隣の人
閲覧ありがとうございます。
最後まで読んでいただけるとありがたいです。
「なあ、そんなにくよくよするなって」
ユウキが相変わらずグラスの縁ばかり見つめているから僕はそう励ました。
美術館じゃないんだ。じっと鑑賞したってビールの泡が消えていく過程には芸術なんか見出せない
「今回は運が悪かった、なあ?」
ところがどっこい。この言葉にユウキは慰さめられているのではなく煽られているのだと受け取った。
「運が悪かった?
ああ、そうだろう。運が悪かったんだ。
俺は運の悪さで結婚する予定だった彼女に捨てられ、親には勘当同然さ」
でも、そのおかげでグラスは空になった。
飲み頃を逃して温くなっていくビールは見ているだけで体がそわそわし出すから僕はようやくほっとした。
「もともと、仲も良くなかっただろ
ああ、いや親の方さ」
ユウキが一方的に斎藤美優に惚れて猛アタックの末なんとか交際に辿り着いたのは知っていた
結婚する予定だったのは知らなかった。
それが、両者の意向なのかひとりよがりで進行したものがいつの間にか予定にまで昇華したものなのかもわからないが。
下手な事を言うと、ユウキの気分を慰めるはずが、僕自身に慰めが必要な事態になりかねない
ー-ユウキの長所であり短所でもある一つとして手の早さが挙げられる。
酒を呑むのは好きだ。ただ酒なら尚更いい。
コートのポケットの中にある友人達から預かった財布の角を指でなぞる。
これは癖だった。
どこかでうっかり落としていないか、気づかない間にスられてないか。大事な物がちゃんとそこにあることを度々確認しないとこれまたそわそわしちまう。
財布はちゃんとあった。
中には諭吉が3枚入っている。
当然、一夜の食事代っていう訳ではないからこれは僕への手間賃も含まれているはずだ。奴らはそうは言わなかったが、僕はそう認識した。
ただ酒はいい。減るものがないのに酒が飲めるし、気分は高揚する。
つまみのヨダレ鶏とやらを口に運ぶ。美味い。この店は変に気取ってなくてちゃんと酒に合う飯のつくりかたを知っている。
しかし、僕には僕の真理があって、それは酒は気持ちよく飲めないのであれば一滴も飲まない方がよっぽどマシだってことだった。
折角の美味い肴も、酒も、与えられた使命のせいでうすぼんやりとしていた。
息苦しさからネクタイを外して、鞄に押し込む。藍色のそれは浅瀬の岩にへばりついたわかめのように荷物の隙間に体をよじった。
ユウキの方は一杯補給したのが効いたのか既に3杯目を店員の中国人に頼んでいた。
これには僕も顔を顰める。時刻は夕方の6時、客入りはそこそこだ。
「おい、あんまり飲み過ぎるなよ
今は特に、大人しくしておいた方がいいんだから」
友人の忠告に奴は持ち前の反逆精神でごくごくとジョッキを傾け、半刻後にはすっかり出来上がっていた。
「この店の良い所は」
通い始めて2時間の男が少々調子の外れた声で語る。
「テレビがない所だな。それにラジオも流れていない。本当にいい店って言うのはわざわざBGMを用意しなくていいんだ。静寂が気になるって言うのはそれだけ活気がないってことさ」
間にハイボールを一口挟む。
「こんな風に思えたのも、今回の件でいかにマスメディアが腐りきっているか。それを知ったからだ。あいつらはクソだ。自分が神様にでもなった気でいる」
ユウキは目の前のお品書きが憎き敵に見えているのかじっとすわった目で睨んだ
「それからそいつらを手放しに信じる奴らも全員」
続けて何か罵倒の言葉を吐いたが、聞こえないふりをした。
家に引きこもっていた奴を連れ出すのに酒を使ったのは僕だったが、それが間違いであった事は今でははっきりしていた。
「飲まずにいられるか、
どいつもこいつも俺を盗み見て、犯罪者、いや、違うな、そう電車のゲロみたいだ」
「落ち着けって、なに言ってんだよ」少なくともその発言と声のボリュームで隣のサラリーマンに盗み見る理由を与えてしまっている。だが、酒が奴の中のリミッターを外してしまったようで連れはこちらの意図を汲み取ることなく寧ろ妙な具合に酒の席は進行していた。
奴はどこか得意げだった。
「分からないか?すごく的確なたとえだと思うんだ。
電車の座席っていうのは1区間にえーと、7席ある。
ストレスなく座れる最大数は4人だな。席を一つずつ空けて
それから通勤、帰宅ラッシュ時には全席稼働して7人が腰を下ろして落ち着ける。
