考え過ぎる僕と、籠の中の蝉
考え過ぎるのが僕の悪いところだ。しかも大抵的を射ていない。
教室の隅に置かれた虫籠を見つけたとき、また僕の悪い癖が始まった。中には無様に腹を見せる1匹の蝉。
試しに籠をつつけば、残りカスの命を使い果たすように、小さくジジッと鳴いてみせた。まだ生きてるぞと、まるで抗議するかのようで、その事実が僕を悩ます。いっその事こと死んでいてくれたらいいのに。
喉の下でくすぶる中途半端な正義では、心に任せ無茶をするほどには熱量が足らず、そのくせちくりと刺さる胸の痛みを無視して、平気で嘘をつけるほどの器用さも持ち得ていない。中途半端な僕は、ただただ時間を浪費する。
幸か不幸か、教室には誰もいない。今逃したところで、籠の持ち主にはきっとバレないのだ。何も深く考える必要はなく、ただ可哀想だとそっと籠を開ければいい。それだけなのだ。
でも、やはり僕は悩んでしまう。それは果たして正義だろうか。黙って人の物を盗むのに等しい行動ではないか。盗っ人が世間が悪い、環境が悪いと言い訳しているだけではないだろうか。お前が悪いと言われるのを恐れているだけではないだろうか。
蝉の寿命は短い。余生という概念がない蝉にとっては、こうして朽ちて行くのが摂理ではないだろうか。終着点が土の上か籠の中かの違いであって、それを哀れむこと自体蝉の擬人化ではないだろうか。
だんだん予想がついてきた。こうして今日も僕は動かない。
ただただ心の葛藤を延々と繰り返すだけで、結局は消極的な態度を示して終いとする。結果だけを見れば、始めから無関心を装うのとなにが違うものか。
いや、本質は無関心よりもタチが悪い。たとえ僅かでも心の熱量を消費し、それ以上に他の立ち回りようもあったのではと、今度は不毛な時間を浪費する。全くもってエコとは程遠く、時にはエゴに思えて自己嫌悪に陥る。
そんなことが今まで何度あったろうか。
蝉はこのまま死にたがっているのか。
違う違う、現にさっき鳴いたではないか。無様に羽をバタつかせ、籠の端に頭をぶつけてなお、生に固執し鳴いた。蝉はまだ飛びたいのだ。たとえ籠からでたなり尽きる命でも、蝉は生きようとしている。
僕がそう信じたいだけかもしれないけれども。
考え過ぎるのがぼくの悪いところだ。しかも大抵的を射ていない。
籠に縛られる蝉を、身動きのとれない自分に重ねてしまう。
だからこそ、僕は。