砂漠のサソリ
煉瓦色の砂漠の只中に沙理はたたずんでいる。
全裸で、なにも所持していない。
地形は見渡すかぎり平坦で、雑草一本生えていない。ところどころに大地と同じ色をした、大小の角張った岩石が転がっている。空の群青色がやけに鮮やかに目に映るのは、赤い大地との対比か、大気中に漂う物質の多少や濃淡の影響か。高い位置に浮かんだ太陽から放出される斜光が、一糸まとわぬ若い体に斟酌なく降り注ぐ。
沙理は諦念をため息で表現し、歩き出した。行き先は特に決めない。三百六十度どの方角を向いても同じ景色だし、目を楽しませてくれる映像でもないので、足下に視線を落としながら、時おり義務感のように顔を上げての歩行となる。
胃が痛みで空腹を訴えているし、口の中にはもう一つの砂漠が広がっている。生命を維持するにあたっては危機的な状況だが、彼女の歩の運びには危機感が決定的に欠如していた。砂や土を体に塗れば日焼け止めになるのは知識として知っていたが、実行には移さない。汚いものを体に塗りつけることに抵抗感があるというのが理由の一つだが、すべてではなかった。
進路にある大きめの岩石の陰で小休止するつもりだった。しかし、遠近感に騙されたらしく、いざ間近まで来てみると、拳よりも一回り大きい丸い石ころに過ぎなかった。
失望したときはそうするようにプログラミングされているからそうする、というようにため息をつき、再び歩き出そうとした。
刹那、石のすぐそばでなにかが動いた。息を呑んで目を凝らした。
サソリだ。大地とほぼ同じ体色の、体長六・七センチほどのサソリ。
体の質感はゴムのようで、艶めいている。沙理を警戒しているのか、カニのようなハサミをめいっぱい開き、いかにも猛毒を秘めていそうな尾を高々と掲げている。先端に付属した毒針の矛先は、疑いようもなく沙理だ。
彼女が真っ先に感じたのは恐怖、ではなく、食欲だった。ぐうう、という情けない声で腹の虫が鳴いたのだ。
サソリを食べれば空腹は紛れる。ただ、小さいとはいえ、毒を持った生き物に手で触れるのは怖い。針が体に刺さらなければ毒が回ることはないとわかっているけど、だとしても。それに、そのまま食べてもいいのだろうか? 毒を含んだ部位を取り除けば大丈夫? 取り除くといっても、どこからどこまで? サソリの体の仕組みはわからないけど、毒液は体内のどこかで生成され、管かなにかを通って針に届けられているのだから、それも併せて除去しなければならないのでは? 服毒の心配がなくなったとして、加熱しなくてもいいの? ……けっきょく、どう食べるのが正解なの?
「尾を取り除くといい」
影が差したかと思うと、何者かの手がサソリをつまみ上げた。節くれ立った、男の人の手だ。もう一つの手が、赤子の手を捻るようにサソリの頭をむしり取り、一個の小さな命に不可逆的な終わりをもたらす。それに続いて尾の先端がもがれたところで、沙理はようやく我に返って顔を上げた。
筋骨隆々の全裸の男性だ。金髪碧眼の白人。凛々しいながらも柔和さが感じられる表情を満面にたたえ、真っ直ぐに沙理を見据えている。二十代にも五十代にも見え、薄い唇の隙間から覗く歯が白すぎるほどに白い。
軍人だ、と思った。
「小さいけど、少し食べるだけでもかなり違うよ。ほら、食べて」
流暢な日本語で言って、頭部と尾部のないサソリを差し出す。沙理はこれから食べようとしているものに注目しようとしたが、よく見ようとすればするほどサソリの像はぼやける。相対的に、サソリの周囲の景色が鮮明になり、その結果として、視界の中央でも辺境でもない、中途半端な場所に男性の股間を発見した。ほとんど自動的に、焦点がサソリからそちらへと移動した。しかし、そちらもサソリと同じくぼやけている。
目がおかしくなってしまったのだろうか、と疑った直後、男性器を見たことがないから、夢の中ではそう表現する以外にないのだと気がつく。
突然、はははっ、という笑い声が聞こえた。
みずみずしいハスキーな女性の声。聞き覚えのある声。冷たいような熱いような汗が汗腺という汗腺から噴き出し、沙理は音源を鋭く振り向く。
赤い大地の上に、沙理が通う高校で使われている机と椅子がワンセットだけ置いてある。着席しているのは、沙理が通う高校の制服を着た女子生徒。
印旛彩華。
沙理のクラスメイトであると同時に、彼女の――。
印旛彩華は頬杖をついて沙理のほうを見ている。田舎の高校生離れした端正な顔に貼りついているのは、高慢な微笑。彩華が人を侮蔑するときに決まって浮かべる笑みだ。
沙理の肌に浮いていた汗がいっせいに下降を開始した。伝う感触は不愉快に粘ついていて、冷熱の区別が判然としない。動悸がする。その場から動けない。視線を逸らせない。
「沙理、あんた、男の裸見たことないんでしょ」
鼓動が一瞬止まった。
彩華から急に話しかけられた。
それもあるが、それだけではない。
……沙理。
印旛さんはわたしのことは「水沼」と苗字で呼ぶ。印旛さんはわたしとは親しくないし、わたしのことにかけらも興味を持っていないから、そもそもわたしの下の名前は知らないはずだ。それなのに、どうして「沙理」と呼べたのだろう。
……夢だから。
その一言ですませちゃいけない気がしてならないこの感じ、なんなのだろう。印旛さんに苦手意識があるから? それとも――。




