第18話 忘れたことすら、知らない
人は受け入れ難い事実を突きつけられた時、全部夢だったらいいのにと望むだろう。だけど私はノクステルナに来てから一度もそう思ったことがない。別に私のメンタルが強いとかじゃなくて、夢であることを望むほど悪いものだと感じていなかったからだ。
そりゃあさ、いきなりいつもどおりの日常から引き離されて、非現実を突きつけられたわけだけれども。その非現実的なことがそれほど苦痛ではなかったからか、案外受け入れられていた。最初から帰るための条件が明確だったというのも影響しているかもしれない。私に種子を植えた吸血鬼を見つけること――これだけだったからだ。
まあ、来たばかりの時はそれがどんなに難しいことか全く分かってなかったっていうのもあるんだろうけどね。しかも残り時間不明のタイムリミットまであると来たもんだ。
だけど、そんなに悲観的にはならなかった。
死がそこまで迫っているという実感がないだけじゃない。ノエやエルシーさんに守られているから、なんか大丈夫なんじゃないかって気がしていたんだ。
だから、忘れたくないなと思う。
私がノクステルナを去る時、ノエは私の吸血鬼に関する記憶を消すと言っていた。それが私が日常に戻るためには最善なのだろう。吸血鬼側としても、下手に人間に知られていると困るという事情があるのかもしれない。
けれどもし許されるなら、せめて出会った人たちのことは忘れたくないんだ。リリとは違って私はある程度大人だから、たった一ヶ月やそこら分の記憶をまるごと失ってしまっても何ら問題ないのかもしれない。でも。
「忘れたら寂しいよ……」
忘れた自覚すらなければ、そう思わないのかもしれないけれど。
ベッドの上で膝を抱えながら、私は否定しきれないそれを考えて胸が締め付けられた。
食事中に聞いたリリの身の上話は、私にとっては他人事と言い切れなかった。勿論その生い立ちではなく未来の話だ。そのことを考えるとどうしても気持ちが暗くなって、私はご飯を食べ終わった後すぐにこうして一人で部屋に引きこもっている。
でもこうやって悩んだことも、考えたことも全部、未来の私は知らないのかもしれない。
現に私は自分に種子を植え付けた吸血鬼――スヴァインのことを全く知らない。けれど種子を与える場合は相手の人間の合意を取るというルールがあるらしい。スヴァインがそれを守っているかは分からないけれど、もし守っていたとしたら私は彼を知っていたということになる。知った上で、吸血鬼になることを受け入れたのだ。
自分にとってどうでもいい相手からそんな提案をされて、普通すんなり受け入れる?
だからここ最近、考えないようにしていてもふとした時に考えてしまっていた――私はスヴァインと親しかったんじゃないかって。少なくとも自分が人間であることを捨ててもいいと思えるくらいには。
それなのに私はスヴァインを全く知らない。その名を聞いても何も思わない。
忘れたことすら、知らない。
「……ノエのことも、そうなっちゃうのかな」
日常に戻った後。
街でノエとすれ違っても。その顔を見て、声を聞いても。
「やだなぁ……」
ぽすんと倒れて、枕に顔を埋める。嗅ぎ慣れない匂いと感触だけど、きっと明日には慣れているのだろう。でも、それももしかしたら忘れてしまうのかもしれない。
私はそんな未来から逃げるように、そっと意識を手放した。
§ § §
翌朝も暗い気持ちを少しだけ引きずっていた。なるべく表に出さないようにしていたけれど、一緒に食事を取っていたノエには何かを勘付かれてしまったらしい。
ノエは珍しく難しそうな顔をして、「ほたる?」と私の名前を呼んだ。
「ん、なあに?」
「……なんか変だな」
「朝の乙女に変は失言だよ」
軽口で返してみても、ノエの顔は変わらない。
「お嬢さん、この後暇?」
「……それを私に聞く?」
「確かにな」
私の予定はノエに左右される。勿論ノエに合わせるとかそういう意味ではなくて、ノエが今後のことをどう計画しているかによるということだ。事前に共有してもらえればもうちょっと違うんだろうけれど、ノエにそういうのは難しいというのは短い付き合いだけど理解しているので諦めている。
「食べ終わったらおもしろいとこ連れてってやるよ」
「面白いとこ?」
「見てからのお楽しみー」
そう言うとノエは私のお皿に残る料理を指差して、「ほら、これも食べなさい」とかなんとか言いながら急かし始めた。
「ちょっとそんな急がせないでよ!」
「ほたるが遅いからだろ。俺も手伝ってやるから」
「あ! それ取っといたのに!」
どさくさに紛れて人の好物を奪うという暴挙に抗いながらもなんとか胃に全て詰め込むと、ノエに連れられダイニングを後にした。
どこに行くんだろう。全く想像できない私はノエの後をただ追うしかできなくて。
入り組んだ城内をしばらく歩くと、看板のようなものがかかった扉の前に辿り着いた。
「ちょっとほたるはここで待ってて」
そう言うとノエは私の返事も聞かずに、その扉とは別の、横にあった扉の先に一人で入っていってしまった。
残された私には当然やることがない。なんとなく看板を見てみたけれど、書いてある文字は読めなかった。……だけど。
「……これって警告系の色じゃない?」
このお城の内装には似合わない、黄色の背景に黒で書かれた文字。ただの立入禁止とかならいいけれど、そうじゃなかったら何が書いてあるのだろう。見当もつかないというのは中々に不気味だ。
そのまま少しそこで待っていると、ノエが消えた扉が開いた。
「ちょっとノエ――……ノエだよね?」
「そうよー」
私の問いに、くぐもった声が答える。
その声はノエだとは分かるものの、見た目からはそうだとは全く思えない。何故なら扉から出てきたノエは、全身を黒い防護服のような服で覆っていたからだ。普通なら透明な板になっているはずの顔部分も黒くて、サングラスのような感じなんだけどその先の顔は完全に見えない。
「何なの、その奇抜な格好」
「防護服」
「でしょうとも」
私が聞いているのは服の種類というかその格好の理由だよ。と言おうとする前に、ノエがもう一つの扉――例の警告色カラーの看板のかかった扉をガバっと開く。
え、待って。防護服着るってことはそういう部屋なんじゃないの? 私そのままなんですけど?
