声
突然、怒号が聞こえた。どの方角からということではなく、三百六十度からいっせいに。少し遅れて足音が響き出した。怒鳴り声と足音が徐々に沙理へと近づいてくる。
不意に柴犬の足音が聞こえてきたときと同じように、周囲を見回した。あのときは柴犬の姿をすぐさま視界に捉えたが、今回はなにも視認できない。しかし足音は、怒声は、確実に接近してくる。全方位から、あたかも拘束具の締めつけを次第に強めていくように。
最初に抱いた感情は恐怖だったが、叫び出さずにはいられないほど強いものではなかった。それはすぐに腹立たしさへと変じた。怒りの対象は、敵の目的が不明なことか。それとも、姿が見えないことか。あるいは、軍人が首なしにもかかわらず普通にしゃべったことなのか。
いずれでもない。男性器の切断作業が中断を余儀なくされたことだ。
沙理は、男性器が切り取られる瞬間を見たかった。切除された男性のシンボルは、軍人の意思により彼女に贈呈されることを、場を支配する空気の質から悟っていた。それが先延ばしにされた。だから、沙理は腹を立てている。
なにが目的かはわからないが、怒りを振りかざして向かってくる無数の不可視の敵に向かって、怒りをもって応じたいと沙理は思った。しかし、羞恥の念が邪魔をする。怒りには怒りで対抗する。大人気ない真似だ。まだ十六歳だが、もう十六歳でもあるのだから、子どもなりに大人として振る舞わなければならないことだって多々あるのに。
ジレンマを解消する術はないだろうか?
頭を回転させているあいだも、怒りに囚われた敵は着実に距離を詰めてくる。腹立たしさの一部が中途半端に恐怖に変化し、ぎとついた汗となって皮膚から滲み出す。
――耐えられない。
沙理は掛け布団を跳ね除けた。染み一つない壁を凝視しながら耳を凝らす。やはり、気のせいではなさそうだ。
人の声がする。しかも複数。三人や四人どころではなく、二十人、三十人、あるいはそれ以上。分類としては怒声だ。水沼家の四囲を取り巻き、口々に怒鳴っている。
沙理は一挙手一投足を監視されている者の慎重さでベッドから下りる。窓際まで歩み寄ったが、カーテンを開く勇気が湧かない。窓越しに姿を見られて、石でも投げられたらどうしよう。絶え間なく響く荒々しい声を聞くかぎり、彼らはそれくらいのことは平気でしてきそうだ。小さいが硬質な弾丸は、コントロールが巧みならば、ガラスを突き破って室内に侵入するだろう。直撃を食らえば負傷は免れない。目に命中すれば失明する危険性だってある。
……怖い。
でも、正体を確かめないと。
意を決し、恐る恐るながらもカーテンを開く。宇宙ができる前からそうなることが決まっていたように、沙理の双眸は見開かれる。
水沼家の敷地を囲うフェンスに沿って、何人も人間が立ち並んでいる。体と顔の向きは、いずれも水沼家の方向。全員、顔を怒気に染めて怒声を張り上げている。安物くさいメガホンを口に当てて叫んでいる者も何人かいるが、たいていは手ぶらだ。
沙理の見覚えのある顔は一つもない。老若男女の構成はばらばら。どの顔にも個性が感じられず、見比べていると眩暈にも似た酩酊感に襲われそうになる。怒りに表情を歪め、天を殴りつけるように拳を振りかざし、思い思いに感情を吐き出す無名の群衆。複数の感情的な声が好き勝手なタイミングで発信されるため、人語ならざる言葉が発せられているような印象もある。しかし、しばらく聞いているうちに、紛れもなく意味が込められた人語だと判明した。
「アメリカ軍は沖縄から出て行け!」
「政府は国民の老後の生活を保障しろ!」
「地震大国日本に原発はいらない!」
「イヌの糞は持ち帰れ! 人の家の前に放置するな!」
「女性がヒールを履かなければならないのは差別だ!」
「酢豚にパイナップルを入れるな!」
「北方領土をロシアから守れ! 北方四島は我が国固有の領土!」
「生活保護費もっとよこせ!」
「ジジイババアから運転免許を取り上げろ!」
「絆! 寛容! 多様性!」
愕然とした。
水沼家に向かって声を荒らげているのだから、水沼家の成員の誰かに不平不満があるのだと沙理は想像していた。しかし、水沼家ではイヌを飼っていないし、酢豚にパイナップルは入れないし、自動車を運転する高齢者はいない。彼らは、水沼家とは無関係な己の個人的な願望を、即時かつ無条件に叶えろと喚いているのだ。
沙理は白けた気持ちになった。彼らを軽蔑すると同時に、どうにかしないと、とも思う。朝っぱらからこんなにうるさくされては、敵わない。こちらに非があるならばともかく、水沼家の人間に責任はないどころか、まったくの無関係なのだから。酢豚にパイナップルを使うな、飼い犬の糞は持ち帰れと言われても、対処のしようがない。期待する政策を掲げた候補者を当選させたいならば、もっと効果的なやりかたがいくらでもあるはずだ。
ただ、腕力にも迫力にも欠け、弁舌が巧みではない沙理の力では、どのような方法であっても彼らを追い払えそうにない。殺気立っている集団を相手にするのは、そもそも怖い。水沼家を取り巻くように起きている事態という意味でも、家人の力を借りて対処に当たるべきだ。
しかし、沙理は現在不登校の身。両親に頼みごとをするのは抵抗感を覚える。
いやいや、そんな場合じゃないでしょ。だって、知らない人たちが我が家に向かって叫んでるんだよ? 頼みづらいとか、そういう呑気なことを言っている場合じゃないから。近所迷惑になるし。二軒隣の長束さん、怒ったときは怖いし、しつこいのに。
そうは言っても、抵抗があるものは抵抗がある。
言葉による威圧に効果はないと自発的に悟り、彼らが水沼家から去って事態が終息することを願いながら、沙理は着替えはじめた。わざとゆっくりとその作業をこなしたが、完了したあとも人々はまだ叫び続けている。
「ブラック企業を取り締まれ!」
「日本国憲法九条を守れ! 日本を戦争する国にするな!」
「日本政府は中国政府に断乎たる対抗策を講じよ!」
「タピオカミルクティー!」
「NHK受信料高すぎなんじゃボケぇ!」
聞けば聞くほど彼らの主張はくだらないものに思えてくる。意見に耳をかたむけてほしいのではなくて、感情を発散したいだけに違いない。確信に近い強さでそう思う。




