前編
「この度、オルティア皇国との友好の証として、ベスロティ第二王子と、オルティア皇国第三皇女クリスティア姫との婚約が調うこととなった」
国王の宣言で、集まっていた貴族達からどよめきのような声が漏れた。
確かベスロティ第二王子は、自国の伯爵令嬢と長らく婚約状態であった筈だ。貴族達は、それについての国王の言葉はあるのかと待ったものの、一切触れられることがないまま国王の挨拶は終わった。
戸惑いの声は収まる様子はなく、父親にエスコートされている件の伯爵令嬢にチラチラと視線が注がれる。彼女はそんな視線など最初からないもののように、美しい姿勢で凛として佇んでいた。
その止まらないどよめきを心地好く受けながら、クリスティアは勝ち誇ったような笑みを浮かべて、ごく自然に見えるように自分の腹部にそっと手を添えた。
その仕草で、大半の貴族達はその意味を悟ったのか、見る間に押し黙った。
クリスティアは、己の完全勝利を確信して、更に艶やかに微笑んだのだった。
---------------------------------------------------------------------------------
「今日からここで暮らすのですね!何て素敵!」
クリスティアが案内されたのは、王城の中にある離宮の一つだった。
高い壁に囲まれてはいるが、広い敷地に王宮と遜色ない程に豪奢な意匠を誇る白亜の宮殿だ。外見だけでなく、内部も勿論きらびやか装飾で満ち溢れていた。
「まあ、あの壁紙の紋様はオルティア風ですのね」
「ああ、君の故郷のものを取り入れさせた。少しは慣れた物があった方がいいかと思ってね」
「嬉しいですわ」
オルティア皇国第三皇女クリスティア。現皇帝の第四側妃の長女で、黄金色の豊かな髪と、皇族の証しである金色の瞳を持つ。その華やかな美貌はどこにいても目を惹き付け、皇国の黄金姫と尊ばれた。
その彼女の隣でエスコートしているのは、この国の第二王子ベスロティ。透けるようなプラチナブロンドの髪に、春先の若芽のような新緑の瞳をしていて、こちらも大抵の令嬢が溜息をついて見惚れてしまう程端正な顔立ちをしている。
この二人の美しさは周辺国でも有名ではあったが、それ以上に華やかな交友関係で名を馳せていた。特に異性関係では、どちらが先に名が挙がるか競い合っているのではないかと言われる程だった。
「少し私用を片付けて来るから。しばらく待っていてくれるかい?」
「早くいらしてね。お待ちしていますわ」
クリスティアの為に設えた離宮一豪華な私室まで案内すると、ベスロティは名残惜しそうに彼女の指先に唇を落として退室した。
「疲れたわ。飲み物を用意して。それと湯浴みもよ」
ベスロティが行ってしまうと、残った中年の侍女達に命令した。元々身分の低い母から生まれた身だ。その母との会話が多かったせいか、普段の言葉遣いは貴族よりも平民にやや近い。しかし、公的な場では完璧な皇女として振る舞うことをしくじったことはない。
この離宮にいる女性の使用人は全員中年から年配の者達で揃えるように頼んでおいた。自分の美貌はその辺の若いメイドごときには敵う筈もないのは分かりきってはいたが、ベスロティがつい悪戯心を出してゲテモノ食いをするのは許しがたいものがあったのだ。
クリスティアの母は元男爵令嬢で、身分は低いが美しさと聡明さが認められて女官として皇宮に務めていた。やがてその美貌が皇帝の目に留まって彼女を授かったそうだ。
正式な婚姻前だったことと、側妃になるには爵位が足りなかったことで大分騒動になったらしいが、伯爵家の養女になることで第四側妃として迎えられた。
それだけなら身分差を越えて結ばれた夢物語のようだが、残念ながら現実は甘くない。母は側妃という立場でありながら、いつも女官と大差ない地味なドレスを纏い、他の妃の為に尽くさねばならなかった。華やかな公務には何一つ参加させてもらえず、常に裏方で忙しなく働いていた。
クリスティナ自身は皇女として丁重に扱われていたが、母のせいで自分も裏では蔑まれて遠巻きにされているのは気付いていた。
