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トラウマ的な  作者: 阿波野治


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ループ

 歩行再開のきっかけとなるのは、いつだって保坂さんからの視線だ。実際は目をつむっているから、無言のメッセージと言うべきかもしれない。歩行を再開するたびに、保坂さんは体調不良で早く家で休みたいのだから、彼女の体に負担をかけない程度に速く道のりを消化しなければ、と思う。しかし何歩か歩いたころには、屋根の上にちんまりと乗ったベタ塗り、民家の生垣と生垣のあいだの縦長のモザイク、電柱に貼りつけられているA4サイズのぼやけたなにか、といったものについつい注目を奪われ、道の真ん中で棒立ちしてしまう。

 まるで痴呆症の老人だ、と沙理は思う。痴呆症かもしれない、という疑いを自分自身に抱けている時点で該当しないのかもしれないが、彼らも案外自覚しているのかもしれない。事実だと認めるのが怖いから口にしないだけで。

 夢にも、現実にも、そのような一面がある。これは夢なんだ。現実なんだ。そう自己暗示をかけたところで、現実から逃避したところで、事実は厳然として揺るぎない。現実は現実で、夢は夢だ。

 同じことのくり返しが何回か続いて、交差点に出た。片側一車線の舗装道路が交わり、左手で書いたようなXの一字が表現されている。信号は設置されていないが、横断歩道がある。

 真っ直ぐ進み続けるべきか。舗装道路に折れたほうがいいのか。

「ちょっとごめんね」

 遊びに来た友人に息子の不在を告げる母親の顔でひと声かけて、保坂さんを地面に横たえる。夢の中だからと理解しているこその、少々雑な対応。ただし、近くにベンチのようなものはないかを目で探してから、病人を労わるようなていねいな所作で横たえるという、最低限の誠意は示した。荷物の重さのわりには疲れていなかったが、義務感のようなものに促されて額を手の甲で拭い、長々と息を吐く。

 その動作に続いて、ジーンズのポケットに手を入れた。スマホで現在時刻を確認したかったのだが、指先に触れたものは柔らかく、思考と動作が一瞬固まった。取り出してみると、メモサイズの紙片だった。

『豆腐(一丁)を買ってきてください。ただし、豆腐の専門店で。

 千代』

 脳内で「君が代」が流れ出した。視界が霞み、頭がぼやけ、一切合財がどうでもよくなる。霞んでいる範囲が視界の外にまで溶け出すように拡大し、世界の制圧を目指すかのように加速度をつけて広がっていく。

 眩暈を感じたと思ったとたん、視界が鮮明になった。交差点ではなく、校庭だ。沙理はクラスメイトに混じって整列していて、前に並んでいるのは、疑いようもなく八歳の保坂さん。校長が嬉々とした、それでいてどこか淡々とした口調でしゃべっている。厳しい日射しにあっという間に額に汗が滲み、垂れ、こめかみを通過して顎へと向かう。

 突然、保坂さんがその場にうずくまった。苦しそうに肩で呼吸をしている。さっと見回したかぎりでは、彼女の異変に気がついたらしい者の存在は、沙理を除けば確認できない。

 沙理は保坂さんを無視して自らの胸を見下ろす。水色のシャツを着ていて、控えめに膨らんでいる。

 肌という肌から汗が噴き出す。顎の汗が落下し、足下の地面に吸い込まれた。視界の端に映る、うずくまって苦しげに呼吸する保坂さんを無視し、ジーンズのポケットに手を入れる。指先に触れた一枚の紙片を取り出す。

『豆腐(一丁)を買ってきてください。ただし、豆腐の専門店で。

 千代』

 うひぁっ、と短く悲鳴をもらし、紙切れをヒステリックに丸めた。勢いのままに食べてやろうかとも思ったが、さすがに躊躇した。自らの精神を落ち着かせる意味も込めて、紙をゆっくりと元の場所にしまう。一連の行動をとっているあいだ、沙理に注目を向ける者は誰もいなかった。

 事態を完全に呑み込めたわけではない。なにせ夢の中なのだ。荒唐無稽こそが常態。意味不明な事態に巻き込まれたとしても、驚けども困惑することはない。不安がったり怖がったりするのは時間の無駄だ。

 たいていの夢は、醒める。上映中に本体が死なないかぎり、醒める。

 不登校中というやや特殊な立場とはいえ、平和で平穏な日常に生きている水沼沙理が、就寝中に命を失うとは考えにくい。慌てず、急がず、夢から醒めるための鍵を探せばいい。

 自らに言い聞かせるように考えを整理した時点で、その鍵が母親からの命令にあることは理解していた。命令を履行し、豆腐を一丁買えばいい。そうすれば、沙理が本来いるべき場所に帰れるはずだ。

 気になるのは、現実世界でも置き手紙によって同じ命令を下された、ということ。

 現実で起きた出来事を、夢でもくり返している――わたしはすでにループの中にいるのでは?

 そもそも、現実だと思っていたものは本当に現実だったのだろうか? 見知らぬ人間が好き勝手なことを怒鳴っていたが、思い返せば思い返すほど非現実的な光景だ。目覚めたあとに起こった出来事だから現実だと思い込んでいたが、眠りから覚める夢だってないとは言い切れない。

 こうなると、現実と夢の境目はどこだったのかが、俄然気になる。しかし、人々の声に目覚めたよりも以前の記憶をたぐり寄せようとすると、自らを取り巻く空間が物理的に渦を描いているような感覚に襲われる。乗り物酔いにも似た症状で、気分が悪くなる。それを無視して無理やり過去をたどろうとすると、渦を描く速度が次第に速まっていき、遠心力に負けて体が粉末状になって飛散してしまいそうな恐怖感を覚える。脳が待ったをかけ、作業続行は不可能となる。

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