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悲劇の男装の麗人 自由のアマゾンヌ

作者: 花 美咲

中学生の頃、フランス革命初期に、男装の麗人が実在していた事を知った。

その男装の麗人は、フランス革命の時代の流れの渦で、悲惨な末路を辿る。

悲惨な末路に魅了された私は、フランス革命の史実の虜になる。

中学生の頃に渡仏する夢を持ち、高校3年間で、アルバイト三昧の貯金しまくりの高校生活を送り、大学生になって、初の夏休み、貯金を使い果たして渡仏する夢を叶える。


私は知らなかった・・・


フランス革命初期に、男装の麗人が実在していた事を・・・


彼女の名前は・・・


アンヌ・ジョゼフ・テロワーニュ・ド・メリクール


自由のアマゾンヌと称された彼女は・・・


フランス革命にて、悲劇の道を辿る。


自由のアマゾンヌの悲劇に、魅了されたのは中学校の頃、同性として絶対に体験したくない悲劇だが、フランス革命の魅力の虜になった要因でもある。


高校3年間は、フランスへ渡仏する夢の為、アルバイト三昧の貯金しまくりの3年間、恋や部活を謳歌するよりも渡仏する夢の方が、私には魅力的だった。


フランス文学専攻を目的とした、大学にも入学できた。そして、最初の夏休み、高校3年間のアルバイト三昧で貯めた貯金で・・・


今日、日本を出国する。


フランスへのフライト時間は、飛行機の機内で、ガイドブックよりも、復習のつもりで、自由のアマゾンヌの書物を読み漁るつもりだ。


今も・・・


空港の搭乗手続きを待っている間にも、自由のアマゾンヌの事で、頭の中が占領されている。


1789年7月14月・・・


フランスの首都パリで、民衆が市内の「バスティーユ牢獄」を襲撃・・・


このバスティーユ牢獄襲撃事件が、フランス革命の始まりだと言われている。


襲撃に参加した人々は・・・


「バスティーユの征服者」と呼ばれる。


8歳から70歳までと、年齢はバラバラで、なかには、外国人も含まれていた。

そのなかに、ひときわ目立つ乗馬服に、大きな羽根飾りのついた幅広帽子といった、男装の麗人が参加をしていた。


彼女の名前は・・・


テロワーニュ・ド・メリクール


テロワーニュは、整ってはいませんでしたが、愛嬌のある顔立ちで、いたずらっぽい表情をしている。

まさに。傾国の美女という風情がある。

また、背は高くないが、スタイルが抜群で、異色の女性革命家、革命を代表するセックスシンボルとなっていった。

テロワーニュは、1762年8月13日に、ルクセンブルクの農家の娘として生まれた。

ちなみに、王妃・マリー・アントワネットより7歳若い・・・

貧しい農家の娘だが、類いまれな容姿・完璧な肉体に恵まれていた。

テロワーニュは、その美貌を開花させると、イギリス・ロンドンに行き、「カンピナド伯爵夫人」と言う源氏名で社交界に入る。そこで、優雅な身のこなしと享楽を覚え、やがて、上流階級の人々を相手にした、いかがわしい仕事に就いて、ロンドンで1番の高級娼婦になる。

客の中には、当時のイギリス王太子、後の国王・ジョージ4世がいたと言う伝説もある。


高級娼婦の仕事のおかげで、有力な知人たちを何人も抱え、そして、かなりの貯金をしていた。

テロワーニュは、激情の相手を次々と渡り歩いて、ヨーロッパ各地を転々としていたのだが・・・


1789年に開かれていた三部会召集に、革命到来を予感し、内なる情熱の炎を静めてくれる何かを期待して、家財を処分し、パリに行った。


農家の娘の、テロワーニュには、身分違いの恋に破れた苦い思い出がある。


その苦い思い出は・・・


「自由 平等 博愛」を掲げるフランス革命に・・・


共感を覚えるキッカケとなったかもしれない。


学校教育を受けたことのない、テロワーニュだが、国民議会の傍聴席に頻繁に通うようになる。


しかも、パリの街を歩くにも、傍聴席に頻繁に通うのも、ひときわ目立つ服装をしていた。

テロワーニュは、深紅、黒、白、深緑色などの何着もの乗馬服を所持しており、それに、大きな羽根飾りのついた幅広帽子といった男装姿だった為、その姿は、街中の人々、国民議会の議員たちの目にも留まった。

