バベル
「す、凄い……」
これは……、本で造られた巨大な塔だ。
見上げると、中心部分は吹き抜けで天井は見えない。
その中心から一筋の光が降り注ぎ、塔内はとても明るかった。
床はふかふかの絨毯が敷かれ、階段の手すりや、本棚には美しい装飾が施されている。
幅広い階段にも本棚が備え付けられていて、一体、どれほどの蔵書があるのか想像も付かなかった。
僕は近くの書架から、一冊の本を手に取ってみた。
『ジャワーヒル・アル・ハムサ ~万物照応~』
何だか難しそうな本だな……。
ページをめくってみる。
『……象徴物、数、七つの惑星、黄道十二宮、これらの内部に……ここで言うターヒルの属性数は215であり……天秤宮のムンカルの基本的要素は"地"であることを……』
む、難しい……。
ていうか、何だこの本は?
今まで、僕が読んできた本の中で秘匿とされている話が、さも当然の前提のように書かれている……。
僕は慌てて本を書架へ戻した。
改めて周りを見回す。
ここが、バベル……この世の叡智が集う場所、か。
*
もう、帰ろうと思って本を閉じると、ベッドの上だった。
「え……?」
目を開き、ベッドから起き上がった。
あ、帰って来たんだ……。
まだ、少し興奮している。
あれがバベル……か。
「ただいまー」
モニタールームに行くと、しゃがみ込んでフンゴ・オンゴを見つめるマーゴが、顔を上げた。
「あ、おかえり、どうだった?」
「うん、驚いた。あれだけの本、とてもじゃないけど読み切れないよ」
僕はマーゴに鍵を返し、椅子に座ると冷めた紅茶に口を付けた。
「ふぅん、そっか。あ、待ってて、今温かいの淹れ直すから」
「へへへ、ありがと」
ほんの僅かに手が震えている。
手の平を見つめながら思った。
あれだけの知識、本当に僕なんかが見ても良いのだろうか?
収められている本のどれを取ってみても、地上なら封印指定されて然るべき内容。
人や魔族の起源、歴史、僕が知っていたものとは、まるで違っていた。
魔術における位階の意味。
禁術に分類されるであろう、破滅的な威力を秘めた古代魔術。
位階に縛られることのない、始まりの言葉――聖辞。
たった数冊を読んだだけなのに、これだけの知識の足がかりを得てしまった。
このままだと、僕は僕でなくなってしまうかも知れない。
知りたいと思う気持ちはあるが、同じくらい恐ろしいとも思った。
「はい、どうぞ」
マーゴがサイドテーブルにカップを置いた。
「あ、ありがとう……」
はぁ、落ち着く香りだ。
「ねぇ、ピオ。初めてバベルに行くと、たぶん驚いて、怖くなっちゃうんじゃないかな? でも、それが普通だよ、あそこにある本は特別だからね。むしろ、怖くならないような人に、至高の存在は入館を許可しないと思う」
「マーゴ……」
「だから大丈夫。暇つぶしだと思えばいいよ」
マーゴはニッと笑って、モノリスビジョンを眺め始めた。
「……うん、そうだよね。へへへ」
*
翌日、ルーティンを終えた僕は、ダンジョンの中を散歩していた。
――タチカワダンジョン/751階層。
僕は飛空術を使って、大きな湖の畔に降り立った。
いつも食材調達はマーゴにしてもらっている。
なので、今日は日頃の感謝も兼ねて、僕が魚を釣って帰ると豪語してしまったのだ。
それに、バベルに行くには、もう少し熱を冷ましてからでも遅くないだろう。
急いだところで、何が変わるわけでもないのだし。
「よし、魚はどのへんかな~」
湖面スレスレを飛びながら見ると、中心付近に、たくさんの魚が泳いでいるのが見えた。
「お、いるいる! よーし!」
スポット的に真ん中辺りが良さそうだ。
空中で胡座をかくと、革袋から釣り竿を取り出した。
これはマーゴに借りたマジックアイテムで、自分の魔力を針と糸に変えて使える便利な物だ。
竿を握り、魔力を流し込む。すると、金色の糸が垂れた。
マーゴに訊いたところ、餌は必要ないらしい。
魚は僕の魔力に反応して寄ってくるという。
「よっ!」
湖面に、釣り糸を投げ入れる。
チャプンと音がして、小さな波紋が拡がった。
ふぅ……。
静かだなぁ。
天井を見上げる。
上にいる冒険者達は、まさか700階も下で釣りをしている人間がいるなんて、思いもしないだろうな。
思わず笑みがこぼれるが、ふと思った。
――僕はここでいつまで過ごすんだろう。
バベルにある本に、その答えはあるんだろうか?
仮にあったとしても、その本に辿り着くまで、いったい、どれだけの時間を要するのか。
きっと、途方もない時間……それだけはわかる。
「……はぁ」
短く息を吐き、下を見ると、大きな影が動いているのが見えた。
「す、凄い……」
もしかして、今の主なのかな?
あれは流石に大きすぎて、食べられないか……。
何だか僕もマーゴみたいになってきたなと一人クスッと笑う。
それからしばらくして、小さな魚が二匹釣れた。
「ちょっと物足りないけど、仕方ないかな」
僕は竿をしまい、帰ろうと飛び立った。
湖全体が見渡せるくらいの高さまで上がると、巨大な白い魚が別れを惜しむように水面を跳ねた。
*
「マーゴ! ねぇ、凄いよ! 主見ちゃった! 主!」
キッチンにいるマーゴを見つけ、急いで報告する。
「ピオ、何をそんなに慌てて……」
「主だよ、主! こーんなにおっきくてさ、それに真っ白で!」
「へぇ、それは珍しいものを見たね」
「うん、いや~マーゴにも見せたかったなぁ」
革袋から魚の入った網籠を取り出してマーゴに渡す。
「うん、ありがとう、良い魚だね。んー、じゃあ、今日はフライにしようか?」
「やったね! あ、フンゴ・オンゴに魔力水あげなくちゃ」
僕は石像の上で佇むフンゴ・オンゴを見つけ、魔力水をあげてから、ダイニングテーブルに食器の用意をした。
席に座って目を閉じ、魚のフライが揚がるジュワ~ッという音に耳を澄ます。
そうして、僕はマーゴの「できたよー」の声を待つ。
この先のことは、まだわからないけど、今はこうしているのも悪くないなと思った。