これは、経験者じゃなけりゃ分からない感覚だと思うが、満員電車時に座れるかどうかでその日のコンディションが決まると言ってもいい。鞄の底から見つけた100円玉みたいなもんだ。500円玉でもいい。
それが、どこかの酔っ払いの置き土産のせいで7人分はおじゃんになって、それからその分押し出しを喰らった大勢の乗客共が何をするか?ゲロに向かって「どっか行けよ」って怒鳴るか?そんなわけがない。
みんな遠巻きにまるで存在しないように無視を決め込んで携帯をいじったり、寝不足を補おうとしたり、単行本を開いたり、でもいくら知らないふりをしても眉間の皺は不愉快そうに寄っているし、人混みの中にぽっかりと人気がないのが却って存在感を強めているんだな。
俺は犯罪者じゃない。ー-少なくとも法律はそう認めた。だから面と向かって何か言う事はしないが、それでも不快な匂いが漂ってくる。
聞こえないふり、知らないふりをするが、実際に聞こえないわけでも知らない訳でもない。きっと家に帰ったらどっかの誰かに俺が不謹慎にも酒に酔っぱらって反省の色は無しとか教えるんだろ?勝手にしろよ」
そそくさと勘定を払って去っていった隣のサラリーマンの背中にユウキは叫んだ。
「はは、話題を提供してやったんだ。気前がいいだろ」
そう言って、不気味に笑いながら酒をあおる。
確かに自分の周りの状況を把握できるぐらいには奴も酔ってはいなかったのだろう。
僕らの周りの客は煙のように静かに消えて、今や海に浮かぶ孤島のような具合だった。居心地の悪さと店員からの無言の訴えに僕は早く店を出てしまいたいと思っていたが、ユウキは相変わらず僕の心情には無頓着に続ける。
「世間じゃ俺は屑人間だろうな。だが、世間の事なんかはどうだっていい。俺が一番ショックだったのはな、そんな顔も知らない奴らの言う事の方が、俺の訴えている真実よりもあいつにとって重要だったって事だ。
俺は言ったよ「違うんだ。俺は嵌められたんだ」
ところが、あいつは耳を貸さずに出ていった。「あんたが無抵抗の人に暴力を振ったのは事実でしょ」って。信じられないとも言った。それからもう二度と顔を見せるなとも」
ユウキはまばたきもせずに『厚焼き玉子 三百円』を睨んでいたが、実際にそれを見ているわけではない事は僕にもちゃんと分かっていた。
黙り込んで無口になってどこか一点を見つめる。見るからに何かを考えているのが分かる。当然、何を考えているのかは読心術でもなけりゃ分かる筈がないのだから、周りの人間は心配になる。
ユウキは口よりも先に手が出るのだ。良くも悪くも。
そんな男が何か頭を使おうとしている。もっと悪い結果が訪れそうだった。
「なぁ、提案があるんだ」
「なんだ?」
僕の言葉にも奴はこちらを見ずに返答した。その方がよかった。今のユウキと真っ向から顔を合わせるのは気が進まなかった。だから、カウンターの席を選んだのだ。少なくともこれなら対面じゃない。
「父親が今度新しい事業を立ち上げるらしくてな。
橋を架けるらしいんだ、お前行ってみないか?」
「、、どこだ?」
「四国の方だ」
ユウキは鼻で笑った。
「体よく俺を追い出そうってか。そうだよな、お前の知り合いに俺のような人間がいるなんてバレたら風評被害も甚だしい」
奴が僕の事を友人じゃなくて知り合いと評したことにショックを受けたが、それが奴なりの僕に対する気遣いだと気づいて慌てて取成す。
「何てことを言うんだ。
もし僕がお前の言うような男だったとしたら、今頃お前と酒を呑んでいたりするか。
お前を外に連れ出して気分転換をさせようという僕の気持ちまで分からない訳じゃないだろう」
今度は奴も鼻で笑わなかった。僕の言葉に心を打たれたのか沈黙の後に出た声はこれまでに聞いた事が無いほどに弱弱しかった。
「どうせ、向こうに行ったところで変わらないよ
俺は人間失格の社会不適合者さ」
途端にさっきまでの空元気が萎んで自分と同い年とは思えないほど、奴は老け込んでしまった。
その姿は飲み屋の端っこで酒でしか人生の楽しみを見いだせないくせに時化た顔で縮こまっている小汚く痩せた老人を思わせた。僕はショックを受けて咄嗟に奴を励ます次の言葉が出なかった。だから、それを言ったのは僕ではなかったのだ。
「若者が何を言っているんだ。まだまだ長い人生じゃないか」
いつの間にか隣には客が座っており、その男がそれを言ったのだと分かった。
