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第52話 なんでそこまで……

 ふわりふわりと、気分が高揚する。なんだかとても楽しくて、幸せで、満たされる。

 視界はぼんやりとしているのに、その赤だけは鮮烈に輝くようで。

 遠くなったそれを手で掬っては貪って。足りなくなったらまた手を伸ばす。


 まだ、もう少し。


「――……ほたる?」


 聞き覚えのある声。赤からほんの少しだけ目線をずらせば、くすんだ青が目に入る。

 その人は柵の向こうで驚いたような顔をしていたけれど、すぐに弾かれたように柵に近寄った。


「ほたる! おい、しっかりしろ!」


 この人からはいい匂いがする。美味しそうな匂いに手を伸ばそうとしたのに、何故か上手くいかなくて。

 なんでだろう。どうしてだろう。――どうでもいいや。


 届かないのだからいらないと思って、私はまた赤に向かう。今度はちゃんと手を伸ばすことができて、よかったと思いながら手のひらで掬った。


 ガン、ガン――横で大きな音が鳴る。

 うるさいな、嫌だな。だけど赤を口に含めば、どうでもよくなる。

 それなのに一際大きな音が響いたかと思うと、何かが私の身体を掴んで赤色から引き離した。


「目を覚ませ、ほたる!」


 青い人は私の両肩を掴んで大きく揺らす。その人の青に映る私は紫色の目をしていて、折角なら赤が良いのになと思った。

 私が青い人を見ながらそう思っている間にも、身体は何度も揺さぶられる。でも少ししたら青い人が舌打ちをして、私と同じ紫色で私の目を覗き込んだ。


「ほたる、起きろ」


 すっと、地面に引き戻される感覚。ふわふわとした高揚感が逃げていく。待って欲しいのに、私の声を聞いてはくれない。


 ――ああ、落ちる。


 咄嗟に近くの物を掴めば、急にはっきりとした視界にわけが分からなくなった。


「ほたる」


 名前を呼ばれて顔を上げると、そこには顔を顰めるノエ。

 なんでノエがここに? 考えようと周りに視線を配って記憶を辿る。壱政さんに捕まって、クラトスと話して。私は――彼の血を飲んだ。


「あ……」


 視界に映ったのはノエの腕を掴む自分の手。

 真っ赤に血濡れた手。口に広がる、鉄の味。


「なんで……――ッ!」


 動揺する私を、突然ノエが強く抱き竦めた。

 痛いくらいの力なのに、触れた箇所からじわじわと安心感が広がっていく。落ち着きを失いかけていた頭の中がすっと静かになって、ノエに抱いていた疑念や不安がどうでもよくなるくらい、強張っていた感情が解れていく。


「何やってんだよ、もう……」


 そう呟いて私から身体を離したノエは、自分の服の袖で私の顔を拭い始めた。時々前髪を横に払って、何度も何度も拭いては丁寧に私の顔を綺麗にしていく。

 その手付きはびっくりするくらい優しかった。前に涙を拭われた時は結構乱暴だった気がするのに、今はどこか震えすら感じられて。


「ノエ……泣いてるの……?」


 私が問えば、ノエはぴたりと動きを止めた。


「まだ意識はっきりしてないの?」


 怪訝な面持ちのノエの目に涙はない。あれ、違ったのか。なんだかノエが泣いているような気がしたのに。


「どうよ、気分は」

「気分?」

「人じゃなくなった気分」


 はっきりと言われて、自分が人間を辞めたことを思い出した。

 慌てて両手を見てみると、そこには血に染まった手があるだけ。この血はどこから――記憶を頼りに視線を動かせば、壱政さんが用意していた水瓶が外まで真っ赤に染まっているのが目に入る。

 途端、残りの記憶が蘇った。

 クラトスの血を飲んで、身体が熱くなって、苦しくて。その苦しさが治まったと思ったら、物凄く喉が乾いていた。それなのにクラトス達はもうそこにいなくて、だけどそんなこともあまり気にならなくて。私は吸い込まれるように近くの――牢の中に用意されていた食事に手を付けたんだ。


 こんなに血まみれになるまで夢中で飲んだ。身体中がべたべたで気持ち悪いなとは思うのに、口の中にも血の味がまだ残っているのに、不思議と嫌悪感は微塵もない。

 真っ赤な指は元通りのまま、特に鉤爪のようにはなっていなかった。

 血が嫌じゃない。それ以外に何が変わったのか分からなくて、私は答えを求めるようにノエを見上げた。


「あんま変わらないだろ」

「……うん」

「その程度なんだよ。人間と吸血鬼の違いって」


 そう言って、ノエは困ったように笑う。


「吸血鬼になったのは自分の意思?」

「……そう」

「なんで」


 短いノエの言葉は、少し怒っている気がした。けれど黙っているのも違う気がして、どうにか伝わってほしいと自分の気持ちを言葉に乗せる。


「私、ノエが分からない。ノエがなんで必要なことだったからって理由で仲間を殺してしまったのか、どうしてはぐらかして何も教えてくれないのか、色々考え始めたらノエのことが分からなくて、不安になって……」