テロワーニュは、それをキッカケに自宅にサロンを開く、高級娼婦稼業で得た貯金で革命家たちに援助したりする。


※サロンとは、フランス語で宮廷や貴族の邸宅を舞台にした社交界をサロンと呼んだ。

主人、(または女主人である場合が多い)が、文化人、学者、作家らを招いて知的な会話を楽しむ場であった。


テロワーニュのサロンには、ダントン、デムーラン、ミラボー、シエイエスと言った、歴史に名前を残す革命家たちも出入りし、影響力のあるサロンに成長していく。

1789年7月14日の「バスティーユ牢獄襲撃事件」が起きて間もなく、本当の意味で革命が動き出した時、やはり、そこにもテロワーニュの姿があった。

9月になると、パン不足のパリでは、毎日のように、暴動が起こる。

パン屋は、金持ちの客を優遇、貧乏の客には、パンを売らないと思われていて、絞殺されたりした。

農民は城館に攻め入るほど、暴力があちこちで発生したり、血なまぐさい事件が勃発しまくる。

そしてフランスは、前年に異常なひょうに見舞われる。

麦の収穫が減少、麦に滅多にお目にかかれなくなる有り様になる。


フランスが、飢饉に襲われているタイミングに、国王・ルイ16世と王妃・マリーアントワネットは、ある不手際を犯す、


それは、10月1日のこと・・・


ベルサイユで、世情に心細くなった、国王・16世は、新たに1000人の軍隊を召集、国王・ルイ16世は、伝統に従い、新たな士官たちに歓迎の意を込めて、シャンパンを抜いて、豪華な食事を振る舞いました。

しかし、この大宴会には、密偵が潜んでいた。

大宴会の様子は、あっと言う間にパリ中に拡散された。

その大宴会のお話しは、飢饉に苦しむ貧乏人には、特に悪印象を与え、宮廷に対する反感を強める原因となった。

これは、国王・ルイ16世と王妃・マリーアントワネットの宿敵・オルレアン公にとって、絶好のチャンスとなる。

オルレアン公は、4日間かけて、お金をばらまき、不平分子をかき集めて、自然発生的な暴動を綿密に準備をした。

その、作られた自然発生的な暴動は、飢えた子供を抱えた女性たちが、国王・ルイ16世に、パンを要求しに行く暴動だった。

しかし、オルレアン公がお金でこうした民衆を扇動していた一方、男装の麗人 テロワーニュも、別の所で、主婦と娼婦からなる女性を組織して、ベルサイユへの行進を企画して、バスティーユ襲撃で、司令官を捕虜にして有名になった、マイヤール軍曹に指揮を頼んだ。

こうして、熱狂した集団は、ベルサイユに行進を始める。

テロワーニュは、女性代表の1人として、議会に押しかけると、小麦とパンを約束させ・・・


「国王・ルイ16世と王妃・マリーアントワネットをパリに連れて行きましょう。」


と、主張して、小麦粉を運搬する荷車と一緒に、戸惑う国王・ルイ16世一家をベルサイユから、パリのテュイルリー宮殿へと強奪する。


一説には、テロワーニュは、10月5日のベルサイユ行進では活躍を見せていない、テロワーニュの自由のイメージと結びつけられただけの説もある。


1790年になると、自身の政治結社「法の友」を、結成する。そして、その美貌と美声、失神するまで続けるヒステリックな演説で有名になる。

急進共和派の革命クラブである「コルドリエクラブ」にも乗り込み、憲法の為の神殿建設・・・

バスティーユの敷地に、国民議会の議会場を建設せよ・・・と演説した。


※コルドリエクラブ

フランス革命期の大衆的政治クラブ、1790年から91年にかけて結成された人民的結社のひとつ、パリの閉鎖中のコルドリエ修道院を本部としてたので、この通称で呼ばれる。