僕が驚いて隣を見たのと同じように、さっきまでこちらを見もしなかったユウキも男を見たのが分かった。「やめてくれ、老人はもうまっぴらだ!」
男は皺だらけの皮膚から七十後半はいっている様子だったが、椅子に座った姿勢や、すらすらと紡がれたしゃがれのない声からもう少し若く感じられた。
男は僕ごしにユウキを見やるとふんと鼻で笑う。
「何を言う。お前さんは見たところまだ27か8そこらだ。これから会う人間の多くはお前さんより年上だし、医療の発達したおかげで私ぐらいのはうじゃうじゃいるぞ。
自分が老人になるまで部屋からでないつもりか?」
「じいさんになるまえに死んでやるさ。
どうやら俺だけじゃなくてみんなそれを望んでいるみたいだしな」
「親はどうする?残された両親は」
「そいつらもそうなんだよ。
それに俺には出来のいい妹がいる。
寧ろ厄介なのがいなくなって安心するんじゃないかな」
「親しい友人はどうだ。
この歳になっても友人がこの世のどこにもいないのだと諭されるのは苦しいものさ。
それがまだお前さんほどの年だったら、予想してなかった分ショックは大きいぞ」
ユウキはそれに対して自虐的な笑みを浮かべて返事をしなかった。
両親、友人と続いて、次に隣の客が何を言うか察しがついていたので僕は非言語的コミュニケーションを駆使して男に思いとどませようと伝えた。
彼も察しのいい人間で助かった。僕の顔を見て開いた口を閉じた彼とそれによって産まれた沈黙にユウキは違う意味を感じ取ったらしい。
「いいか、あんたに面白い事を教えてやるよ。
きっと俺みたいな社会の屑があんたに教えられる唯一の事だ。
あんたも知っているだろうが、俺はあんたぐらいの年の老人を車止めにボールみたいに投げつけたんだ」
「いや、知らないな」
ユウキはそう言われて不思議なことにショックを受けたような顔をして驚いたようだった。だが、気を取り直して続ける。
「そうなんだよ。
そのせいでそいつは今も目を覚まさないまま病院のベッドで眠っているんだ。
生死を彷徨っているって言うのにその加害者はこうやって反省もせずにダチと酒を呑んで楽しくやっているってわけさ。
あんたの目の前にいる男って言うのは、そう言う奴なんだよ。
大事な事を教えてやるよ、これまで通り平和に過ごしたけりゃ余計な事に口を突っ込まむな。
病院送りにされたくなきゃな、さっさとどっかに行っちまえ」
一瞬、フロア全体が静まり返って、それから僕らから離れたお座敷から数人の男女が鼠の引っ越しのように去っていった。恐らく客は僕ら以外にはいないのだろう。厨房から食器や調理器具がぶつかる活気のある音も無ければ、中国人の従業員はやる事も無いからかレジの陰で携帯をいじっていた。
だが、隣の客は以前としてそこに座っていた。
寧ろ人がいなくなるのを待っていたかのように男はもう一度店が静けさを取り戻すのを聞いてから、口を開いた。
「私はこの前、友人の葬式に出てきたよ」
男の脈絡のなさに僕は呆れたが、彼は聴衆の反応を気にせずに続けた。
「死んだからと言って嘘を言ってもしょうがない。
あいつはいい奴とはとても言えない男だった。
仕事は出来て優秀な男だったが、人に好かれるタイプじゃなかった。
金に厳しい奴で、友人の中ではあいつを守銭奴だと言って嫌って去っていった奴もいた。結局、仕事の方もワンマンの行き過ぎで自主退職に追い込まれてその後はめっきり話にのぼらなかったが、最終的には病院のベッドの上で誰に看取られることなくあの世にいったらしい。
ー-私も表には出さなかったが、あいつにいい印象は持っていなかった。それでも奴の弁護士から連絡が来た時には思う所があって長野の山奥にまで出かけた。
驚いたことに私は奴の遺言書で遺言執行者に指名されていた。向こうは私が彼に下した評価とは違う物を抱いていたらしかった。
更に驚いたことには、私に託された遺産は雀の涙ほどのものだった。
いくら退職したからと言って奴が稼いだ金を思えば、充分に暮らせるだけの蓄えはあるはずだったし、奥さんもいなけりゃ子供もいないが、その代わりにいい老人ホームにでも入って悠々と最後の日まで暮らしていけるはずだった。
あと数か月も経てば、財布は底をつき病院代も払えなくなる。
まるで、自分の死期をコントロールしたかのようで私は何だか背筋がゾッとしたのを覚えている。
何故、このような事になったのだろうか?酒か?賭け事か、それとも女性関係か?
