玖ノ巻──白聖の策
──翌朝。
あやめが戻っていない事に気付いたハルアキは、おおよそ何が起きたかを悟った。
「…………」
しかし、ハルアキに抵抗する手段はない。
眠りこけている伽弥乃をそのままにして、ハルアキは対決の場へと連れ出された。
朝霧の中で、拝殿の金銀細工が幻惑的に光り輝き、昨夜とは異なる美しさを見せていた。
それを囲むように、村人たちが集まっている。──依頼人たちの姿もある。
その視線の間を抜け、ハルアキは拝殿の前に向かった。
そこに、コノエが立っていた。巫女装束の白が眩しい。
「逃げなかったのは褒めてやろう」
コノエは嘲るように目を細めた。
「謝るなら今のうちじゃ。妾は心が広いゆえ、生き恥だけで許してつかわす」
しかし、ここで引き下がるハルアキではない。
「その言葉、そのままおまえに返す」
「ほぅ……」
コノエの唇がニッと歪んだ。
「では、早速始めようかの」
コノエは、毛氈が敷かれた台に立っていた。鮮やかな朱が、緋袴と溶け合っているかのようだ。
「妾はそなたの前から一瞬で姿を消して見せよう。そして、あの木……」
コノエは彼方の山肌に立つ一本杉を指し示した。
「あそこまで移動する。瞬間移動じゃ」
周囲の村人達がざわめいた。
「さすがコノエ様じゃ、またもや奇跡を起こされるとは」
「神じゃ、もはや生き神様じゃ」
手を合わせ拝む老人にチラリと目を向け、ハルアキは呆れ返った。
……このような子供騙しで信心を得ていたとは。
恐らく、コノエが立つ台には穴が空いており、蓋を毛氈で隠し、その上に立っている。そして、目隠しをした隙に蓋を外し、その穴に隠れる。そして、同じ格好の別人が一本杉のところに待機していて、合図と共に姿を現す……。
奇術でよく使う手だ。ハルアキはコノエに向き直った。
「いいだろう。見せてみろ」
コノエは取り巻きに指示をした。白衣の男たちは、コノエの周囲を五色の布で囲う。ハルアキや衆人の前から、コノエの姿は完全に消えた。
「では見せようぞ!妾の神通力を!」
布の上に、コノエの白い手が現れた。細い指が、三を示している。
「良いか、とくと見よ! ──三!」
指が曲げられる。
「二!」
村人達も共に数える。
「一!」
男たちの手から布が離れた。眩しい日差しに、鮮やかに揺れる五色の彩りが映える。布は一瞬で毛氈の上に落ちた。
ハルアキはその場に駆け寄った。──つい一瞬前まで、確かにコノエの手が見えていたその場に、だがコノエの姿どころか、そこに人が居たという痕跡すらない。
「あ、あれを見ろ!」
村人が叫んだ。その指が示す先──一本杉の太い枝に、巫女姿の女が座っている。
「…………」
ハルアキは駆け出した。──自分の考えを確認するには、本物とすり替わる前に、一本杉に居るあの者を捕えて、偽者であると証明するのが最善だ。
「待て!何をする気だ!」
村人たちが追いかけてくる。ハルアキは振り返りもせず、一目散に走った。
木の枝や草を掻き分けて、山の斜面を駆け上がる。
息を切らして一本杉の根元に辿り着いたハルアキを、枝に座り足をブラブラと揺らしながら、巫女装束の女が見下ろしていた。
「遅いぞ。待ちくたびれたわ」
「…………」
──そこに居る人物は、間違いなくコノエだった。紅玉のような瞳は、蔑む色でハルアキを見ている。 ──ならば、他の手段がある筈だ。例えば、拝殿の前からここへ抜ける地下道があり、ハルアキよりも早く、偽者と入れ替わった……。
ハルアキは、今度は斜面を駆け下りる。拝殿の前に駆け込み、コノエが消えた台の毛氈を引き外す。
「何をする!」
取り巻きの男たちが、ハルアキを羽交い締めにする。
「離せ!あいつの嘘を暴いてやる!」
「良い、離してやれ」
後からやって来たコノエが、ニヤリと男たちに指示をした。
「気の済むまで調べさせてやるが良い」
男たちはハルアキから手を離すと、砂利に膝をついた。
コノエの自信に満ちた目が、ハルアキの動悸を早めた。──万一、自分が間違っていた場合、伽弥乃に対する責任を取れるのか?