正式名称は「人権の友の会」


その時の国民議会は、ベルサイユの横にある「球戯場」を議場としていた為、テロワーニュは、憲法の為の神殿建設を提案したのだ。

しかし、憲法の為の神殿建設の提案は、新聞で酷評される。


新聞内容は・・・


こんな計画は滑稽である、我が国は、貧困のどん底にある。宮殿、神殿建設などすべきではない。

そんなお金があったら、不幸な民衆を救うのに使うべきである。

テロワーニュは、野心家の高級娼婦に過ぎず、自身を評判にしたがっているだけだ。

テロワーニュの動議に賛成した愛国者は、テロワーニュの魅力の犠牲になった。


事実、テロワーニュの存在は、ほとんど「性の対象」としか見なされていなかった。

テロワーニュ自身も、それに気づき、そして、革命家たちへの援助で貯金も尽きかけていた為、1791年に故郷のベルギーに帰省する。

当時、ベルギーは、ハプスブルク家領であり、テロワーニュの故郷は、フランスではなかった。

しかし、そこでも、テロワーニュは、革命扇動を止めず、その為、テロワーニュの行為は、王党派や、革命勃発により国外亡命を余儀なくされた亡命貴族、果てはプロイセンやフランス王室を擁護するオーストリアなど、反革命勢力から警戒をされる。

特に、フランス王妃・マリーアントワネットの出身地、オーストリアからは警戒をされた。

後々、王妃・マリーアントワネットに対する、陰謀の参加の罪でオーストリア当局に逮捕される、1792年初旬まで、1年近く逮捕・監禁をされた。

この逮捕劇は、かえって、テロワーニュの革命家としての経歴に、箔をつける事になる。・・・

と言うのも、遥々、ウィーンまで連行された、テロワーニュは、皇帝・レオポルド2世と謁見する。

皇帝・レオポルド2世は、王妃・マリーアントワネットの兄であり、フランスで大きな影響力を持つ女性と聞いて、自らも尋問する。

実際のところ、テロワーニュは、大した情報を持っておらず釈放された。


1792年、テロワーニュはパリに帰還した、旧勢力の抑圧から脱出してきた受難者として、ジャコパン・クラブで大歓迎を受けて・・・


「自由のアマゾンヌ」


と称えられた。



※ジャコパン・クラブとは、フランス革命期の政治組織である。



この頃、テロワーニュは絶頂期で、幾多数多の集会場に招かれて、監禁の経験を語ったり、パリ市内の婦人クラブを結成する。下町の女性を集めて、女性も武器を取り部隊を編成して革命に参加をするべき・・・