そして知った。それらの金がどうなったのかを。
私は鼻で笑った。
寄付、だと??これまでの行いの償いのつもりか?死が近づいて、今更になって地獄に行くことを恐れたのか?
それから私はもう一つの事を知った。
奴がしていた免罪符は52年、624回分の継続寄付だった。
私はそれから狐に包まれた心地で奴の家に行き、床がどこかふわふわしていた感覚をまだ覚えている。
今はもうないその家の中を歩いた時の匂いを覚えている。
薄く埃をかぶった整頓された室内、静かで音が木造の壁に吸収されたようだった。
縁側に面した廊下にまばらな影が落ちている。軒先から吊るされたネットに熟れたゴーヤの実が幾つも生っている。庭には二列の畝に何かの葉野菜がある。あと数か月もすればそれらの周りに生えた雑草の群れがその背を追い越すだろう。
唐突に松尾芭蕉の詠んだ有名な句の一説が浮かんで消えた。あの句から得た同じ侘しさが秋の民家の庭先でもう一度私の胸を締め付けた。
一体ここは誰の家なのだろう?
私は自分に問いかけた。
あの男が晩年をここで過ごしていたとはとても思えない。
あの男に似合うのはもっと荒んだ家だ。
仕事を辞めさせられて人に対する憤怒で日々を生きていく男。
かつての自分への未練を捨てられない男。
植物なんか育てられない男。
自分以外の事に目を向けられない男。
誰かの為に自分を犠牲にしない男。
私の中にあった地盤があっさりと崩れて、ぐらつく足元に不安を覚えた。
私は一体誰の死に向き合っているのか、と」
「それが俺と何の関係があるんだ」
背後から声に僕はハッとした。意識が死んだ男の家から居酒屋へと戻ってきた。
「その嫌われ者が善人だったからって他の嫌われ者も善人だって言いたいのか?
呆れた能天気だな」
隣の客はユウキの言葉にちらりと視線を寄こした。一瞬男と目が合い、それから僕は自分が息を止めていたことに気付いた。
隣の客は苦し気に溜息を吐いた。
「違うな。
お前さんの言っている事はまるで正反対だ。
最初に言っただろう?あいつはいい奴とはとても言えない男だった。と
私や友人達、それからあいつに関わった多くの人間にとって決してあいつは善人なんかじゃなかった。
悪人とまでは言いすぎだが、その一歩手前の男だった。
だが、その同じ人物のおかげで今日に命を繋ぐ事が出来た子供がいるのも確かな事実だ。
男の二面性の為か?違う、そうじゃない。そもそもが人間の善悪など決められるものではない。
勧善懲悪など机上の空論、創作の世界にしか存在しない現象だよ。
君、すべては視点の問題だ。見方の差異だ。価値観の不一致だ」
老人は続ける。
「例の私の友人の葬式には私の他、彼の弁護士しか参列しなかった。
だが、それでも私は彼の葬式を行った。
友人たちは私をお人好しだと言ったが、私は内心の疚しさから式を挙げた。
また、君のさっきの言い草では寄付をすれば善人になれるらしいがそれはどうだろう?
私なんぞは後ろめたさからそれを行っている。
自分が何不自由なく生活を送っていることに。私が美味しい食事に舌鼓を打ち、屋根のある誰にも侵害される事のない環境で安心して睡眠を貪っているその時に、確かに理不尽な運命に翻弄され辛苦に喘ぐ人が必ずいる。
その事実から逃れる為に、見ないふりをする為に、自分が楽をする為に。
私こそが免罪符代わりにそれを行っているのだ。
そんな人間を善人と呼べるだろうか?
人を救いたいと思う高尚な気持ちとこの利己的な行為が同じと言えるだろうか?
しかし、行為自体は同じなのだ。
君は人から非難されている。そして自分でもそれを認めている。
しかし、私は分からない。君が本当に非難されるべき、この世からいなくなった方がいい人間なのか。
それは視点の問題なんじゃないのか?
君を非難する人間達は正義の為に君を非難するのだと言う。
しかし、彼らは一方からの情報でしか君を知らない。ー-だから、君を悪人だと言う。
では、悪人の君を非難する彼らは正義なのか?善人なのか?
