第5話 魔族ヒーラギ
「魔界」とは好きに設定をこさえる事が出来る便利ワードである(と勝手に思っている)
ここは闇の住人が住まう常夜の国〝魔界〟。空が最も美しく、そして不気味な色に染まる時間帯を、人間界では逢魔が時と言うが、魔界の空は常にそれである。
魔界とは何か。それは人間界の裏側。そして人間たちから溢れ出す負のオーラが流れ込む場所。
怒り…憎しみ…悲しみ…恨み…妬み…恐怖…
積もり積もったそれらの感情が、一万年をかけて寄り合わさり生物の形を成したもの。それが魔族たちの始祖〝魔王〟である。
2メートルを優に超えた体躯で、黒い髪は炎のように逆立ち、肌はそれとは対照的と言えるほど白い。そして切れ長の目の中に光る燃えるように紅い瞳は、人間たちの基準から見ても十分美形の部類に入る。
魔王誕生後も、負のオーラは魔界に流れ込み続け、全て魔王の糧となって吸収される。
魔王に吸収されるオーラが一定量を超えると、体外に排出され、新たな魔族が生み出される。魔族たちはそうやって数を増やしていった。
魔王は、魔王らしからぬ優雅な笑みを浮かべて玉座に座し、首を垂れ跪く下部たちを見下ろしていた。
玉座の傍らに控えていた側近が、恭しく口を開いた。
「王よ、準備が整いましてございます。いよいよ人間界をあなた様が統べる時が来ました。どこから攻め入りますか?」
魔王は、組んでいた足を下ろし、空中に地図を出現させた。
「まずは警備の手薄いナトリーの村とキモンの里だ。そこから時計回りに進行していく。異論は?」
「ありません!」
全員がキッパリ首を横に振った。例えあっても、王に異議を唱えようものなら即刻消される。王には絶対服従するのが魔族の掟だ。
魔王は玉座から立ち上がると、下部たちを見回し、言った。
「皆の者、出陣だ!」
あれから4年が過ぎても、ヒーラギの処遇は変わらなかったが、サディ―もまた、ヒーラギのもとへ毎日あくせく通い続けた。その日もいつも通り食事を届けたサディ―が、唐突にこんな事を言った
「ねえヒーラギ、前からずっと思ってた事言ってもいい?」
「何だい改まって…」
「私、あなたの事が好き!」
ヒーラギは飲んでいたスープを吹き出した。
「そっ…そんな…ダメだよサディ―!俺の事なんか好きになったりしたら…」
「何がダメだの?まさかまだ魔族がどうとか言ってるんじゃないでしょうね?そんなの関係ないって何度も言ってるでしょ?あなたが何者だろうと、私はヒーラギが好きなの!逆にあなたは私の事どう思ってるの?もし迷惑なら…」
「そんな事あるもんか!俺だって君が大好きだよ!君がこうして毎日来てくれるから俺は孤独を感じずにいられるんだ!」
感謝こそすれど、迷惑に思った事など一度もない。ヒーラギはキッパリ言い切った。
「本当?嬉しい!じゃあ私たち両想いって事じゃない!いっそこのまま駆け落ちしない?里を出て、二人だけでどこか静かなところで暮らすの!」
またもや唐突すぎる発言に、ヒーラギは待ったをかけた。
「落ち着いてくれサディ―!話が飛躍し過ぎてるよ!」
「私は至って冷静よ!あなたの方こそ、このままここで一生を終えるつもりなの?あと何十年あると思ってるのよ!」
「それはそうだけど…君だって二度と家族に会えなくなるかもしれないんだよ?それでもいいの?」
「別に構わないわよ!私もヒーラギを同じ人間として扱わない人たちとなんか一緒にいたくないもの!」
そう吐き捨ててから、サディ―はふと、ある事に気が付いた。
「そう言えば父さん今日は呼びに来ないわね。もう1時間近く経つのに…」
いつもは長くても30分程で階下からお呼びが掛かるのだが、今日は何も言ってこない。
「本当だね。何かあったのかな…」
「私ちょっと見てくるわ!一応まだここにいてね?」
「わかった!」
扉を閉め、サディ―はパタパタと階段を下った。すると、階下はもぬけの殻であった。
「おかしいわね…父さんたらどこ行ったのかしら…」
階下どころか、外からもあまり人の気配がしない。
そのまましばらく外をうろついていると、里の集会所に大勢人が集まっているのが目に入った。どうやら緊急招集がかけられたようで、中にはサディ―の父もいた。
こっそりと聞き耳を立てたサディ―は、信じられない会話を耳にする。
「まずい事になった!隣の村に魔族の群れが強襲をかけたらしい!ここへ来るのも時間の問題だ!」
「聞くところによると、魔王直々の行軍らしいぞ?」
「だったら今すぐ里中の魔導士や戦闘士をかき集めて迎え撃つ準備を…」
「バカ言え!相手は魔王軍だぞ?普段魔族の襲撃が少なくて平和ボケしてるうちの魔導士たちじゃ歯が立たねぇよ!」
「じゃあどうすりゃいいんだよ!このまま何もせず魔族の襲来を待てってか?」
しばし沈黙が流れたのち、上座の奥にいた老婆が、名案が浮かんだ、と言った。
「ヒーラギを生贄に差し出すってのはどうだい?魔族は生贄が大好きだろ?案外あっさり引き下がってくれるかもしれないよ?」
その老婆はヒーラギの祖母だった。そして隣にいた祖父もその考えに激しく頷いた。
「そりゃいい考えだばあさん!あの厄介者がいなくなりゃワシらもようやっと肩の荷が下りるってもんだ!」
「そうだ、それがいい!」
「よし、そうしよう!」
その場にいた誰からも反対意見は出なかった。
(大変…!早くヒーラギに報せなきゃ!)