と訴える。

そして、1792年、8月10日の早朝・・・

ついに、歴史的事件が起ころうとしていた。

民衆は、国王・ルイ16世一家が住む、テュイルリー宮殿に向かっていた。

テュイルリー宮殿に向かう民衆の旗印になっていたのは・・・


男装の麗人 テロワーニュ・ド・メリクール


テロワーニュは、女だてらに部隊を率いて戦闘にも参加をしていて、表彰されるほどだった。

テロワーニュの華々しい活躍の一方で、国王・ルイ16世一家は、テュイルリー宮殿からタンプル塔に住まいを移し幽閉をされる。

やがて、起こった「九月の大虐殺」で、テロワーニュは、恐るべき狂乱ぶりの所業を見せる。

しかし、テロワーニュの目立つ活躍は、多少の冷静さを保っている民衆の激しい嫌悪を買い、熱狂し過ぎた民衆の次の標的とされた。

やがて、「不品行だ」とか「女性に家事仕事などの本来の義務を放棄させようとしている」と・・・

方々から避難され、同性からの風当たりは強く、度々、ジャコパン・クラブから告発をされるようになる。

テロワーニュを、あえて分類するならば、コルドリエ派という党派であった。


※コルドリエクラブ

革命政治の監視と批判を目的に、1790年の春にパリで設立された民間のクラブ


ジャコパンクラブに敵対する、ジロンド派の面々と個人的な性的な関係があった為、ジロンド派と見なされた。


※ジロンド派

ジロンド派は、フランス革命期の立法議会と国民公会における党派である。


ジロンド派と見なされた、テロワーニュには悲劇が待ち受けていた。


1793年5月26日・・・


テロワーニュが、国会に馬で向かってる時・・・


その時、革命的な共和主義者、いわゆる、ジャコパン派の過激な女性たちに遭遇した。


テロワーニュは、その女性たちに、わけのわからないまま、馬上から引きずり降ろされて、スカートを剥ぎ取られて、鞭でお尻の肉がえぐれるほど打たれるというリンチにあった。

人々は、周囲に集まって急に取り囲む、そしてつかみかかり、周囲は嘲笑を浴びせながら、テロワーニュをリンチした。


テロワーニュの叫び声も・・・


絶望の呻きも・・・


卑猥で残酷な周囲の笑い声の中に、虚しく埋もれるだけだった。


それは、まさに、死に等しい憂き目と言える。

最後には解放されたが、テロワーニュは、ずっと、ずっと、呻き声をあげ続けた。


そして・・・


とうとう・・・


発狂してしまった・・・


男装の麗人 テロワーニュ・ド・メリクールが、フランス革命史上に登場する最後となる。


1793年から、1817年に至るまで、リンチから死ぬまでの24年間に渡り、テロワーニュは、病院や監獄を転々とし、凶暴に狂いまわり、生まれた赤ちゃんのように泣き叫んだ。

かつては、魅力に溢れていた、しかし現在いまのテロワーニュは、獣のように牢獄の椅子を叩き、そして、自分の肉体を引きちぎり、自分の排泄物を食べる。


それは・・・


心を痛める光景だった・・・


娼婦時代の梅毒も身体を蝕んでいたともいう・・・


※梅毒とは、梅毒トレポネーマによって発生する感染症である。


しかし、王党派の人々は、大革命の初期を活気づけた、美貌のテロワーニュに、神の復讐が、あらわれたと考えて喜んだ。


最期は、パリのサルペトリエール療養所で、1817年6月8日、54歳で寂しく生涯を終えた。



悲惨な末路の、悲劇の男装の麗人 テロワーニュ・ド・メリクール


私は、何故、彼女が悲惨な末路を辿ったのか?


フランスに行って、悲惨な末路を辿りたいと強く思う。


そうする事で、悲劇の男装の麗人とは、何者か?を


理解する事が、出来ると思うから・・・


だから、私は空港で搭乗手続き開始を待っていて、フランスに渡仏する事に・・・


ワクワクしているのだ。


それでは、行ってきます。



「終わり」








フランス革命と言えば、王妃・マリーアントワネットの悲劇、漫画、舞台、映画と、いろいろな媒体で、フランス革命を感じる事が出来る。

そこに、男装の麗人 テロワーニュ・ド・メリクールの存在を知った私は、男装の麗人の悲劇と王妃・マリーアントワネットの悲劇、相乗効果でフランス革命の虜になりました。

王妃・マリーアントワネットのギロチンと、男装の麗人 テロワーニュ・ド・メリクールのリンチを受けた事による精神崩壊、そして、寂しく生涯を終えた事。皆さんにも、男装の麗人の事を知って頂いて、フランス革命の魅力にハマって貰えるキッカケになってくれれば嬉しく思います。

すでに、知っていた方に対しては、ごめんなさい。男装の麗人の事を思い返してくれたら、嬉しく思います。

後、言っておきたい、他人の不幸は密の味と言う言葉がありますが、この言葉に脳が占領されているのではないかと問われれば、否定はできませんね。

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