意識が遠のきそうな不安を、大きくひと息吐く事で取り除こうとする。しかし、ハルアキの動機は収まらない。震える足を踏み締め、台へと進む。
──表面の板に、切れ目など、蓋の痕跡はない。手で摩ってみるも、綺麗にならされた一枚板だ。
「…………」
なぜ、なぜだ?こんなはずはない。穴も、地下道もないとすれば、どうやって、コノエは……?
「満足したか?」
コノエの声が棘となり心臓に刺さった。
「下だ!台の下も調べたい」
コノエは一瞬返答に窮したような間を置き、
「いいだろう」
と男たちに目配せをした。
男たちが四隅を持ち上げ、そろそろと移動させる。ハルアキはその下の地面を、這うようにして観察した。──砂利が撤去され、土が見えている。
「これは、なぜ?」
「台が安定せぬから、砂利を外して土をならしたのじゃ」
「…………」
四角く空いた土の表面に、掘り返したような跡が見えた。丁寧にならされてはいるが、周囲と土の色が違う。
ハルアキは取り憑かれたように穴を掘り始めた。指先が擦れ、傷を覆った包帯が土に塗れるが、気にしてなどいられない。
確かに、土が柔らかい。近い時期に掘られ、そして埋められた事には間違いないようだ。
無我夢中で掘り進むが、指に何かが当たり、ハルアキは動きを止めた。
指先に触れるそれを、そっとつまみ上げる。
「…………」
それは種だった。指先ほどの丸い湿った粒が幾つか、土の中に並んでいた。
「梛じゃ。御神木がない故、育てようと思うて植えたのじゃ」
ハルアキは動けなかった。圧倒的な敗北感、背後から沸き起こる嘲笑、羞恥心が、ハルアキの身体を縛った。
「もう良いか。──約束は約束だ。後で迎えに行く故、あの娘を起こしておけ」
男たちに腕を取られる。全身の血が冷え切って脚が動かない。
「来い!」
引き摺られるように、ハルアキは倉へ連れ戻され、冷たい床に投げ入れられた。
──一方。
式札を両断されたあやめは、意識が屋敷に戻っていた。
「………」
縁側から外を見る。西に傾きかけた細い月は、寒々とした色に景色を染めていた。
──何とか、ハルアキに伝えなければ。
しかし座敷童の身で、ハルアキの元に向かう手段など無い。
焦る程に思考は停滞する。あやめは頭を抱えて縁側に座り込んだ。
「……コン」
不意に狐の声がして、あやめはハッと顔を上げた。
──草の生い茂る庭に、三匹の子狐が、ぐるぐると輪を描いて走っている。その姿に、あやめは見覚えがあった。
「クイナ殿か?」
すると、庭木の向こうに尖った耳の人妖の姿が現れた。
「ヨミ様に言われたんです。困った事が起こってそうだから、様子を見に行って欲しいと」
あやめはなりふり構わず庭へ飛び出した。子狐たちはあやめの足元に、柔らかい尻尾を擦り寄せてくる。
「頼みがある。私を、ハルアキの元へ連れて行ってくれ!」
「そうかと思いました」
クイナはクスッと笑い、手にした式札を見せた。
「ヨミ様は全てお見通しですね」
そして、フワリと式札を投げる。あやめは、式札に吸い取られるように姿を消した。
「コン!」
一匹の子狐が、宙を舞うあやめの式札を咥える。
「頼んだぞ!」
子狐たちは一目散に駆け出した。
「………」
静かに寝息を立てている伽弥乃の傍らで、ハルアキは膝を抱えていた。
獏も眠ったままだ。しかし、伽弥乃を起こす勇気がない。
これまで、数知れない程に惨めな思いはしてきたつもりだった。だが、今日の敗北ほど情けない気持ちになったのは初めてだ。
劣等感、自己嫌悪、挫折。全ての負の感情が一気に覆い被さってきて、呼吸をする事すら苦しい。
元はと言えば、己の慢心が招いた事態だ。それに、伽弥乃を巻き込んでしまった。
眠らされて状況を知らない伽弥乃にどう告げる?