サディ―は急ぎ来た道を駆け戻った。
一方ヒーラギの方も、外が騒がしくなったのを感じていた。
(サディ―は大丈夫かな…)
何となく胸騒ぎを覚えた直後、バタバタと慌ただしく階段を上る足音がして、サディ―が駆け込んできた。
「ヒーラギっ、今すぐここから逃げるのよ!」
「どうしたの血相変えて…何があったの?」
「里の人たちがあなたを魔族に売ろうとしてる!」
「は?」
「隣の村が魔族に襲われたらしいの。たぶんこのキモンの里にも来るだろうから、そしたらあなたを生贄に差し出して許してもらおうとしてるみたい」
ヒーラギは、怒りや悲しみよりも先に疑問が湧いた。
「そんな事で許してもらえるのかな?」
「私も無理だと思うわ!だから逃げるの!わかった?」
「うん、解かりはしたけど…もう遅いみたいだ」
ヒーラギは扉の外へ顎をしゃくった。
「え…?」
サディ―の父を筆頭に、武器やロープを引っさげた人間たちがゾロゾロと部屋に押し寄せてきた。
サディ―の父は、ヒーラギの傍に娘の姿を見つけると、くわっと眉を吊り上げた。
「サディ―!そいつから離れろ!これが最後通告だ!」
「いやよ!ヒーラギを魔族に売り渡そうとしてる人たちの言うことなんか聞かないわ!」
サディ―は両手を広げて、ヒーラギと父の間に立った。
「さては集会所での会話を盗み聞きしてたな?ならば状況は解かってるだろ?このままじゃ里が存続の危機なんだ!大人しくそこをどけ!さもなくばお前も魔族の仲間とみなすぞ?」
ここまで言えば、娘も大人しく引き下がるだろうと、父は思っていた。ところがサディ―は、キッと父を睨み返した。
「いいわよそれでも!私には父さんたちよりもヒーラギの方がよほど真っ当な人間に見えるわ!父さんたちこそ、そこをどいて!私ヒーラギとここを出てくんだから!こんなとこ二度と持って来ないわ!」
娘から敵意の眼差しを向けられ、サディ―の父は顔色を失くした。
「サディ―…お前、何てこと言うんだ…」
そして、ぐりんとヒーラギを見遣った。
「そうか…ヒーラギ、お前だな?」
「え?」
「お前が悪魔の力でサディ―を洗脳して、いいように操ってるんだな?」
「え、いや、俺は…」
言い募ろうとしたヒーラギの言葉を父は遮った。
「黙れバケモノ!よくも俺の娘をっ…」
父が持っていた猟銃を構えたので、サディ―はハッとした。
「待って!やめて父さん!」
ダーァンと乾いた音が響いた。
「うっ…」
ヒーラギが肩を押さえてその場にガクリと膝をついた。傷口からドクドクと溢れ出た血が、腕を真っ赤に染める。
サディ―は悲鳴を上げて駆け寄った。
「ヒーラギっ大丈夫⁉」
それから、涙を溜めた目で父を見遣った。
「ひどいわ父さん!ヒーラギは私を操ったりなんかしてない!私は自分の意志で出て行くのよ!」
「うるさい!お前なんかもう俺の娘じゃないっ!」
銃口が真っ直ぐ娘に向けられた。
「っ!サディ―逃げるんだ!」
「いや!私ヒーラギの傍から離れたくない!」
サディ―がヒーラギの胸に縋り付いた直後、再び銃声が轟いた。
発射された弾は、サディ―の背中から心臓を貫き、ヒーラギの腹部にまでめり込んだ。
「サディ―っ!」
ヒーラギは鉛玉が肉を抉る痛みよりも、血しぶきを上げて崩れ落ちて行くサディ―から目を離せなかった。
「サディ―…?サディ―っ!」
サディ―の手がパタリと力無く床に落ちた。即死であった。
その場にいたサディ―の父以外の面々も、さすがに言葉を失っている。
ヒーラギは茫然とサディ―の父を見遣った。
「何で殺した…?俺を撃ったのはいい!でも何でサディ―まで撃った?魔族の血も引いてないあんたの娘だろ⁉」
「黙れっ!黙れ黙れっ!気安く口を利くなバケモノっ!お前が悪いんだぞっ!お前が…お前が娘を誑かすからっ…」
