西連寺マコト
無音に包まれた車内の中、僕は窓から景色を見ていた。隣には、かつての許嫁であった西連寺マコトが座っている。気まずいとは違う張り詰めた空気が車内を包み込み、易々と言葉を発せない。
正直言って、すぐにでも逃げたい。記憶を失った後、既に家の力を失っていた僕の面倒を見てくれた西連寺家には恩があるが、その一人娘である西連寺マコトは苦手だ。村にいた頃、行く先々で現れては、ベタベタとくっついてくる。
まぁ、その原因は僕なんだけど。西連寺家には婚姻の際、お互いに花で作った物を贈る決まりがある。当時の僕はそんなの知らず、花で作った腕輪を西連寺マコトに贈ってしまった。贈った理由は、女性の方が似合うという、なんともくだらないものだ。
だが理由はどうあれ、僕は西連寺マコトに花の腕輪を贈った。そこから西連寺マコトは僕の彼女面、というより嫁面だ。何度も彼女の両親に誤解だと訴え、何度目かに渋々と婚約を破棄してくれた。
その後、西連寺マコトは僕の前に現れる事は無くなり、僕も村から離れた。キッパリと諦めてくれたとは思っていなかったが、こうして堂々と会いにくるとはな。
「……謝らせてください、兄様」
西連寺マコトが僕に話しかけてきたが、僕は絶対に反応しない。返事をしたり、振り返ったりしたら、彼女の術中にハマるからだ。この透き通るような清楚な声と気品のある顔には、人をコントロールする力がある。それで何度も彼女の無茶な要求を叶えさせられた。
「村を離れ、この町に一人でお住まいだと聞き、何の便りも出さないまま、こうして会いに来てしまいました。兄様の都合を考えず……私のワガママです」
少しは大人に成長した……と思わせてくれるが、これは建前だ。この後に話す事が、西連寺マコトの本音だ。
「ですが、私は嬉しいです。兄様が、西連寺家の次期当主として前向きに考えてくださるのが」
ほらね、やっぱり何も変わってない。どんな事も都合の良い解釈で受け取り、それを相手にも捻じ込む。西連寺マコトとは、質の悪いワガママな女だ。
だが残念だったな。今の僕は、何を言われても決して反応しない。伊達に何度も術中にハマってきた訳じゃないからな。
「こうして村の外で見聞を広め、良き当主となる為に日夜励んでいるのでしょう。ええ、私には分かりますとも。私と兄様は近い将来、夫婦となるのですから。もちろん、私も励んでおります。兄様ばかりに、負担を掛けるつもりはありませんから」
どうしよう、全部にツッコミたい。言ってる事全てが間違ってる。だが、ここで少しでも反応すれば、彼女の思うつぼだ。
というか、反応しようがしまいが、結局同じなような気がする。反応すれば婚姻の話に持っていかれ、反応しなければ勝手に婚姻させられる……あ、駄目だ。もう詰んでる。こんな目に遭うなら、運転手の老人なんか見捨てて、車に乗らなければよかった。
「……そんな事を言う為に、僕の前に現れたのか?」
「やっと話してくださいましたね。ええ、そうですよ。兄様と私の将来、今一度確かめ合いたかったのです」
「忘れたのか? 僕と君は、もう許嫁じゃない。その花の腕輪だって、僕が無知だったからだ」
「それでも、兄様は私の心を芽吹かせました。愛を知らなかった私に、初めて愛を教えてくださいました」
「生憎、僕は愛情なんてものを知らないし、知りたくもない」
「怖いのですね。失う事が」
「……はぁ?」
知ったような口を利かれ、怒りのあまり、思わず西連寺マコトの方へ振り向いてしまった。振り向いた先で見えた彼女は、優し気な表情をしていた。
すると、僕の硬く握られた拳の上に、西連寺マコトは自身の細い手を乗せてきた。彼女の手の平の冷たさが、僕の拳から体の中へ流れ込んできて、怒りが静まっていく。
今すぐ手を振り払うべきなのだが、冷たくも心地よい彼女の想いに体を支配され、振り払う事が出来ない。
「記憶を失い、居場所を失い、存在意義さえ失ってしまった。失い続ける中で兄様の心は疲弊し、失う事にトラウマを覚え、心に殻を作った。そうして孤独になったのに、今度は誰かを求めてしまうようになった。他人の温もりを欲するようになった」
「そんな事はない……僕は―――」
「では、何故この手を振り払わないのですか? 私との関係を本当に断ち切りたいのなら、既に手を払い除けていますよ?」
「それは……」
「兄様は今、誰かの温もりを欲する事と、それを失ってしまう怖さの板挟みになっています。今は耐えられても、いずれ兄様の心は本当に壊れてしまう」
「……」
「ですので拒絶しないでください。心の殻を破り、私の想いを受け止めてください。身も心も、兄様の全てを私に委ねてください」
「……分かったよ」
「っ!? では!」
「僕は君の想いを受け入れない」
「……え」
言いたい放題言われたが、おかげでハッキリと分かった。僕が西連寺マコトの事を好きになる事は無いと。
確かに彼女は僕に対して想いを寄せてくれているが、その愛情には支配欲がある。彼女に身も心も委ねれば恐れも不安も無く過ごせるだろうが、幸せにはなれない。
つまり、僕の事を下に見る奴は大嫌いだ。
「ど、どうしてですの!? 私なら、兄様の事を一生―――」
「その言い方だ。僕の手綱を握ろうって考えが見え見え。僕は僕の事を下に見る奴が嫌いだし、自分の生き方は自分で決めたい」
「で、でも……!」
「確かにたまに孤独を感じる時はあるが、壁に寄りかかれば済む話だ。それにようやく村から離れられたんだ。出来る事なら二度と戻りたくないね」
「……」
ちょっと言い過ぎたか? でも、これくらい言っておかないと、また懲りずに彼女は僕の前に現れるだろう。叶う事なら、もう二度と僕とは関わらないでほしい。
西連寺マコトに若干の罪悪感を覚えていると、今まで走り続けていた車が停まった。窓の外を見ると、そこには僕の家があった。
「なんで僕の家の場所を……って、元々この家は村の奴の持ち家だもんな。そいつから聞けば分かる事か」
「……」
「じゃあ……元気でな」
西連寺マコトに別れの言葉を言い、ドアを開けて車から降りた。ドアを閉めると、車は逃げるように走り去っていった。
ふと隣を見ると、何故か西連寺マコトが僕の隣に立っていた……え、なんで?
「えっと……車、行っちゃったけど」
「そうですね」
「いや、だから車行っちゃったって」
「ええ、そうですね」
何故だろう。何だか、凄く嫌な予感がしてきた。
「それでは、兄様。不束者ではございますが、これからよろしくお願いいたします」
そう言って、西連寺マコトは深々とお辞儀をしてきた。そうして僕は気付いた。僕があの車に乗った時点で、西連寺マコトの掌の上で転がされていた事に。