私はそうは思えない。
本当にそれが彼らの言う正義であれば、一方向からの情報で信じ込む事はしないだろう。
それが本当に事実なのか確証を得ない限り君を攻撃できるはずがない。
また、彼ら正義の使者に「では、同じような被害に遭っている存在がいます。人達、団体、動物や国家、彼らの為にこの活動を支援してください」と言って何人の人間がそれに参加する事か。世の不条理による被害者である事は変わりないのに、それらに対しては突然盲目になる。
要は、彼らの多くが正義の名目で人を傷つける事を正当化しているに過ぎない。
基本的に人を害する行為が禁止されている社会でその抜け道を模索しているに過ぎない。
憂さ晴らしに過ぎない。
分かりやすく、傷つけても罪悪感の湧かないボール当ての的を見つけて嬉々と手を叩く人間達、彼らの言動に何の真実があるのだろうか?何の価値があるのだろうか?
しかし、その為に君は君を案じ、救いの手を差し伸べようとしている隣の友人の姿が見えなくなっている。
君自身が顔も知らない不特定多数の人間の意見に重きを置いているんだ」
この言葉で彼が偶然にその席に座ったわけじゃないと分かった。
彼は僕たちの話を聞いていたのだ。
でも、僕の隣で幻術にかかったように呆然としているユウキにはそれに気づく余裕がなかったようだった。
老人は続ける。
「正義とは何か?まやかしだそんなものは。
正しさ、良い、悪い、全部視点の問題だ。
面接を受けた事があるか?
自分の短所を長所として言い換えるあの作業こそが社会に出る前に真実を教えているのだよ。
短所は視点によっては長所になり、同様に長所も短所になりうる。
正解と不正解、間違いと正しさ、刻印のないコインの表と裏だ。
それを見た人間が表と思うか裏と思うか、それによって役割が反転する。
だからこそ、一方でこの私の言っている主張だってただの一個人の考えであって正しいなぞとはとても言えない。
そんなあやふやなものなのだ人間も、正義も、世の中も。
それであって、多くの人間はこの世に確かさを見出す。
それは至極崩れやすい崖の上に立っていると不安になるからと言って、目を瞑って存在しない足場を想像しているようなものさ。
そして、君は今、同じように目を瞑って自分の将来像を確かなものだと信じ込んでいる」
「いくら御託を並べようと結局俺が屑であることは変わらないだろう」
正直、ユウキは老人のご高説の半分も理解していなかっただろう。
でも、老人が本気で自分に対して向き合おうとしてのは肌で感じ取っていたらしい。じっとすわっていた視線がゆらゆらと内心の心情を映して揺れていた。
その事は老人にも分かっていた。
「新しい地でやり直せばいいじゃないか。
だが、同じ目に遭いたくなければ、君はこれから絶対に自分の感情の為に人に危害を与えてはならない。
怒りに翻弄されて視野を狭めずに、広く物を考える。
そうすれば物事の裏側まで、そして自分にとって何がいいかを知る事が出来るだろう」
隣の客は立ち上がって、ユウキの肩をぽんと親しみを込めて叩いた。
ユウキは何も言わずに静かに立ち上がって店を後にした。
驚いたことにその頬は濡れていた。
慌てて奴の後を追おうとした。が、僕の動きを遮るように突然老人は胸を抑えて呻いた。長話が体に障ったのかもしれない。老人の背中をさすってやると、その顔の青みがすぅと消えて赤みが戻っていった。まるで死人が生き返ったような急速な変貌に、僕は尋常じゃないものを見たような心地になって全身が強張った。
そんな僕の内情を知ってか知らずか、老人は僕を安心させるように穏やかな笑みを浮かべた。
「ああ、すまんね。
もう私もこの通りいい歳なんだよ。それにここには病魔が巣食っておる」
そう言って自分の胸を指差す彼に僕はなんと返せばいいかと口籠った。もともと機転が効く方じゃない。
僕の戸惑った表情に今度は彼は軽い笑い声さえあげた。
「いや、なにそんな顔をするもんじゃないさ
むしろ私にとってはありがたいぐらいだ。
もう親しい者たちもあちらへ行った。私もそろそろ奴らに会いたいんだよ。
まあ、突然の発作をありがたがる事はできぬが。
おかげで趣味だった車の運転もできなくなってしまった」
「今日は調子のいい方だ」そう呟いて、彼は僕に椅子に戻るように促した。
そのために僕は席を立つタイミングを逃してしまって若干の気まずさを感じながらも酒をちびり呑む。訪れた静寂に息が詰まり思わず口を開いた。
「ありがとうございます」
「何がだい?」
「あなたのおかげであいつもちょっと前向きになったかもしれません。
僕はどうすればいいか迷ってるばかりで力になれませんでしたから」
「何を言っているんだ。
君が彼に職を紹介するんだろう?
