帰郷
祓い士には普通の人が見ている世界とは違うものが見えている。その一つが、亀裂である。普通の人にとっては見慣れた壁や地面、あらゆる場所に亀裂が存在している。その亀裂は歪みであり、祓い士の村へと行ける出入り口なのだ。
そして今、黒宮アキトと西連寺マコトは、その亀裂の前に立っていた。
「兄様。宮本と斎藤のお見送りを断ってよかったのですか?」
「別れの挨拶は済ませた。それに、達也に亀裂の事を知られれば、好奇心であっちに行ってしまうだろうし」
「そうですか……まぁ、兄様が言うのなら」
そうして、二人は亀裂に手を当て、そのまま亀裂の中に入っていった。亀裂を通り過ぎると、そこは緑溢れた平地であった。コンクリートで造られた建物や、喧しい音が一切無い、自然の世界。
二人の傍に立つ木から一羽の鳥が、青空へと羽ばたいていく。青空を飛んでいく鳥を追うように、二人も西連寺家の領地へと向かい始めた。
しばらく歩き進み、高い丘の頂上へと上ると、そこから西連寺家の領地を見下ろせた。広い田んぼの後ろに住民達が過ごす家があり、その更に後方には、住民達の家よりも大きい西連寺家の屋敷が建っている。
「外の世界を知ってしまったら、なんだか小さく見えてしまいますね?」
「西連寺家のお嬢様が何を言ってんだ。十分広いだろ。まぁ、少し静か過ぎる気はするが」
「退屈過ぎて戻りたくなりました?」
「退屈というより、受け入れられるかが不安だ。何せ、僕はお前と違って嫌われててね。元から」
「フフ。その不安もすぐに感じなくなりますよ。だって、兄様は私と―――」
その時、女性の甲高い叫び声が鳴り響いた。その叫び声を耳にした二人は、叫び声がした田んぼの方へ目を向けると、田んぼで働く住民達が一斉に走り出していた。遠目からでも慌てている様子が伺え、まるで何かから逃げているようであった。
「何でしょう?」
「さぁな。行くぞ」
二人は丘を下っていき、騒ぎがあった田んぼへと駆けていく。田んぼの前にまで来ると、ある一定の場所の稲が潰れていた。
だが、それ以外の不審な点は見当たらず、騒ぎの元凶を掴めない。
「マコト。逃げていった連中に何があったか聞いてこい」
「私が?」
「お前の方がスムーズに聞けるだろ。ほら、行け」
黒宮アキトは、ここで何があったのかを西連寺マコトに聞きに行かせ、自身は田んぼの様子をもっと近くで観察し始めた。
田んぼの中に入ると、足首よりも上まで泥に浸かり、収穫前の稲が邪魔で、前へ進むのが遅くなってしまう。出来るだけ稲を倒さないように歩き続けていくと、稲が潰れていた場所にまで辿り着いた。
すると、その場所の泥水にだけ、水に油が混じった時に見える虹色の油膜が出来ていた。もっと近くで調べようと足を一歩前に踏み出すと、今までよりも泥の中に深く足が沈んでいく。
「なんだ? ここだけ妙に深い……」
膝にまで泥に沈んだ足を一度抜こうとした瞬間、黒宮アキトの目の前に大きなカエルの頭が浮かんできた。カエルの目は血走っており、皮膚には透明な膜が張ってあった。
「こいつが騒ぎの元凶? ただのデカいカエルじゃ―――」
この時、黒宮アキトは肝心な事を忘れていた。この祓い士の村にも、外の世界と同じく怪異は存在する。
しかし、祓い士の村に存在する脅威は他にもいた。人が変異する怪異とも、異能の力を持つ異形とも違う。生まれも生態も不明な、恐ろしく醜い化け物【邪奇醜】である。
今、黒宮アキトの目の前で顔を覗かせているカエルも、邪奇醜であった。ただのカエルと黒宮アキトが油断していると、邪奇醜は泥の中から姿を現し、丸太のような太く生々しい腕で黒宮アキトへと襲い掛かった。
体を掴まれるギリギリの所で邪奇醜の手首を掴んだ黒宮アキトだったが、邪奇醜の力は凄まじく、徐々に押し負けていく。黒宮アキトは押し返そうと奮闘するも、邪奇醜の口から伸びた長い舌が首に巻き付き、ヌメリとする感触からは考えられない程の力で絞められてしまう。
「兄様!!!」
住民から邪奇醜の存在を聞き出した西連寺マコトが田んぼの外から黒宮アキトを援護し、破邪の指輪から伸ばした光の線で邪奇醜の体を拘束した。邪奇醜が後方に引っ張られている隙に、黒宮アキトは後ろへと下がり、全身を使って邪奇醜の舌を引っこ抜く。舌を引っこ抜かれた邪奇醜は馬の嘶く声のような叫びを上げると、再び泥の中へと身を隠していった。
「はぁ、はぁ……!」
「兄様!!! 大丈夫ですか!?」
「ああ、大丈夫だ……!」
再び邪奇醜が姿を現す事を危惧した黒宮アキトは、呼吸を整えるよりも先に田んぼの外へと逃げ出した。全身泥だらけになりながら、地面に大の字になっている黒宮アキトのもとへ西連寺マコトは駆け寄り、ハンカチで顔の泥を拭っていく。
「わ、忘れてた……あんな化け物が、ここにはいたな」
「私も驚いております。今まで、この領地に邪奇醜が現れた事などありませんでした。それもあの姿……恐らく、既に何人か犠牲になっていると思われます」
「2、3メートルはあったな。爬虫類のような太い体で、力強く、薄っすらと膜が張ってた。それにこの、長い舌ときた……!」
黒宮アキトは自分の下に巻き付いたままの邪奇醜の舌を解き、手に持って観察する。
「触った感じはヌメッとして、すぐに抜け出せると思ったんだがな」
「あの邪奇醜の体に張ってある膜。恐らく、祓い士の術から身を守るものだと思われます。実際、私の術で体を縛られても、祓われる様子がありませんでした」
「じゃあ、こういう事か? 祓い士に特化した進化を遂げてると? だとしたら、手の打ちようが無い。力は強いし、術も効かないとなるとな」
「……とにかく、一度屋敷に報告した方がいいですね。私達がいない間、何が起きていたのかを聞きませんと」