ハルアキには、その言葉が思い付きそうになかった。
ならば、冷静に、今の状況を受け入れなければならない。悔やんだところで、時は既に遅い。ならば、せめて、納得させられる言い訳を考えよう……。
ハルアキは先程の出来事を脳内に思い返した。
──まず、コノエの元へ引き出された時。……何か、違和感があった。一体、何だったか……。
色鮮やか布。──いや、違う。朱の毛氈には穴はなかった。それが何を意味するのか……。
そして気付いた。
──最も強い違和感。それは、今の体調──。
ハッと顔を上げた時には既に手遅れだった。
頭が働かない。目眩がする。景色が歪む……。
ハルアキの身体は、為す術なく床に崩れ落ちた。
あやめと子狐達が村に到着したのは、夜が明け、太陽が高く上ってからだった。獣道を疾走したため、人間の足よりも随分と早く着いた。
村の入口の峠に出たところで、子狐達は足を止めた。
「どうした?」
あやめの式札は、子狐の口から抜け出し、その鼻先へ浮かぶ。
「コン」
子狐は恨めしそうな視線を林の中へ向けた。あやめは直ぐに気付いた。
「……結界、じゃな」
ハルアキが村に連れて行かれる前に張った、不完全な結界でも、この小さな妖狐たちは超える事が出来ないようだ。
「余計な事をしおって」
あやめは舌打ちした──い気分になった。何とかここを突破せねば、ハルアキの元へは行けない。
あやめは、式札の手に当たる部分で頭を抱えて考えた。子狐達が不思議そうに見守る中、ハッと思い付き、飛び上がった。
「そうじゃ!あの木偶の坊が役に立つやも知れぬ」
あやめは子狐の首元に飛び乗った。
「向こうの薮に走れ!」
子狐達は勢いよく走り出す。
あやめが示す方向には、こんもりとした薮がある。そこには、あいつが隠されている。
子狐の頭を飛び越え、あやめは薮に下りた。重なった葉の上から覗き込むと、昨夕と変わらず、傀王丸は座っていた。
「木偶の坊、出番じゃ。起きよ!」
あやめは薄っぺらい手で、傀王丸の不自然に白い頬を叩いた。──しかし、動き出す気配はない。
「起きよと申しておるに!」
今度は髪を引っ張ってみる。だが、やはりビクともしない。紙人形の姿が恨めしい。
「そなたらも手伝え!」
幸いにも、この薮は結界の外だ。子狐達は恐る恐る、奇妙な姿の人形に近付いた。クンクンと嗅ぎながら、子狐達は傀王丸の周囲を回っていた。
と、そのうち、一匹がピョンと厳つい頭に飛び乗った。
「────!」
突如、傀王丸の躯体が揺れた。カタカタ……と音を立てながら、手足が動く。
「コン!」
子狐たちは驚いて飛び退く。頭を低くして遠巻きに見つめる中で、傀王丸はゆっくりと起き上がった。
「そなたの主の元へ行くのじゃ!」
あやめは傀王丸の肩に掴まった。巨大な絡繰人形は、首を傾げて頷いたような素振りを見せてから、躯体を大きく左右に揺らしながら歩き出した。
その背後を見送る子狐たちに、
「クイナ殿によろしくな!礼は後日!」
と、あやめは手を振った。
傀王丸は結界を通り過ぎ、林の斜面をゆっくりと下りていく。
「……もう少し急げぬかの?」
傀王丸は肩に乗った式札に目──のような部分を向けた。そして、顔を前に戻すと、突如、滑るように走り出した。
「…………!」
想定外の素早い動きに、あやめは恐怖を感じた。飛ばされぬよう、組紐の飾りにしがみ付く。必死すぎて悲鳴すら出ない。
傀王丸は木々をすり抜け、岩を飛び越え、落ち葉を撒き散らしながら村へと飛び込んだ。