そして、父の皇帝は物心ついた頃から一度も母の元に訪れたことはなかった。もっとも、正皇妃と皇太子の生母の第二側妃以外の側妃への対応は似たり寄ったりだったのだが、それでも婚姻前に手を出しておきながら放置されていることは面白くはなかった。
だからこそ、あちこちで浮名を流していたベスロティを完全に信頼出来ず、若い使用人は徹底的に遠ざけたのだ。
「この壁紙、色が暑苦しいわ。カタログと職人の手配をして」
「は…ですがこちらはオルティア皇国の…」
「うるさいわね!暑苦しいのよ!もっと涼し気なものがいいの!」
「…はい」
あまり良い思い出のない皇国に似た意匠のものはあまり目に入れたくはなかったが、ベスロティの前では一応我慢はした。その為、色を理由にすることにしたのだ。
「ああ、暑苦しい。もう、せめて窓を開けて。気が利かないわね」
侍女が窓を開けたが、その窓はせいぜい女性の腕が一本通るか通らないか程度しか開かなかった。
「何よ、それ。その程度じゃ風が通らないじゃない。出来たばかりなのにもう壊れているの」
「こちらは最初から僅かしか開かぬようになっております」
「はあ?」
「皇女殿下の御身に僅かでも危険が及ばぬようにと、王子殿下が自ら命じたと聞き及んでおります」
「へえ…そう。ならいいわ」
気に入らないところはあるが、自分が大切に思われているのは満更でもなかった為、クリスティアは少し機嫌を直した。それに、しばらくして慣れた頃に直させればいいと思ったので、それ以上追求することは止めた。
---------------------------------------------------------------------------------
「遅くなって申し訳ないが、少しいいかな?」
ベスロティが戻って来たのは、既に夕食も終わり部屋で寛いでいた頃だった。部屋で上等なショコラを摘みながら赤ワインを楽しんでいた。ワインを出すのに侍女達はかなり渋ったが、強引に命令して最上級のものを用意させたのだ。その予想以上の味わいにすっかり機嫌もなおり、彼が遅くなったことを責めるのも止めることにした。
「お忙しいのですね。お疲れでしょう?」
「いや、今後の為に…ね。明日からはゆっくり出来る筈だよ」
「そうでしたの」
部屋に控えていた侍女達が下がり、ベスロティの後ろにいつも仕えている侍従だけが残った。
この侍従はベスロティと同じ年くらいだろうか。彼もプラチナブロンドの髪をしていたが、ベスロティと並ぶと僅かにくすんでいた。余程近眼なのかレンズの分厚い眼鏡をかけて、上等な筈の侍従の服も着こなしがどこか野暮ったい。出来ることならあまり視界に入れたいと思わなかったが、ベスロティの従者までどうこうする権限はないのでクリスティアは仕方なく我慢していた。
「皇女殿下、やっとこうして貴女と話す時間が取れましたよ」
「まあ、そんな他人行儀な。クリスとお呼び下さいませ、ロティ様?」
ベスロティは、何故か僅かに嘲笑するような笑みを浮かべると、酷く疲れた様子でソファに身を沈めた。
「ようやくだ。ようやく許可が降りたよ。この条件を引き出すのに、随分苦労したよ」
「あの…?一体何のお話で…」
「貴女には感謝している。だから、僕はその感謝の為に選択肢を2つ用意した」
全く話が読めず、クリスティアは少し眉を顰めた。目の前の彼からはアルコールの匂いがしないが、これまでとは打って変わった荒っぽい態度がまるで酔人のそれに近かった。
「ねえ、『想像妊娠』って知ってるかな?」
急に思ってもみなかった言葉が出て来て、彼女はすぐに反応出来なかった。それを無知と取ったのか、ベスロティは言葉を続ける。
「本当は妊娠してないのに、思い込むことで妊娠しているときと同じ症状がでることだよ。月のものが止まり、悪阻、腹部の張りまで起こる。すごいよね。思い込みだけで体を変えるんだから」
「そ、そのくらい知っていましてよ。一体、それが何か…」
「貴女がそうなんですよ、皇女殿下」
彼女の目の前に座っている男は、まるで見たことのない表情で口だけが裂けたようにニィ、と笑った。
「なっ…!何を言い出すのです!?そんなことある筈がありませんわ!」
「まあ、そんなに興奮すると体に良くないよ」
