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トラウマ的な  作者: 阿波野治


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オーブンレンジとスポーツバッグ

 どういうことだろう、と内心首をかしげる。体格は明らかに保坂さんのほうが少し上だ。肩を貸すだけならまだしも、保坂さんの現状を客観視したかぎり、背負う必要がありそうだ。家までの距離を教えられていないが、とてもではないが任務を遂行できる気がしない。

 どういうことなのか、尋ねようとして、先程から長々と疑問質問をぶつけてしまっていることに気がつく。相手は熱中症の症状に見舞われている病人なのに、この対応はいただけない。あらゆる不安材料を残らず消してしまわないと一歩を踏み出せないのは、沙理の生来の悪癖だ。今は質疑応答ではなく、行動しないと。

「わかった。じゃあ、やってみるね。上手くいくか、自信はないけど」

「背負ってもらう形だと、肩にしがみつくのがしんどそうだから、お姫さま抱っこしてほしいな」

「わかった。じゃあ、まずは地面に仰向けになってくれる?」

 保坂さんは酷く緩慢な動作で命令に従う。沙理はその場にしゃがみ、一方の手を肩甲骨の下へ、もう一方の手を膝の裏へと差し込み、互いの体を密着させる。

「持ち上げるね。せー、の」

 力を振り絞って腰を上げると、思っていたよりもはるかにスムーズに立ち上がれた。思わず、双眸を瞠って保坂さんの顔を見つめる。見つめられたほうはしんどそうな表情で黙りこくっている。

 決して軽いわけではない。荷物がしっかりめに詰まったスポーツバッグのような、重厚なオーブンレンジのような。両腕にずっしりと来る重さだが、深刻な重さではない。長すぎない距離で、なおかつ、時おり保坂さんを地面に下ろして小休止をしながらであれば、どうにか目的地にたどり着けそうだ。保坂さんの家までの距離がいまだに不明にもかかわらず、沙理はそう確信する。

 でも。

 自分よりも大きな体格の同級生をお姫さま抱っこ? あり得ない。オーブンレンジやパンパンのスポーツバッグを、八歳の女児が抱え上げられるものなのだろうか? あり得ない、ように思える。でも、わたしはそれができている。どうして?

 自らの体を見下ろして、たちどころに謎が解けた。

 水色のシャツに包まれた胸が膨らんでいる。

 沙理の胸が成長を開始したのは、小学六年生の春のこと。

 そういえば、さんざんイレギュラーな行動をとっているにもかかわらず、周りの人間は誰も沙理たちに注目しない。校長は自分に酔ったように冗舌を発揮し続けているし、児童たちは疲れた顔を懸命に引き締めて語りを拝聴している。

 そうか、ここは夢の中だったのだ。

 沙理は大きく、深く、息を吐く。保坂さんの口元が緩んだ。クラスメイトの心の中を読んだのか、自宅に送り届けてもらう目途が立ってうれしかったのか、脚本に笑うよう指示されていたから従ったまでか。

 どれでもいい。どうだっていい。ただひたすら安堵している沙理がいる。夢だとわかったこと、それこそが大きかった。大きすぎた。

 だって、夢だし。

 その言葉一つで、どんな困難も乗り越えていける。乗り越えられそうな気がする。

「じゃあ、行くね。えーっと、どっちへ行けばいいのかな」

 保坂さんの右手人差し指が一方向を指す。指頭から射出された直線をたどると、銀色の門扉が遠くに見えた。沙理が過去に通った小学校の一部なのに、見覚えがない。なんとなく変な感じがしたが、

「だって、夢だし」

 その一言で自らを納得させ、歩き出す。だって、夢だし。思考停止することの恐ろしさを肝に銘じたほうがいい気もしたが、今はただ歩く。

 児童からも教師からも遠い十六歳の少女が、小学二年生の少女をお姫様抱っこして移動しているというのに、誰も関心を払わない。真横を通過しているのに一瞥すらしないのだから、認識されていないと言うべきか。

 注目されることを怖がっていたわたしが言うなって感じだけど、と沙理は思う。落ち着かないな、不安だな、気持ち悪いな……。

 だって、夢だし。そう自分に言い聞かせても、ネガティブな感情は心から退場してくれない。

 校庭を抜け出し、見覚えのあるようなないような三階建て校舎の横を通過し、正門を潜る。これから先は? 半分の年齢の保坂さんに視線を投げかけたが、目をつむっている。しんどそうでもなく、安らかでもない。体調がよくなく、無理にはしゃぐ理由もないので安静にしている、といった様子だ。一本道のようなので、ひとまず直進することにする。

 古い民家があって、田んぼがあって、雑草か低木か判然としない植物に支配された空き地がある。紛れもなく小学生のころの沙理の通学路だが、景色のところどころに、涙で滲んだようにぼやけたり、モザイクがかかったり、ベタで黒く塗り潰されたりした箇所がある。通常の景色が七割、その他が三割、といった比率だろうか。

 ぼやけるのはともかく、モザイクとベタ塗りは一目で異常だとわかるので、思わず足を止めてまじまじと見つめてしまう。しかし、いくら注視しても正体は判然としない。モザイクとベタ塗りの面積ならびに形状と、隣接するものから推察するかぎり、民家だとか、玄関先に駐輪された自転車だとか、路傍のアスファルトの隙間から生えた雑草だとか、日常的なものらしいのだが、しょせんは推測。なにが隠れているかわからない無気味さがあり、触診してみる気にはなれない。

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