友人として助けてやりなさい」
彼の言葉に僕は何も言わずに頷いた。
それから彼は最初の頃と同じように唐突に僕に切り出した。
「君は結婚しているのかね?」
「え、ええ。実際に籍をいれるのは来月あたりにしようとしてますけど、そうです」
「結婚式は?教会かな?」
「あげるつもりですけど、教会じゃありませんよ。
サンタクロースしかりバレンタインしかり異国の宗教に感化されているのがあんまり好きじゃないんですよ。別にその宗教に帰依しているわけでもないし、、本来日本人は仏教徒でしょ?葬式は寺でやるのに結婚式は教会ってなんか変じゃありません?」
老人だから賛成してくれるだろうという僕の偏見を裏切って、彼は賛同も反対もすることなく僕の意見に苦笑した。
「きっとかわいい子なんだろうね」
そう言ったきり黙り込んでしまった彼に僕は何故彼が突然そんな事を口にしたのだろうと今更戸惑いながら、どうやらこれ以上話を続ける気もないらしいしそろそろ帰っていいかなと腰をあげた。
ところが、さっきまでの察しのよさが嘘のように老人はまた僕に話しかけた。
「ところで、さっきの男は何をしたんだい?」
これには呆れた。本当に奴が何をしたか知らずに話していたのかと思うと、さっきまでの高説も形無しに思えた。
「あいつが自分で言っていたじゃないですか。
老人を突き飛ばして、相手は意識不明の重体なんです。
この前までは結構テレビでも流れてましたよ」
「ほう、本当にそうなのか。
今のあの男の言う事は信用できないからね。わざと悪ぶっているのかと思ったのさ。
しかし、それにしては嵌められただの言っていたじゃないか」
僕は顔を顰めた。やっぱりこの客はずっと僕らの会話を聞いていたのだ。しかも耳に入ってきたと言うよりは注意して聞いていたのだ。
それなのに、どことなく作為的に知らない素振りをする男に僕は嫌悪感を持った。が、ここで態度を悪くさせるのはいい選択とは思えなかった。
結局、彼の満足がいくようなところまで酒に付き合ってやるのが一番平和的で衝突がないのだろう。
「あれはですね、つまり被害者を突き飛ばしたのは事実だが、理由があったんだと言うんです。
理由と言ってもー-まあ大したものじゃないんですが、どうやら万引きを見つけたらしくてそいつを捕まえようとした時に喧嘩と勘違いした老人が止めに来た。転ばせる気はなかったが自分が思ったよりも強く押しのけてしまったらしいなどと本人は言っています」
「まるで、信じていないような口ぶりだな」
「そりゃ、僕だってあいつの言う事は信じたいですよ。
でも実際には万引き犯なんていなかったんです。そのスーパーは防犯対策がきちんと取られているんですよ。出入口には防犯ゲートがありました。店の外に会計前の商品を持って出たらブザーが鳴る筈です。
だから、万引き犯なんてのはあいつが作った法螺話か勘違いなんですよ。
勿論、僕は勘違いである事を祈っていますが」
「しかし、言ってしまえばどこでも起こりうるよくある事件の一つじゃないか。
それが何故、今回に限ってニュースにまで取り上げられたんだ」
突然、こんな所で時間の無駄をしている事に腹立たしさを覚えてぐいと勢いに任せロックを流し込む。予想よりも氷が解けていない為にほぼ原液のウイスキーで喉がむせる。ああ、早く家に帰りたい。
「だから、運が悪かったんですよ。
最近よくあるじゃないですか?SNSでバイトテロとかで社会問題になった奴らと同じですよ。たまたまカメラを回していた人間がそれを電波に流したんですよ。
老人を突き飛ばして、他の人間にも掴みかかる非人道的行為にあなたの言う正義の使者たちが立ち上がったわけです」
「ああ、なるほど。
そう言う事か」
老人はいつの間にか作っていた箸置きの鶴を指の先でいじりながら、またしばらく黙り込んでいたが「全部これは私の想像なのだけどね」と切り出した。
「君はスーツを着ている。
恐らく今日は仕事終わりにここに来たんじゃないだろうか?」
「ええ、まあそうです」
何を言い出すんだと訝しむ僕に対して、老人は僕の左手をちらりと見やると続ける。
「何故、さっき君に結婚しているのかと聞いたのは、その薬指に指輪の跡がついていたからだ。
まだ君は若いように見えるが、もしかしたら離婚したばかりでまだ指輪の跡が消えていないのかもしれない。だが、君はさっきそうではないと言った。また、最近婚約したばかりなのだとも」
「、、、僕の事を随分しっかりと観察していたんですね」
「そうではないよ。
確かに君たちに話しかける前から君たちの事を注意していたのは事実だが、君の薬指に気付いたのは君がやたらとその箇所を指でいじっていたからだ。気付いていなかったってことは癖なんだろうね」
そう言われて、今も自分がその指に触れていることに気付いた。慌ててやめる。
「問題は、何故君がいつもはつけている指輪を外しているかだ。