「……それは本当に悪いと思ってる。でも言えないこともあるって言っただろ?」

「そうだけど! 私は知りたいよ……守られるだけじゃなくて、ちゃんと知って、ノエが何か良くないことをしようとするなら、それも止めたい……」

「……もしかして、それで吸血鬼になったわけ?」


 恐る恐るといった雰囲気で聞いてくるノエに、私は責められるのかと思って視線を落とした。

 何馬鹿なことをしているんだ、今まで助けようとしてやっただろ――そういうふうに言われたっておかしくはない。自分でもちょっとおかしいんじゃないかとすら思う。でもだからと言って今更嘘で取り繕いたくなくて、私は下を向いたまま「そうだよ」と小さく答えた。


「なんでそこまで……」


 怒っているようには聞こえない声。おずおずと視線を上げれば、そこにはノエの見たことのない顔。うんと眉根を寄せて、何かを嘆くような、けれど我慢しているような、つらい表情だった。


「……私は、ちゃんとノエと向き合いたい。他の人からノエのこと聞くんじゃなくて、ノエ自身と話したい」


 私が答えれば、ノエの目がほんの少し見開かれる。顔に伸びてきた手はその手前で少し止まって、誤魔化すように頬にかかっていた髪を払った。


「ノエ……?」


 そのまま黙り込んでしまったノエは、ゆっくりと目を瞑った。けれど少しの間静かな呼吸を何度か繰り返したかと思うと、いつものへらりとした笑顔を浮かべながら目を開ける。


「ほたるって時々結構馬鹿だよな」

「……馬鹿ですが何か」

「文句じゃないよ。どのみち今の状況じゃあ、吸血鬼にならないとほたるは生きられなかっただろうから。俺が、もっと早く種子をどうにかしてやれてれば……」


 そう言ったノエの目は、ほんの少しだけ悲しそうで。もしかしてクラトスが言ったように、私の命があと一月程度しか持たなかったとノエも知っていたのだろうか。その上で、いつも大丈夫だと励ましてくれていたのだろうか。


 そう考えると、ノエの意見も聞かずに吸血鬼になってしまったことを凄く申し訳なく感じる。だって彼は理由はどうであれ、私の命の期限が分かった上で人間として生きられるようにしようとしてくれていたのに、私がそれを台無しにしてしまったようなものだから。

 私のしたことでノエを悲しませてしまったのかもしれないと思うと、胸が張り裂けそうになった。勿論吸血鬼になることで喜ばれるとは思っていなかった。でも悲しませたかったわけじゃない。

 そう思う一方で、私のことでノエが悲しんでいると思うと、どこか満足感もあって。


 私、嫌な奴だ。自分に全く価値がないと思いたくないから、少しでも誰かが――ノエが私のことで感情を揺らすと嬉しくなってしまう。

 そんな場合じゃないと分かっていても、そんなふうに思っちゃいけないと分かっていても、自分の狡さを抑えられない。


「何言われたの?」

「え?」

「下向いたから。吸血鬼になる決心をするくらいなんだから、何か相当な嫌なことでも言われたんじゃないの? つーかほたるを吸血鬼にしたのってクラトス様?」


 嫌なことを言われたというのはノエの勘違いだったけれど、自分の汚い部分をわざわざ言う勇気はなかった。そう思うと余計に嫌になったものの、忘れるように首を振って、ノエの質問の答えを用意する。


「クラトスだよ。でも別に、そんなに酷いことは言われてないから」

「どんなこと言われたの?」


 ノエの言葉に、クラトスとの会話を思い出す。

 ノエは実はスヴァインの子かもしれない。ずっとスヴァインと繋がっていて、私だけじゃなくラミア様達のことも騙していたのかもしれない。

 それから――。


「エルシーさんは……?」


 そうだ、これを聞きたかったんだ。

 エルシーさんをノエが殺したかもしれない。そんなこと信じたくなかったけれど、私の知ることだけじゃ否定しきれない。

 恐る恐るノエの反応を窺うと、答えづらそうな顔をしているのが分かった。


「あー……エルシーは……」

「死んだの……?」

「……そうね」

「本当に……ノエが、殺したの……?」


 ノエは顔を顰めると、「俺?」と首を傾げる。


「ノエが……殺したって聞いた……」

「は? 誰が言ったんだよ、そんなこと」

「クラトスが――」


 クラトスが言った――そう答えようとして、私の耳が足音を拾った。部屋の奥の光があまり届かない場所。そこから一つの足音が聞こえてくる。

 なんだろう、今までよりも遠くから聞こえる気がする。その足音はどんどん近付いてきて、やがて影からクラトスが姿を現した。


「何故お前がここにいる?」


 静かに歩いてきたクラトスは、ノエを見るなり訝しげに呟いた。


「自分で呼んだんでしょ」

「何だと?」


 不快感を顕にするクラトスと違って、ノエはいつもどおりのへらっとした表情。


「ほたるが消えたのに、ノストノクスに集まってた連中はそれに気付いてなかった。かと思えば誰かさんのお仲間が全然違う場所に集まろうとしてるんだから、こりゃもう疑ってくれって言ってるようなもんでしょう」