「興奮させているのは貴方ですわ!」
クリスティアは肩でゼイゼイ息をすると、テーブルに拳を叩き付けた。大した力はなかったが、ワイングラスが倒れて中身が床の絨毯に染み込んだ。
「だって僕にはね、子種がないんだよ」
「え…?」
サラリと告げられた内容に、彼女の顔が固まった。その顔を見て、ベスロティは目を細めてどこか満足そうな表情を浮かべた。
---------------------------------------------------------------------------------
5年前、ベスロティは原因不明の病に倒れた。
本来無害である筈の己の体内の物質が、突然毒に変貌して自らの体を蝕むという奇病だった。その症状は全身に広まり、体のあちこちで堪え難い痛みが発生した。やがてあらゆる関節が腫れ上がり、血の巡りが悪くなった皮膚はどす黒く染まった。
病巣を取り除こうにも、体内で発生する毒であるので除去のしようもなく、毒消しを使うとその物質が体内で新たな毒に変化する。手の打ちようもないまま、ただ周囲は衰弱して行くベスロティを見守ることしか出来なかった。
だが、彼が今まさに天に召されようとする直前、侍医と専属薬師が一つの仮説を導き出した。毒消しではなく、敢えて毒を体内に入れることで今体内を蝕んでいる毒を相殺出来るのではないか、と。
痛みのあまり意識を失うことも許されなかった彼の元に、その仮説がもたらされた。毒をこのまま放置すれば数日、いや数時間で彼の命は尽きるだろう。しかし毒で相殺することが出来たならば、後遺症は残るが生き延びる可能性がある、と。
苦しい息の下、彼は迷わず毒薬を飲み干すことを選んだ。
---------------------------------------------------------------------------------
「こうして僕は九死に一生を得たんだけどね。ただ、毒の影響で子を成すことは不可能になった。これは国王夫妻とその時の侍医、専属薬師…そして僕に付いている『影』達は知ってることだ」
彼の言葉に、クリスティアが蒼白になってガタガタと震え始めた。その様子を見ても、ベスロティはさして興味を示していないようだった。
「まあ、病も完治した訳じゃなくて、今も毒で相殺してるだけなんだけど。相殺しているとは言っても毒は毒。せいぜい10年程度時間を延長してもらったのと、安らかな死を確約された、ってとこかな」
最初に毒薬を飲み干してから5年。少しずつ飲む毒は強いものになり、発作の間隔も短くなっている。そのうち効果のある毒薬は存在しなくなるだろう。その時はこれまでの反動で体内で生成される毒はもっと強力なものに変貌し、一瞬で命を刈り取る筈だ。以前のように、眠ることも許されない程の苦しみを感じる暇もなく。それは彼にとって救いでもあった。
「でもね、10年あれば次の王になる異母兄上の為にいい感じの礎を作るくらい出来るんだ」
1歳しか違わない第一王子。得意な分野の違いはあれど、お互い同じ程度の有能さを持っている。第一王子は側妃の子で母は侯爵家の出身。第二王子のベスロティは正妃の子で、母の身分は側妃より上の公爵家。これまでの慣例に則れば長子相続が通例であるが、僅かな年の差と甲乙付けがたい実力の王子であった為、水面下での争いは年々激化していた。
とっくに成人している第一王子がまだ正式に立太子していないのもその影響だった。
「婚約者がいるにもかかわらず、厚顔にも娘や縁者をけしかけて来る第二王子派を粛正するためにね、僕の放蕩のフリは結構役に立ったよ。国王も正妃も異母兄上が次の王になるべきだって言ってるのに、僕を御輿にしようとする人間がどれだけ多かったか」
不意に、テーブルの上に淹れたての紅茶が置かれた。侍従がいつの間にか零れたワインの代わりに温かい紅茶を用意していたようだ。
陶器の微かに触れる音に、クリスティアはハッとしたように我に返った。
「少し温めにしてあるよ。カフェインの少ない茶葉…なんだったかな。あまりお茶には興味が持てないんだ」
すぐに手を付けないクリスティアをしばらく眺めて、「毒の影響で味覚も無くなってね」と呟きながら彼はゆっくりと自分のカップを傾けた。