完全に錯乱している男には最早ヒーラギが何を言っても通じなかった。
ヒーラギが二の句を継げないでいると、後ろの方にいた老婆が忌々し気に口を開いた。
「そうだよヒーラギ…その子も、ラピスも、お前のせいで死んだんだ!お前が自分でも気づかないうちに呪いを振り撒いてるんだよっ!」
「おばあ…」
「やめとくれよ汚らわしいっ!あたしゃあんたを孫だなんて思った事は一度も無いんだっ!」
「ワシだってそうじゃ!この、いるだけで人を不幸にする厄病神め!だが、そんなお前でもようやっと里のために役立てる時が来たんじゃ!みな、あいつを捕まえろっ!」
祖父の合図で、男たちが一斉にヒーラギを取り押さえに掛かった。銃で撃たれた肩が無造作に捻じり上げられ、縄が掛けられていく。
最早抵抗する気すら失せたヒーラギには、その場にいる人間たちが、何か別の生き物に見えた。
(あれ…?人間ってこんな醜い生き物だったっけ……今まで自分は人間だって散々主張してきたけど……こいつらが人間なら、魔族の方がマシなんじゃ…?)
心の中にドス黒い感情が芽生えた瞬間、鼓動が激しく脈打った。
「っ!」
そしてヒーラギのサファイアのような青い瞳が、燃えるルビーのような紅い瞳に変わった。
「待て!様子が変だぞ?」
ヒーラギの様子がおかしいことに気が付いた一人が手を止めた直後、体を縛っていたロープが弾け飛んだ。
「うわっ」
「何だっ?」
自由になったヒーラギがゆらりと立ち上がると、肩と腹部の傷が瞬時に跡形もなく消えた。
「え…?」
場は一気には混乱に陥った。まさか本当にヒーラギが人間離れした能力を発動するとは思わなかったからだ。
スッと顔を上げたヒーラギは目から血光を放っていた。
「あ、暴れ出す気だよ!足を撃っちまいな…――」
祖母が叫ぶのと、首が無くなるのはほとんど同時だった。
血の雨を浴びながらも、その場にいた人間たちは何が起こったのか、しばらく理解できずにいた。ヒーラギがもぎ取った祖母の首を無造作にポイと投げ捨てるまでは…
感情というものが一切消えた顔が、一同を捉えた。
「ほ、本性を現しやがったな魔族め…――」
次はサディーの父に首が飛んだ。
その瞬間、祖父を含めた全員が悲鳴を上げてその場から逃げ出した。無我夢中で階段を駆け下り、入り口の戸を閉めて、その辺にあった物でバリケードを作る。
祖父たちはヒィヒィと肩で息をしながら、額に滝のような汗を浮かべた。
「やっぱり…あいつは魔族だったんだ…!」
「でも何で今頃になって…」
あんな常軌を逸した力があるなら、復讐しようと思えばいつでも出来たはずなのに、と首を傾げる者もいる。
「だが今はそんな事考えてる場合じゃない!あいつきっと里の人間を皆殺しにするつもりだぞ?」
「そういえば妙に静かだが、ヒーラギの奴追って来ないのかな…?」
「分からん!とにかく逃げ…」
振り返った途端、それと目が合った。
いつの間に外に出たのか分からないが、ヒーラギはずっと自分たちの後ろにいたのだ。
「ひィ…ワ、ワシが悪かった!もうお前を邪険にしたりはせん!だから命だけはっ…」
いっそ憐れにも見える祖父の命乞いだが、ヒーラギはそれを全く聞いていなかった。
「気安く口を利くな、人間…」
「え…?」
抑揚のない声で一蹴すると、ヒーラギは祖父の首を鷲掴みにして高々と吊るし上げた。
「や、やめてくれ!助けて…」
カエルが押し潰されたような悲鳴を上げながら祖父は必死に藻掻いた。
このまま締め殺されるのかと思った瞬間、祖父の体は真っ黒い炎を上げた。
「ぎゃああああああっ!」
灰になって燃え尽きるまで、五秒とかからなかった。
ヒーラギの紅い瞳が爛々と輝いている。
誰もその場から動ける者はいなかった。
もう、ダメだ。
藪を突き過ぎるとこうなります