「……なるほど、ずっと人を嗅ぎ回ってたわけか」

「そっちだってエルシーのこと嗅ぎ回ってたんじゃないっすか? だからほたるがノストノクスに帰ってきたって気付いた。あいつは相当注意してほたるの食事を用意してたはずだけど、ずっと見てたんならいつもと違う行動には気付けるでしょ。ほたるが帰ってきたって外に漏らしたのもアンタらだ――じゃなきゃあの騒ぎの中で痕跡を残さずにほたるを連れ去れやしない」

「否定はしない。しかしまさかお前の方から彼女の傍を離れてくれるとは思わなかったがな。それだけが、どうしても懸念だったんだ」


 そう言ってクラトスは小さな笑みを零すと、視線を私に向けた。


「思ったより早かったが正気に戻ったようだな。こちらに来なさい、裏切り者の近くは嫌だろう」


 そう言ってクラトスは少し離れたところから手を伸ばしてきたけれど、私が答える前にノエが自分の身体を間に滑り込ませる。


「ほたるに何吹き込んだんすか? この子は吸血鬼になるのを嫌がってたどころか死ぬことさえ受け入れてたのに、何を言えばその気持ちを変えられるんだ」


 私と話していた時よりも幾分か低い声は、ノエが怒っている時のもの。

 そんなノエの怒りを向けられているのに、クラトスは嘲笑うように口端を上げていた。


「まるで死んだ方が都合が良かったとでも言いたげだな?」

「んなわけねーでしょ。耳腐ってんじゃないっすか」

「腐っているのはお前の性根だろう。味方のふりをして神納木ほたるを欺いて――私はそれをこの娘に教えてやっただけだ」

「……確かにほたるには言ってないこともあるけど、それをアンタが知るはずないんすよ。どうせお得意のでっち上げじゃないっすか?」


 空気がひりひりする。前にペイズリーさんとノエが揉めていた時のような緊張感が肌を突き刺す。でも不思議とそこまで辛くはなかった。もしかしたら吸血鬼になったことでそういうのにも耐えられるようになったのかもしれない。

 そんなことを考えている間も、クラトスとノエの間にある張り詰めた空気は変わらなかった。


「だがお前がソロモン達を殺したのは事実だろう? ……エルシーもな」

「確証もないのに適当なこと言わないでくださいよ」


 ノエが一際低い声でそう言うと、クラトスはその視線を私に移した。ずっと浮かべていたノエへの嘲笑を引っ込めて、真剣な面持ちで私を見つめる。


「聞きなさい、神納木ほたる。この男は同胞を大勢殺したくせに、君を心配するようなことを言った口でこのように平気でそれを誤魔化そうとする。まずはそいつから離れた方がいい。君もいつ手を出されるか分からない」

「そんな……」


 そんなことはない。ノエがいきなりそんなことをしてくるはずがない――そう言いたいのに、上手く言えない。それでもなんとかクラトスの言っていることを少しでも否定したくて言葉を探していたら、ノエが私の前に手を伸ばした。


「おい、ふざけんなよ。何好き勝手言ってんだ」

「事実を述べただけだ」

「……まさかエルシーに何かしたのか」

「おかしなことを言うな? 何かしたのはお前だろう。アレサの子達を狙っているんじゃないのか?」

「お前……!」


 なんだかおかしい。ノエとクラトスの会話が噛み合っていない気がする。

 もしかしてエルシーさんを殺したのはノエではないんじゃないか。ノエも誰が殺したか分からないんじゃ――ならクラトスにエルシーさんに何かしたのかと問いかけるノエは、クラトスを疑っている? でもクラトスはノエが殺したと言っていたのに。

 駄目だ、分からない。でもノエがエルシーさんを殺していない可能性がまだあるのなら――。


「ッ……ほたる?」


 無意識のうちに手を伸ばして、私はノエの腕を掴んでいた。ノエは驚いたように私を見ていたけれど、「ノエが殺したんじゃないんだよね?」と問えば、ふっと顔を綻ばせる。


「ああ、そうだよ。……助かった、頭冷えたわ」


 やっとノエの口から聞けた――エルシーさんを殺したのはノエではないって。

 ノエに笑顔を返したいのに、どういうわけか目が熱くなってくる。その後に続いた言葉の意味が分からなかったから聞き返したいのに、このまま聞くと溢れてしまいそうで。

 私は誤魔化すように首を振って、こっそりと小さな深呼吸を繰り返す。そうして熱が引いていくのを感じたところで、「頭が冷えたって、どういうこと?」と再びノエを見上げた。


「――ノエが未熟だということだ」


 ノエのものではない声が、私の問いに答えた。

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