兆し
熱いお湯を張った湯船に肩まで浸かり、体の芯から溶けていくような感覚に落ち着く。疲れた時はこれに限る。こうして一人のんびり出来る事を考えれば、孤独なのも悪くない。
「アケテ……ココ……アケテ……」
目を閉じていると、脱衣所の方から女の声が聞こえた。扉の方へ目を向けると、扉に張ってあるガラスに人影が映っていた。十中八九、怪異だろう。
「今動けませー」
動くのが面倒で、適当に返事を返した。物理的干渉が出来ないという事は、扉の向こう側にいる怪異は弱い。しばらく待てば、勝手に消えていくだろう。
「アケテ……ココ……ダレ?」
「……気配がすると思って来てみれば、なんだ雑魚か。兄様の憩いの時間を邪魔するとは、愚か者め」
「イヤ……コナイデ……!」
「切り刻まれる感覚をゆっくりと覚えさせてあげる。簡単に死ねると思わないでね?」
「ギャァァァァァ!!!」
扉の向こう側から、怪異の断末魔と肉が切り刻まれる音が聞こえてくる。あいつ、怪異なんかよりずっと恐ろしいな。
「……ふぅ。兄様、着替えをお持ちしました」
「ありがとう。じゃあ早く出てってくれ」
「お背中お流ししましょうか? そうです、そうしましょう」
「自分で言った事を自分で納得するな。質問したら返事が来るまで待つのが礼儀―――おい! 服脱いでないだろうな!?」
「フフフ、兄様ったら。おかしな話をしますね。服を脱がないとお風呂に入れないでしょう?」
「おかしいのは君だよ」
「お邪魔いたします」
「ほんとに邪魔だよ」
僕の制止する声に耳を傾けず、西連寺マコトは浴室に入ってきた。雪のような白い肌をタオルで隠し、長い髪を纏めて上に留めている。
僕は浴槽に寄りかかりながら、西連寺マコトを睨んだ。そんな僕に対し、西連寺マコトはニッコリと微笑み返した。
数十秒前の僕は、いくら西連寺マコトといえど、こういうプライバシーがある場所には干渉してこないと思っていた。実際干渉してきたのを目にしている今、それは甘い考えだったと痛感する。
やはり西連寺マコトは、怪異よりも常識が通じない存在だ。
「その、兄様……あまり見つめられては……照れて、しまいます……!」
「じゃあ出てけよ」
「しかし、これも慣れていかねばなりませんものね。いずれは夫と妻。互いの全てを見て、感じ、知る関係になるのですから」
「ならないから……はぁ、仕方ない」
僕は膝に手を回し、人一人分入れるスペースを空けた。
「狭いけど我慢しろよ」
「……良いのですか?」
「言っても出てかないだろ? 風呂に縮こまって入るなんて、ほんとは嫌なんだからな?」
「……それでは」
僕が空けたスペースに、西連寺マコトは入ってきた。一人だと広いと感じていた浴槽が、今は凄く狭苦しい。少し手を伸ばせば触れられる距離にいる為、僕と彼女の膝と膝がくっついている。
「……熱くないか?」
「……いえ」
「そうか……夜ご飯、なに食いたい?」
「……魚を」
「そうか……じゃあ、後で出前しとく」
どうしたんだろう? 急にしおらしくなったな。心なしか不満げな表情をしているようにも見えるし。
お互い話さぬまま、無言の時間が流れていく。先に湯船に浸かっていたという事もあり、僕はのぼせそうになっていた。早いとこ髪と体を洗って出ようと考え、僕は立ち上がった。
「キャッ!」
「は?」
「あ、兄様……! そんな、大胆な事を……!」
そう言いながら、西連寺マコトは両手で顔を覆い、指の隙間から僕を見ていた。いちいち反応していればキリがないので、僕は何も言わずにシャワーの前に座った。
シャワーのお湯を出し、濡らした髪をシャンプーで泡立たせて、泡を流し落していく。
「……兄様」
「ん~?」
「兄様は、愛情を知らないと言っていましたよね?」
「そうだよ。それがどうした?」
「……もしかして、女性を意識した事が無いのですか?」
「意識……それって、どういう意味?」
「……一糸纏わない女性と一緒になってしまった時、兄様はどう思いますか?」
「別に何も。あー、でも筋肉の付き方次第では、興味が出るかもな。どういう身のこなしで戦うか、とか」
髪と体を洗い終え、タオルで顔を拭きながら西連寺マコトの方へ顔を向けると、彼女は頭を抱えながら小さく唸り声を上げていた。
「そうですよね……愛を知らなければ、性を知っているはずがないですものね……」
「なに変な事言ってんだ? 僕は先に出るから、のぼせる前に上がるんだぞ?」
西連寺マコトを残し、僕は浴室から出た。着替えの服を着てリビングへと向かい、テーブルの上に置いていた指輪を着けて部屋の中の状況を調べた。
辺りを見渡していくと、ゴミ箱に捨てていたチラシの束から反応があった。チラシの束を手に取り、一枚一枚見ていくと、ある一枚にだけ異変が起きていた。
そのチラシは【救われる会】という、いかにも怪しげな会の勧誘のチラシ。そのチラシに書かれていた文字の一部に焼け焦げたような痕が出来ており、そこから怪異の反応がある。おそらく、脱衣所に現れた怪異の原因はこれだろう。
「文字に怪異を紛れ込ませていたのか……なるほど。怪異から救われる為に入信させるのが狙いか」
明日、宮本達也に調べさせよう。どのくらい仕込んでいるかは不明だが、僕以外の人の所にも怪異が現れたはずだ。被害が広がる前に、灸をすえる必要がある。
「……そういえば、あれからどうしたんだろうか?」
僕は今になって、宮本達也の幼馴染である斎藤響に術を掛けていた事を思い出した。術は既に解けているとは思うが、解除方法も知らないまま使ったのは反省しなければ。記憶を失う前に習得していた術は体で憶えているが、その効果の全ては記憶と共に消え去っている。
そういえば、昨日まで僕は術を使っていなかったな。ほんの一ヶ月くらいの短い期間だったとはいえ、使わずに過ごしてきた。
なのに、たった一度使っただけで、術を使う事に躊躇いが無くなってきている。これじゃあ依存症みたいだ。これからは術を使うべきかどうか、考えてから使わないと。
『アキト』
「ッ!?」
突然、全身が凍り付くような寒気が襲ってきた。僕は振り向きざまに指輪を構え、辺りを見渡した。
しかし、声の主と思われる存在はいなかった。指輪を使って調べてみたが、怪異の反応は無く、正常そのもの。
でも、確かに感じた。今まで感じた事も無い、強大な力を持つ何かを。確かに聞こえた。僕の名前を呼ぶ女性の声を。
幻と言うには、あまりにも現実味があり過ぎる。
「兄様?」
「ッ!?……なんだ、驚かせるな」
「どうしたんですか? 凄い汗。それに、顔色も……」
「何でもない。少しのぼせたらしい……僕は先に寝る。何か食べたいなら、頼んでいい。金ならそこの棚に入ってあるから、それを使え」
「兄様……」
「大丈夫だ……本当に……」
実際は大丈夫じゃない。さっきから体が重いし、視界が歪んで見える。少しでも気を緩めれば、倒れてしまいそうだ。
僕は西連寺マコトに悟られないようにベッドへと向かい、張っていた気を緩めてベッドに倒れ込んだ。