「もし…想像妊娠…だったら、どうするのよ」
「それはまあ『あわてん坊のお姫様のおかげで皆ガッカリしましたが、王子様とお姫様はいつまでも幸せに暮らしましたとさ』とでもなるんじゃないのかな?」
「…何よ、それ」
「御伽噺のセオリーじゃなかったか?未来のことなんか全然考えてない子供向けで能天気な結末の」
「私が聞きたいのはそんな御伽噺じゃなくて!」
クリスティアは激昂して立ち上がった。もはや皇女の仮面はかなぐり捨てて、口調も普段のものになっている。
興奮しすぎたのか立ちくらみを起こして倒れ込んでしまった。毛足の長い絨毯が敷き詰めてあるのでそう痛みはなかったが、少し手を伸ばせば抱きとめることも出来た筈なのに微動だにしなかったベスロティを、彼女は血の気が引いた顔で見上げた。
「だって…この子は…そんなことって…」
クリスティアはうわ言のように呟いて腹部を庇うように抱え込んだ。
「君も結構えげつない薬、使って来たよねえ。こっちも耐性あるからと思って油断してたから申し訳ないと思うけどさ」
「何の、ことよ…」
「媚薬。使ったでしょ、あの日」
ベスロティはようやく重い腰を上げ、床に座り込んでいるクリスティアを引き上げてソファに座らせ直した。
「もし僕が飲んでたら何事もなく終わったんだけど、あの日は発作が来て毒薬が効くまで引きこもってたから」
「ベスロティ様」
咎めるような口調で止めて来た侍従に、彼は少し悪戯っぽい笑みを向けると、パッと眼鏡を取り上げた。侍従は慌てて取り返そうとしたが、その顔はクリスティアにはっきり見えてしまった。
「!あなた…!」
「僕の専属の『影』だよ。よく似てるでしょ?一応従兄弟だしね」
侍従の眼鏡に隠れた瞳の色は、ベスロティにそっくりだった。それだけではなく、顔立ちそのものもよく似ていた。こうして並んでいると違う人物だと分かるが、髪型や服装を合わせて個別に見たら分からないかもしれない。
「…申し訳ありません」
「あの日、君といたのはこっち。こいつも『影』だけあって耐毒能力は相当な筈なんだけど、まさかそれを上回るのを持って来るとはね。それにいくら僕が動けなかったと言っても、君の周到さには恐れ入ったよ」
---------------------------------------------------------------------------------
ベスロティとクリスティアが出会ったのは、オルティア皇国との友好条約の為に、使者としてベスロティが皇国を訪問したことが切っ掛けだった。
賓客をもてなす役割だったクリスティアは、歓迎の夜会で彼と出会い、双方共に一目惚れをした。そして互いにワインを楽しみながら話が弾み、そのまま一晩を共にしてしまった。
二人が休憩室に連れ立って消えて行くのも、翌朝部屋を訪れた侍女達に同衾しているのも目撃されてしまい、事態が公になってしまった。どちらも未婚で、年齢も地位も釣り合う。それに何より互いに好意を持っている。そのこともあって、表向きは歓迎をもって両者の婚約が調えられたのだ。
実際のところは、クリスティアがベスロティに媚薬を盛った上で多数の目撃者を用意し、どちらの国も揉み消せそうにない状況にしておいて強引に婚約に持ち込んだのだった。
ベスロティには自国に婚約者がいたのは分かっていたが、本来取り決められた婚姻から2年以上も引き延ばしていて、互いの仲は冷えきっているという情報も予め掴んでいた。だからこそ既成事実を楯に割り込むのは容易かった。
---------------------------------------------------------------------------------
「ねえ、君はそこまでして一体何がしたいの?」
「わ…私は…」
「自国の貴族への降嫁先に旨味がなかったから、他国で贅沢三昧でもしようと思った?後継者が確定していない国の王族に嫁いで夫を国王に就け、やがて自分の生んだ子が次代の国王…国母の席でも狙った?そんなに自国を見下ろす場所が欲しかった?」
「そんなに皇帝を見返してやりたかった?」