と思ったけれど、扉の先はまだ廊下だった。まあ二、三メートル先にすぐにまた扉があったんだけど。
「どこ行くの? っていうか私もそれ着なくていいの?」
「ほたるは平気。まァついてきなさいって」
そう言って、ノエは二つ目の扉も開けた。
途端に目の前が真っ白にくらんで、私は思わず目を瞑って顔を背ける。でもノエが歩き出す気配がしたから、置いていかれないように慌てて目を開いた。
「まぶし……!」
「すぐ慣れるよ。見てみな」
ノエが私の背中を押す。光に慣れてきた私の目は、その先に懐かしい光景を映した。
「……畑?」
「そ。花もあるよ」
そこに広がっていたのは緑。高校の体育館の二個分は軽くありそうな広い空間に、植物が所狭しと植えられている。
しかもノクステルナに来てから一番明るい場所と言っても過言ではない。ノクステルナでは外は常に夜だし、屋内は基本的に火の明かりしかないから電気の照明ほど明るくはならない。
それなのにそこは、まるで昼間の外のように明るくて。
光の元を探すと、ドーム状になっている天井にたくさんの光源が設置されているのが分かった。形を確認したいけれど、一個一個ちゃんと見ようとすると流石に目がチカチカしてしまう。だから詳細は分からなかったものの、数え切れないほどの照明が天井に設置されているのはどうにか確認できた。
「ここなあに?」
久しぶりの太陽に似た光に、私の心が軽くなる。人は太陽の光がないと駄目っていうけれど、確かにそうかもしれない。似た光を浴びただけでなんだかうきうきしてくる。
「だから畑だって。外界の植物はノクステルナじゃそのままだとほとんど育たないから」
曰く、ノクステルナには太陽がないから外界から持ち込んだ植物はうまく育たないらしい。だからこうして擬似的に太陽光のある空間を作って、そこで色々と栽培しているのだそうだ。
「ただ光ってればいいの? っていうかこれ電気? こんな明るいのここで見たことなかったけど」
「太陽光だよ」
「いや嘘じゃん。太陽ないし、こんな屋内で太陽光とか無理でしょ」
「無理じゃないの。部屋に火じゃない照明あるでしょ? あれと一緒」
ノエが言っているのはノストノクスにもあった謎照明のことだろう。電球の代わりについているガラスのようなものが光っていて、スイッチのオンオフの融通がきかないあの照明だ。
「でもあれはもっと火っぽい明かりじゃん」
「それは火の光を吸収させたからだよ」
「……ん?」
「ラピスイグニス――日本語だと誰かが炎輝石って訳してたかな。炎輝石っていうのはノクステルナにしかない石で、光を吸収する性質がある。んで一度光を吸収すると中で反射するとかなんとかで、半永久的に吸収させたのと同じ光を発し続けるんだよ」
なんだその便利石。よく分からないけれど、あのガラスのようなものは実は石だったということなのだろう。
「照明に使われている炎輝石は、炎の光を吸収させたやつ。んでここにあるのは外界で太陽光を吸収させてあるの。だからこの光は太陽光だよ」
「……だから変な格好してるの?」
「変な格好って言うな」
ノエから直接聞いたことはないけれど、吸血鬼といえば太陽に当たれないイメージがある。
それはイメージではなく事実だったようで、ノエが防護服に身を包んでいるのは炎輝石から発せられる太陽光から身を守るためだったのだ。顔のシールドも黒いのはそういうことらしい。
「太陽に当たるとどうなるの?」
「ちょっとくらいは平気なんだけどな、当たりすぎるとやけどしてその部分が減る」
「減るって何」
「減るって言ったら減るんだよ」
わけが分からない。
「でもちょっとは平気なら、そんなの着なくてよかったんじゃない?」
「ほたるが長時間いたいかもしれないじゃん」
「……そうか」
放置すればいいのになと思ったけれど、そういう発想をしないあたりがノエらしい。でもこんな怪しい格好で傍にいられてもな。傍から見たら不審でしかない。
「まァ、気の済むまで日向ぼっこでもしなさいな。作物勝手に食べちゃだめよ」
「はあい」
多分ノエは私を元気づけようとしてくれているんだろう。確かにこうしているだけでなんだか気持ちが明るくなっていくのが分かる。
私は久々の緑を感じながら、そのまましばらくの間散歩を楽しんだ。