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プロローグ

 ユニコーンズのエース・スガケンこと菅谷健勝投手は、五回と三分の二を四失点という、なんともいえない成績で降板していた。

 二番手投手が無失点に抑え、直後に味方が同点に追いついたが、三番手以降の救援投手がずるずると失点を重ねてしまう。最終スコア、四対七。五連敗。休日の月曜日に加えて、木曜日が移動日で試合がなかったから、もう一週間も勝ちを見ていない計算になる。

 朝刊を畳む。新聞はテレビ欄と四コマ漫画しか読まないと冷笑した、いつかのクラスメイトの心理が理解できない。沙理はテレビを観ないし、四月から連載が始まった四コママンガは稚拙な絵で的外れな社会風刺ばかりする。芸術性の欠如した風刺のどこに価値があるというのだろう?

 扁平なアイボリーのプラスチック皿のかたわらに朝刊を置く。皿の上のトーストは五分の一ほどしか減っていない。グラスのアイスコーヒーは一口飲んだだけ。微糖と称しているわりに甘く、粘りのようなものがかすかに口腔に残る。

 主食のパンと飲み物の他に、卵を使った一品と、サラダとスープがセットになった朝食を想像してみる。

 スープはインスタントに頼るので、調理者の負担は少ない。具材は種類も量も多くなくてもかまわない。特に好きなのは、オニオンスープ。メインの食材がタマネギ一つだけで、よくぞあれだけの深みのある旨味が出るものだと、口にするたびに感嘆してしまう。冬場ならば断然、コーンポタージュだ。体を腹の底から温めてくれて、寒い一日を乗り切れそうな気がする。

 パンにつけるものは、いちごジャム、オレンジママレード、はちみつ、三種類から好きなものを選ぶ。三つの瓶のいずれかが空っぽになれば、新しい味のジャムが食卓に登場する。しっかりと食べたいときは、スライスチーズを使ってチーズトーストにしてもいい。さらに腹に溜まるものが食べたいなら、ハムとケチャップでピザトーストだ。スライスチーズを一枚のせるだけ。ケチャップを塗ってハムとチーズを重ねるだけ。わずかな手間を支払うだけで、胃も心も大いに満足できる。

 日曜日は週に一度のお待ちかね、母親がフレンチトーストを作ってくれる日だ。タウン誌で紹介された有名なベーカリーで買ってきた、メロンパン、チョコクロワッサン、シナモンロールなども、まれに食卓に上る。太りそうだが、そうはいっても、ホイップクリーム入りのアンパンはとびきり美味しい。初めて食べたときはミスマッチにも思えたが、甘すぎないふんわりとしたホイップクリームと、濃厚な味わいとしっとりとした口当たりを併せ持つこしあんのコンビネーションは、病みつきになる味だ。

 卵料理の第一希望は目玉焼きだが、スクランブルエッグでも卵焼きでもかまわない。それに添える肉加工食品は、ハムでもベーコンでもソーセージでもいい。冷蔵庫にあるものとそのときの気分で、どうぞご自由に。

 サラダに関しても方針は同じだ。気負う必要はない。使う野菜は冷蔵庫にある、さっと洗ってちぎったり切ったりすれば食べられるものを使えばいいし、ドレッシングは市販のもので充分。切って盛りつけただけのサラダはサラダではないと驕り高ぶったことをほざく成員は、沙理の家庭には存在しないのだから。

 脳髄を眠りから決別させてくれるから、飲み物は基本的にはコーヒー。ただ、パンにジュースはとても合うから、気分によってはそちらでもかまわない。酸っぱすぎるオレンジジュースでも、安物のミックスジュースでも、種類も値段も関係ない。ただ、冬場は温かいほうがいいから、必然的にホットコーヒー一択だ。

 過去に差しかかったどの分岐をどちらに曲がっていれば、そんな未来が現実と化していたのだろう。

 マーガリンを塗っただけのトーストは、和食でいえばふりかけをかけただけのごはんであり、梅干しやたくあんを添えただけのごはん。一品だけではとても食事として成立しない。

 初めてその発想に至った瞬間から、味気ない朝食に対する拒絶感が芽生えた。拭いがたい、和解不可能な嫌悪感が。

 今日の朝食の主食は白いごはんです。おかずは、黒ごまと食塩で構成されたふりかけです。喉が詰まりそうな炭水化物は緑茶で流し込んで、今日も元気にいってらっしゃい。


「今日、休む」

 洗濯機を回し終え、キッチンまで戻ってきた母親に沙理は告げた。発音は明瞭だったはずだが、洗い物に意識を奪われていたらしく、発言内容が聞き取れなかった旨をしぐさで表明した。

「今日、休む」

 くり返すと、母親はピンク色のネコでも見るような目で沙理の顔を凝視し、

「どうして休むん?」

 沙理は間髪入れずに返答しようとした。「学校、休む」と申告した時点で、口にするべきセリフを用意できているつもりだった。しかし、いざ話そうとした瞬間、自分でも理由が掴めていないことに気がつく。

 朝食がひどすぎるから?

 それとも、ひいき球団が残念な負けかたをしたから?

 まさか、と心の中で首を左右に振る。

 朝食に不満があったくらいで、ひいきのスポーツチームが負けたくらいで、休むなんて非常識だ、ということではない。事情はもっと複雑だという気がするのだ。どうして休むん? 母親は必要最小限の単語を使って訊いたが、答えるのはそう単純にはいかないような。

 答えようがないので、無言のままダイニングをあとにする。休むと学校に電話しておく、という意味の言葉が沙理の背中に投げかけられる。面倒くさいんだな、と思う。お母さんは、早く洗い物を片づけたい。自分のために時間を使いたい。

 沙理も同じ気持ちだった。

 誰だって、一人がいい。

 沙理の場合、その想いが並外れて強いだけであって。

 自室に入るなり、机の引き出しからメモ帳を取り出す。一隅にデフォルメされたペンギンの全身図が描かれた、水色の表紙のメモ帳。真っ新なページを開き、ペンケースから抜き取ったボールペンを走らせる。


『不登校の原因

 1.ひいきチームの敗北

 2.味気のない朝食』


 メモ帳とボールペンをそれぞれ元の場所に戻し、下着姿になってベッドに潜り込む。

 ベッドの上で沙理は、なぜ家族が一堂に会して食事をとらなければならないのか、という問題について考えようとした。彼女は、風呂やトイレなどは一家に一つではなく、一個人につき一つ用意されるべきだ、という考えを持っている。食事に関しても同じではないかと、この日初めて思ったのだ。キッチンも、シンクも、ダイニングテーブルも、各自室に一つずつあって然るべきだ。自分の好きな食材を使って、自分の好きなように調理して、自分の好きな時間に好きなだけ食べる。それがきっと人間の生活の本来あるべき姿だから。

 でも、食材はどうしよう? わたしは働いていないから、両親に頼るしかない。欲しいものは買ってきてと頼めば、だいたい望みを叶えてくれるけれど、しょせんはだいたい。召使いでも奴隷でもないから、意のままにはならないことだってたくさんある。わたしはすでにアルバイトができる年齢に達しているのだから、自力で収入を得る努力をするべきなのだろうか? あらゆる意味で、ベッドに横になっている場合ではないのでは?

 思案は行き詰まった。

 沙理は呆気なく考えるのをやめる。空虚になった心にたちまち睡魔が魔手を伸ばし、彼女は自ら望んで被害者になった。


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