わないかぎり、夢からは出られない。その手がかりも欲しい。

 頼れる者は、マッチョ以外にあり得ない。

「軍人っていうのは、彼のこと? 全裸で、筋骨隆々の」

「そうそう、そうです! 優しくて、でも、タンパク質を摂取するためには容赦なくて」

「サバイバル技術が豊富な?」

「はい。毒性のある昆虫も上手に下処理して――」

「実は沙理ちゃん、その軍人さんのことで、君に話があるんだ」

 沙理は口を半分開き、両目の面積を大きくした。知らないはずの名前を呼ばれたから、ではない。菅谷選手。軍人。二人は沙理の嗜好に合致する肉体の持ち主という共通項があるが、なぜ繋がりがあるのか。

「落ち着いた話し合いをするには、ここでは無理だね。今からすぐに移動したいんだけど、大丈夫?」

「いいですけど、でも……」

「みんなが心配なんだね?」

 菅谷選手は肩越しにグラウンドを振り返り、口端の片方を吊り上げる。悠然とした挙止、落ち着き払った声。ユニフォームとアンダーウェアを脱げば現れるだろう、たくましい体つき。なにもかも軍人に似ている。

「心配なのは俺も同じだけど、任せるしかないよ」

 顔の向きが沙理へと復帰する。

「少なくとも、みんなのもとに戻ってまた戦うのは、俺はごめんだ。傷つくのが怖いからじゃないよ。沙理ちゃんを安全な場所まで送り届けるようにと、みんなに頼まれているからね」

「そう、だったんですか」

「百パーセント納得しての行動じゃないのは俺も同じだから、妥協してくれるとうれしいかな。本当はお客さんにそんな思いをさせちゃいけないんだけど、ここまで来たらしょうがない。それじゃあ、行こうか」

「あっ、はい」

 菅谷選手は歩き出す。沙理は体の向きを反転させる。

 直後、グラウンドで銃声が響いた。

 沙理の肩は本人の意思を無視して跳ね上がり、全身が凍りついた。緊迫感に満ちた静寂が一刹那挿入され、観客席から悲鳴が上がる。それを分水嶺に、グラウンドから聞こえる声は禍々しさと音量を増した。ルールにのっとって野球が行われるべきグラウンドで、いったいなにが起きているのだろう? 硬いものが叩きつけられ、砕け、折れ曲がる音がひっきりなしに聞こえてくる。気になるが、怖くて振り返ることができない。

「沙理ちゃん」

 肩に誰かが手を置いた。菅谷選手だった。置かれたというより、掌を触れさせただけという状態のその手は、人の手にしては大きすぎるように見える。彼がプロ野球選手であることを差し引いても。

「怖い? だったら、がんばって球場から出よう。歩ける?」

 近いような遠いような破壊音と怒鳴り声を片耳で聴きながら首肯する。うなずいたあとで、嘘をついて負ぶってもらえばよかったかもしれないと思ったが、迷惑はかけられない。沙理にとっての菅谷選手は、恋人候補ではなく、憧れのスポーツ選手なのだ。

 菅谷選手は柔らかな表情で小さくうなずき返し、沙理の肩から手を外して歩き出す。瞬間、後方で爆発音が轟いた。身を竦めて瞬間的な恐怖をやり過ごす。彼は振り向きもしない。対応が少し冷たいような気もしたが、今は細かいことに文句をつけている場合ではない。

 歩こう。菅谷選手についていこう。彼が言う話とやらが始まったら、やることはきっとたくさんある。

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