「キャー!」
「化け物だ!」
「助けてー!!」
その姿を見た村人たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
傀王丸は構わず、遮るもののない村道を、土埃を上げて疾駆する。
神社の鳥居が見えた時、ようやく行く手を遮る者が現れた。コノエの取り巻きの神職軍団だ。
「退け!怪我をするぞ!」
あやめは警告した。そして、その通りになった。
傀王丸に突き飛ばされた男たちは、後背の者を押し倒し、将棋倒しに積み重なる。
悲鳴と怒号の中を、傀王丸は駆け抜けた。
「──止まれ!」
参道の真ん中に、鋸を持った女が現れた。千代だ。
「止まれと言われても、止め方が分からぬ!」
あやめは本心から悲鳴を上げた。傀王丸は容赦なく千代に突っ込む。
「うわっ!!」
鋸でも流石に、疾駆する鋼鉄の塊を止める事は出来ない。寸でのところで避けて、千代は石畳に腰から落ちた。
あやめは心の底から身の危険を感じた。式札が破れでもすれば、元の木阿弥だ。だが傀王丸は拝殿へ向かい、突進を続ける。
「止まれ!止まらぬか!!」
あやめは決死でバサバサの髪を引っ張った。すると傀王丸は、拝殿の目前で急に向きを変えた。その行く先には、倉がある。──黒い建物が、瞬く間に近付いてくる。
「あわわわわ!!」
──無理だ。あやめは覚悟を決めた。
どかーん!
傀王丸は倉の壁に突っ込んだ。厚い土壁にヒビが入り、崩れ落ちて穴が空く。
そこへ嵌りこみ、傀王丸はようやく停止した。
「…………」
咄嗟に着物の隙間に隠れたあやめはは、そろりと首を覗かせた。──埃に塗れてはいるが、破れてはいないようだ。
倉の中は、日差しがなく薄暗い。目が慣れるまで少し時間がかかった。……そして、気付いた。
伽弥乃は、昨日の様子と変わらず寝入っていた。獏は、流石に目が覚めたのだろう、驚いた顔でキョトンと座っている。
──しかし、ハルアキの姿がどこにもない。
「遅かったか!?」
あやめは、着物の隙間から何とか抜け出し、獏の前へ飛び下りた。
「この娘に魂を返してやれ!」
砂利を踏む足音が近付いてくる。千代が神職軍団を引き連れて、様子を見に来たのだろう。
「早く!」
しかし、獏は不思議そうに、喋る紙人形を眺めて首を傾げただけだった。
「……ならば、こうしてやる!」
あやめは獏の鼻先に飛び付いた。そして、ヒラヒラとした袖の部分で、鼻を撫で回す。
「…………」
足音が扉のすぐ外までやって来た。錠前を外す金属音が聞こえる。
「早うせんか!」
獏の鼻がヒクヒクと動いた。そして……。
「クシュン!」
くしゃみと同時に、光る靄が口から飛び出した。それは、宙を漂い、寝息を立てる伽弥乃の口へと吸い込まれた。
「……んー」
錠前が外された。重い音を立てて扉が開く。射し込んだ陽の光を顔に受けて、伽弥乃は目を開いた。
「こっちに来い!」
あやめは獏を引っ張り、物陰に身を隠す。その途端、床を踏む複数の音が鳴り渡った。
「……もう朝なの?」
伽弥乃は呑気に伸びをする。しかし、男たちは厳しい声を上げた。
「これは何だ!?」
太い指が指す方を見て、伽弥乃はキョトンとした。
「傀王丸!何でここに居るの?」
そして、ハッと気付いて立ち上がった。
「ハルアキは?」
「あの者なら、コノエ様に負けた」
男たちの背後から、千代が現れた。
「自尊心をへし折られて不服だったのだろう。──その後、自ら命を絶った」