君は自分でも仕事終わりだと言っていたし、見るからにそうだ。浮気相手と会っていたわけではないだろ?それから会社に知られたくない人間がいるとも思えない。そうだとしたら指輪をつけている時間は短いし、跡がつく事はないだろう。それにそれだけ跡がついていたんじゃ毎日顔を合わせる職場の人間には今更だ。
じゃあ、君は何故今日に限って指輪を外しているのか?それはさっきそこにいた男にそれを見られたくなかったからだと私は想像した」
「まるでシャーロックホームズですね。見事な推理です。
ところで僕が指輪を無くしただけだとは想像しなかったんですね」
僕の揶揄に老人は気を害したそぶりも見せず、まるで僕の考えている事なぞ手に取るように分かると言いたげに僕を見つめる。軽蔑も嫌悪感もなく穏やかに返されて敵意を持って応えた僕の方が狼狽えてしまう。
「そう、これは全部私の想像だ。
しかし、君は席を立つわけにはいかないだろう。
最後まで私の話を聞く筈だ。
ー-君は彼に自分が結婚している事を知られたくなかった。つまり、彼はまだ君が結婚したことを知らない。聞かれたくなかったんだろう「おめでとう。いつの間に結婚したんだ?相手は俺の知っている子か?」とかね
なぜ、私がこんな邪推を繰り返すのか、それは君が彼に対して友人のふりをしながら、その実友人らしからぬ態度が目立ったからだ。
君は一度もあの男を庇おうとしなかったね。
自分で彼が問題を起こしたスーパーが防犯システムのしっかりした店だと言っておきながら、彼の証言を証明するために防犯カメラほど役に立つものはない事に気付かないふりをしていた。
いや、彼が放免されている事実から警察が彼が老人を突き飛ばすつもりはなく別の人間を追っていたという証言を認めた事は間違いない。親に見放されて親しい友人もいないらしい彼に警察の捜査を都合よく動かせるような伝手はない。
つまり、彼がやったことは事実だが、彼の話したことも事実だった。
では何故君はそれらの事実に目を背けるのか?
そこら辺にいる誰かを非難したいだけの連中ならまだしも、友人である君にはそれらの事実から彼が言っている事は本当だと分かっているはずだ。
それなのに、あの男が精神的な自己防衛から自分の弁護ができない状況でありながら、君は彼に代わって弁護をしてやらなかった。
一度も私に向かって自分を貶める言動を繰り返す彼を止めて私に与えられるであろう彼に対する認識を正そうとはしなかった」
「あなたは僕が友達がいのない奴だと非難したいんですか?」
「そうじゃないよ、ねえ、君。
警察は彼の証言を認めておきながら、万引き犯の存在は知られていない。
それは何故か?万引きは最初からされていなかったからだ。
だが、別の犯罪は行われていた」
「何が言いたいんでしょうか」
「最初、私は何故誰も真相を語らないのかと不思議に思った。
しかし、これが君の為だけに行われたことではなく、双方に利益があったのだとしたら答えは簡単だ。
君は、いや君たちは何らかの利害の下一致した。高い確率で元から君たちは知り合いだったのだろう。取引を持ち掛けたんだ。
君には計画があった。しかしそのためにはさっきの男と顔見知りじゃない人間が一人それから同じく顔の割れていない人間でカメラを回す担当ー-少なくとも二人の人間が必要だった。
彼らの活動を見て君は言ったんだ。
『ちょうどいい適役の男がいる。直ぐに手が出る奴だから、きっと見栄えする動画が取れるはずだ』『大丈夫だよ、だって実際に万引きをするわけじゃない。ただ、しているようにそいつの前で見せかければいいんだ』
そして、君は君の想い人に完成した動画を見せて苦悩した表情でこんな事を言う。
『君は知らなかったと思うけど、あいつは昔からこうなんだ。気に入らない事があると乱暴で、見境がない。でも、最近は良くなったと思っていたから。ー-こんな事なら君に会わせるんじゃなかった』と」
グラスを傾ける。隣の客は喋るのをやめない。
「近頃ではわざと人にぶつかってその反応を見て面白がる映像で収入を得ている輩もいるらしいな。まあ、勿論これも私の憶測だよ。
さて、予想通りにあの男が動いたのとは反対に予想だにしない老人が参加してきた。
それから起きた事はたまたま回っていたと言うカメラの映像で見れば分かる事だ。
ー-無論、多少のお飾りは必要だと悪意ある編集が行われた可能性は否めないが。
それを載せたのだから当初は衝撃的な、つまり人の注意をひく映像がとれたと喜んでいたのかもしれない。
しかし、その老人が未だ人事不詳ときた」
僕は気づくとまた薬指の根元を触っていた。早く家に帰りたい。「おかえり」と言う彼女の顔を見たい。
「その時になって君は焦った。
今はあの男に向いている世間の怒りの矛先がもしかしたら自分達に向いてくるかもしれない。
もしこれまで作っていた動画の傾向から勘のいい誰かが気づいたら?
