保坂さん
タイヤが路面を滑る音。雨に濡れた植物や土の匂い。ブロック塀の表面を彩る苔の黄緑色の鮮やかさ。夢とは思えないほどリアルな一瞬の濃密な映像を、沙理はだからこそ現実と化すだろうと考えるのではなく、怖いほどリアルな夢だと特別視していた。
初めて見たのは小学二年生のとき。中学生か高校生の水沼沙理を襲う事件は、八歳の沙理には遠すぎる未来の出来事だった。悲劇の主人公が自分だと、直感や本能の範疇に属する力の働きによって早期に察していたが、認識としては他人事だった。少なくともその年齢に達するまでは事故に遭うことはないという安心感が、恐怖が湧き起こる余地を潰している、という側面もあった。
中学生になったのを境に危機意識が芽生えることはなかった。しかしある日、視界がブラックアウトするのは死を意味しているのではないか、という考えが忽然と浮かんだ。尾骶骨を強打し、あまりの痛みに気を失った。今まではそう考えていたが、その部位を打つと同時に、あるいは直後に別の部位を強く打ち、それが致命傷となって命の火は消えてしまったのではないか。
死んでしまえば、それ以上夢は見られない。だからブラックアウト。なるほど、その可能性もある。
「君が代」の眠気を誘うメロディが校庭に流れる中、沙理は身震いをした。その身体症状は比喩表現のようなもので、震撼する事態や感情思念に直面しても、当人の体は必ずしも物理的に振動するとは限らない。しかし、小学三年生、まだ初潮を迎えていない彼女の体は確かに震えた。
後ろに並んでいる森田さんは、脈絡のないタイミングで体を震わせたわたしを見て、どう思っただろう? 他人が見せたちょっとした不自然や隙といったものを、悪意から面白おかしく他者に報告するような人ではない。でも、心配は心配だ。
外界へと流れていた意識が予知夢に帰還する。
将来、雨の日に自転車のハンドル操作を誤って転倒し尾骶骨を強打して気を失う、ではなく、打ちどころが悪くて死に至る。そう認識を改めた瞬間、刹那の映像は「怖いほどリアルな夢」を卒業し、「恐ろしい予知夢」に昇格した。決定的な違いは、絶対にその未来が現実と化すとしか思えなくなったこと。
絶対に死ぬ。死のなんたるかをようやく合点したばかりの九歳の沙理にとって、それは戦慄に値するメッセージだった。死にたくない死にたくない死にたくない――その一念に胸中は埋め尽くされた。
死を回避する方法は、わからない。
自転車に乗りながらスマホを操作する悪習を改める? 雨の日の自転車の運転には細心の注意を払うようにする? 雨の日はいっそ、自転車に乗らないようにする?
そんな小細工では未来は覆せない。そんな気がしてならない。
どう足掻いてもどうにもならないことが、世の中にはあるのだろうか。
どう足掻いてもどうにもならなくなること、それを死と呼ぶのだろうか。
突然、前に並んでいた女子がその場に崩れ落ち、思案は中断を余儀なくされる。
その女子に注目する。保坂さん。沙理は私語を交わした経験は数えるほどしかない。片膝をつき、顔はうつむいている。肩を上下させての呼吸は見るからにつらそうで、気の強そうな顔が弱々しく歪んでいるのが透視できるようだ。視界の大半を、少し派手だが、保坂さんが着てくる衣類としては似合っている花柄ワンピースに覆われた背中が占めている。沙理よりも少し大きな体が、今はやけに小さく見える。
熱中症だ、と沙理は診断を下す。
一週間前、まだカレンダーが六月だったときにも、五年生の女子が朝礼中に倒れたことが一度あった。朝だから日射しもましだと考えがちだが、体が強くない子どもからすれば充分にきついし、直射日光を浴びるというのがそもそもよくない。陽光自体が強烈というほどではなくても、体は大きなダメージを負ってしまう。この事実を、沙理はまだ九歳ではあるが、経験から知っていた。だから夏場の外出時には、所要時間が一・二分長くかかるのを承知の上で、街路樹の葉によって日陰が生じた道をわざわざ選んで歩くこともあった。
熱中症が命にかかわる症状だという知識は、その時点の沙理にはない。ただ、肩で息をする背中はいかにも苦しそうに見える。一刻も早く苦しみから救ってあげたい。血の通った人間として、当然そう考える。困っている友だちを見たら、助けてあげましょう。体調が悪い子を見かけたら、声をかけてあげましょう。必要であれば、保健室へ連れて行ってあげましょう。なにかの機会で教師からそう教わった記憶も鮮明だ。
保坂さん、大丈夫?
沙理は脳内でクラスメイトに声をかけた。シミュレーションは、シミュレーション上の保坂さんが反応を示すよりも先に終了したが、シミュレーションとはいえ声をかけられた事実が彼女の背中を押した。上体を十センチほどクラスメイトへと前傾させ、唇を半分ほど開く。
シンプルかつストレートに「保坂さん、大丈夫?」と声をかけるつもりだった。しかし、いざ言葉を発そうとした瞬間、待ったをかけるように不安感が押し寄せ、口をつぐむ。
動悸がする。気温の高さ、湿度の高さ、日射しの厳しさとは別の理由から額に汗が浮き出し、こめかみを通過して下へ、下へ。
朝礼は礼儀正しい姿勢で先生の話を拝聴するのが普通。それから外れた行動をとれば、周りから注目されてしまう。沙理は急にそれが怖くなった。
体調不良に陥ったことが濃厚な保坂さんを助けることを最優先にしなければならない状況で、そんなことを心配している場合ではないと、沙理本人が一番よく理解していた。現時点で異変に気がついているのが自分だけ、という意味でも。
躊躇いを降り切って、あるいは抑圧して、もしくは無視して、行動に踏み切れればよかった。
しかし、できなかった。上半身の角度を元に戻し、唇を固く閉ざし、彫像のように凍りつき、身じろぎ一つできない。




