プロローグ-1
「お兄ちゃん、臭い」
「あ、ハイ」
極寒のベランダからやっと帰還して炬燵に潜ると、妹に冷ややかな声を向けられた。
二十代にして思春期の娘を持つ父親の気持ちを味わうとは。身体より心が凍えてしまう。
「そのうち『お兄ちゃんのパンツと一緒に洗わないで!』とか言うのか、思春期」
「いや煙草臭いって意味」
「あ、そう」
「吸わなきゃ、臭いとか言わない」
「…そう」
「やめないお兄ちゃんが悪い」
「ハイ」
妹の声から刺々しさは抜けない。
といっても会話はしてくれるからまだマシなのだろう。ゲームの片手間だけれども。
「あー」
「……」
「なぁ、宿題ちゃんとしたか?」
「した」
「明日のバイト、迎え要るか?」
「うん」
「もう寝るか?」
「寝ない」
「…お兄ちゃんのこと好きか?」
「うん」
返ってくるのは不愛想で適当な返事のみ。女子高生というものは総じてそうなのだろうが、この一方通行会話が虚しくてしょうがない。
「それ、また新しいキャラ攻略してんのか」
「ん?いや、これは前話してたチャラ男のルート。正規ルートで取り逃してたイベントあったから回収してんの」
自分の興味があることなら嬉々として話し始める。ツラツラと語る妹は俺の呆れ顔に気づかない。
「でも攻略ムズイの!だからイベント回収なんかしてる暇なくて、これで3週目。別エンド合わせて8週目だよ?推しでも無いのに。ヤバくない?」
「ヤバくない」
「ヤバいの」
「ハイ」
「うざい」
「スミマセン」
抜けてたはずの棘が戻ってきた。
壁当てしてたら急に130キロストレート飛んできた気分。打ち返せなかったし。
「邪魔してすみませんー」
「めんどい。拗ねないで」
「いいですぅー、もうお前なんてあれだ、なんか、転生しろ。その乙女ゲーの主人公に」
「何急に」
「トラックに轢かれて転生してしまえ。なんか流行ってただろ。」
「結構前だよ、その流行」
「そんなん知らん」
机にあったゲームパッケージを見つめながらぼやく。
(煙草臭い兄貴よりも、良い匂いしそうなイケメンの方がいいんだろ)
「あ、でも轢かれんのはヤダ。俺お前の葬式出たくない。俺が死んでからにして」
「やだよ、そんなの」
「いや俺すぐ死ぬから。煙吸って寿命縮めてっからちょっと待って」
「そうじゃなくて」
「んだよ」
こんなボロアパートでこんな兄貴と二人で暮らすよりずっといいだろう。1LDK、畳にヨレヨレの布団敷いてあるんだぞ。
お互いの私物が散乱してるこんな生活、傍から見れば負け組だ。
「いや、転生はしたいんだけどさ」
「おう」
そりゃそうだ。
「帰ってくるから」
「ん?」
「最推しだけ攻略したら戻ってくるから」
「どうやって?」
「トラック無くても、誰か攻略したら戻って来れる転生もあるから」
「そんな日帰りみたいなことできんの」
「できるから」
「すげぇな」
「だから――」
気づけば妹の目はこちらを向いていた。久しぶりに正面から妹の顔を見た気がする。
その可愛い顔は、何故か寂しそうだった。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「死ぬ、とか言わないでよ」
――愛を伝えるには陳腐な言葉だ。
でも俺はシスコンなので泣いた。
―――――
目を覚ませば、いつも通りの汚い天井のはずだった。
(今日はやけに静かだな…)
ボロアパートの壁は薄い。朝はいつも隣人の物音で起こされるのだ。
しかし今日の目覚めは爽やかで、なんなら小鳥のさえずりさえ聞こえてくる。
違和感を感じながら目を開ければ、そこは薄汚れた畳なんかじゃなくてフカフカの布団。しかも、なんか水玉模様の可愛いやつ。
「…あ?」
身体を起こせばたちまち違和感が襲う。見渡すとそこは、俺の家とは程遠い可愛らしくて小綺麗なお部屋。
目に入った全身鏡には、どこかで見た黒髪ロングの超絶美少女が写っていた。
「はい?」
確かこの女は、イケメンがやたら描かれているパッケージでドセンターを飾っていたはずだ。
そして鏡に写るその女は、何故か俺の動きに合わせて動いている。
それだけで俺は、全てを察してしまったのである。
「…なんで俺が!?」