もしあの男が君と自分を嵌めた万引き犯と思われる人物とが仲良く談笑しているのを見掛けたら?
もし君の結婚相手が自分の恋人だった女性だとあの男が知ったら?
だから、君はあの男を自分達から遠ざける事にした」
再びグラスを傾けたが、そこに一滴も入っていないことはついさっき同じ動作をしていた時に分かっていた。諦めて僕はそれを置いた。
「それで?あなたも正義の使者になるつもりですか?」
老人は先程ユウキに語り掛けていたのとは対照的に静かに続けた。
「どうせ、証拠となる編集前の動画や計画のやりとりについての履歴はもう削除してしまっただろう。
それに私は君たちの罪を追及するつもりもない。
これは全部私の想像だ。
だが、今回の件で君が自分を守る為にはこれから何をすべきなのかは教えてやれる。
君が墓まで自分のしたことを持っていきたいというのなら、君はあの男の本当の友人にならなければならない。
彼が以前のように生活できるように気を配ってやり、遠い土地に居ようと出来る事をしてやるんだ。
彼が過去よりも今とその先に目を向けれるように。
決して彼が君を疑うことがないように、彼にとって信頼のおける存在でいるんだ。
甘やかせと言っているんじゃない。そうじゃないのはよく分かっているはずだ。
よき友人になれと言っている。
私は彼は友人としてそう悪い男じゃないと思うよ」
「随分と贔屓するんですね。
たとえ、あなたの想像が事実だとしても、その行為に理由があったとしても
あいつがやったことは変わらないんですよ?
それもあなたと同じぐらいの年の人にだ」
隣の客が立ち上がる様子が目の端に映ったので、僕は挑戦するように彼に言った。
しかし、彼は僕の視線を軽くいなした。それどころか、彼の表情には僕のような人間と対峙しているとは思えない親しみのある笑みさえ浮かんでいた。
「物事には視点によってさまざまな見方がある。
同じ行為をしたからと言って、全員が救いようもない人間とは限らない。
それを私はよくよく知っているんだよ」
男は鶴を僕の前に置くと立ち上がった。今更気づいたが、老人の座っていた席にはつまみも酒もなんならお冷もない。
既に勘定を払い終えた後だったのか、中国人も彼が目の前を通り過ぎても何の反応も示さなかった。
「私は異教徒なんだよ。
『汝隣人を愛せよ』これが信仰の教えでね」
見知らぬ男は僕の肩をユウキにやったようにぽんぽんと叩くと、そう言い残して店を出ていった。
翌朝、若い女性のニュースキャスターが心なしか明るい声でその報せを告げた。
例の老人が昨夜息を吹き返したらしい。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
この作品はほとんどラストのせりふの為だけに書きました。
正直に言って、推理小説かと問われれば僕とて返答を躊躇う代物です。
作品としてどこか説法めいているのは、この話が被害者が加害者を許す話だからだと思います。
年長者に暴力を振う人間を庇うなんて書いた人間の人間性に対する非難がくるかもしれないと不安を抱きました。
でも、他はともかくこれだけは老人と意見の一致があったのですが、
僕は同じような条件の事柄だからと言って、全てが同じわけじゃないと思っています。
片親で苦しむ子供がいるからと言って、同じ条件の全ての子供達が苦しんでいるかと問われればそうではないです。
何人かの外国人が日本で罪を犯したからと言って、他の外国人も犯罪に走るわけじゃない。
けれど、1つのケースを知ると、他の似たようなケースも同じものだと認識してしまう事がある。
そうじゃなくて人それぞれにケースがあって、それぞれの人生、価値観、感情がある。これは分類に整理することができないものなんです。それさえ知っていただければそう易々と僕を責める事もできまい。自己保身の塊、僕はそんな人間です。
冒頭、あまり推理小説らしからぬと述べましたが、
しかしながら、ただの語り手であった「僕」の罪が露見する所は好きです。
語り手の思考などには罪の発覚を恐れる「僕」の心情を随所に書き込んでいます。
宜しければ、彼が咎人であることを知った今の状態でもう一度彼の物語を読んでいただければ、最初とは違った風に読めるかもしれません。しれないかもしれません。
最後までお付き合いありがとうございました。