陸ノ巻──鬼神楽
「愚か者め!」
唐突に耳の中を突かれた。
「痛っ!」
耳を押さえてふらついたすぐ横を、刃が通過した。ドンと、地面に硬いものが打ち当たる音がした。
「たわけにも程がある!」
ハルアキの目の前に、紙人形が浮かんでいる。──まさか。
「な、何であやめがここに?」
「そなたの背中にずっと張り付いておったに、それにすら気付かぬとは、呆れて言葉も出ぬわ」
紙人形はひらりと舞い、ハルアキの肩に乗った。
「どうして烏天狗を止めた?己を危険に晒してまで、なぜあの娘を助ける?」
「もし、殺しでもしたら、私が伽弥乃に殺される」
はぁ……と、あやめは溜息を吐いた。
「で、これからどうするつもりじゃ」
「結界さえ破られなければ、何とかなる」
「信じられぬな」
そう言ってあやめはハルアキを蹴った。紙人形ながらも、勢いをつけた反動に押されて、ハルアキはよろめいた。次の瞬間、あやめとハルアキの間を、鋭い斬撃が通り過ぎた。
「気を抜いている暇などないぞ!」
「分かってる」
額に浮かぶ冷や汗を拭う間もなく、ハルアキは式札を投げた。
「乱天丸!」
式札は旋風に巻かれて粉々に千切れ、代わりに隻眼の天狗が現れた。
手に持つ八手の団扇を振る。すると、結界内を猛風が吹き荒れた。ヨシノは吹き飛ばされて転がる。──その拍子に、刀が手から離れた。
「今だ!」
ハルアキは飛んだ。しかし、指先が届くより先に、ヨシノが取り上げた。
「まずいぞ!」
身をかわした鼻先を刃が奔る。なびいた前髪が一束、宙に散った。
「うわっ!」
ハルアキは体勢を崩して転がった。そこに、すぐさま次撃が振り下ろされる。
それを、八手の団扇が受け止めた。しかし、一撃で両断される。
「ここまでか……」
乱天丸は煙となって消えた。
「九天玄女!」
咄嗟に投げた式札から現れた仙女が、手にした剣でヨシノを防ぐ。
「いきなり修羅場かい?嫌いじゃないよ」
九天玄女は、背後に浮く四本の剣をヨシノに向けた。
「殺すんじゃない!刀を奪うんだ!」
体勢を整えながら、ハルアキは叫んだ。
「無理難題を言うもんじゃないよ」
四本の剣は宙を滑った。切先はヨシノに集まる。しかし、九天玄女を跳ね除けたヨシノは、刀を薙いで全ての剣を弾き飛ばした。剣は、四方の地面に突き立った。
「やるじゃないか」
そう言う間に、九天玄女は跳んだ。そして、手にした剣で真っ直ぐに首元を狙う。剣を振り払ったばかりのヨシノは、体勢を整えられず、防御が間に合わない。
「───!」
ハルアキは走った。ヨシノに体当たりをして一撃を避ける。
「………」
倒れ込むヨシノの手を捕え、妖刀に手をかける。あらん限りの力でそれを奪おうとするが、ヨシノの手は張り付いたように離れない。
「何だい、呼び出しといて敵を庇うとか、意味が分からないよ。茶番は御免だね。私は帰るよ」
九天玄女は煙となり消えた。
しかし、それに構っている余裕はない。ハルアキはヨシノにのしかかり、必死で刀を握る手を押さえる。
そんな中、ヨシノが不意に脚を振り上げた。痛烈な膝蹴りが腹に入る。
「くっ……」
一瞬、目の前が暗くなった。その隙に、ヨシノはハルアキを押し退け立ち上がった。
「赤い、花……」
刃が、動けずにいるハルアキの頭上に刃を振り下ろされる。
「………」
他に為す術がなく、ハルアキは手を伸ばして頭を庇い、目を閉じた。
……しかし、その手に冷たい感触が触れる事はなかった。恐る恐る目を開く。
するとそこには、両手に当たる部分で刃を挟んで受け止めている紙人形があった。
「……あやめ……」
「は、早く、次を出すのじゃ!早く!」
紙人形は刃に押されてズルリと後退した。その背を、ハルアキは左の掌で支えた。
「残念ながら、用意した式札は使い切った。獏はいるが、腹を膨らして寝ているから使えない」
「………」
掌に感じる圧が増す。このままでは、あやめもろとも、ハルアキの手は真っ二つだ。
「そなた、己の立場を分かっているのか?なぜ、こうもこの娘を庇う?」
あやめの渾身の防御が、ブルブルと震えで伝わってくる。ハルアキは掌に力を込めた。
「──一方的な価値観で善悪を決めるのが、どうしても嫌なんだ」
──ハルアキは幼い頃から、差別と迫害を身近に感じてきた。
人々は、ハルアキ、そしてクズハを「悪」とし、蔑み痛ぶる事で己を「善」としていた。
しかし、ハルアキにはなぜ自分が、母が、「悪」とされるのか、理解できなかった。むしろ、理由もなく自分たちに悪意を向ける人々こそ、「悪」であると信じていた。
──その経験から、ハルアキは気付いていた。
善も悪も、見る立場が違うだけで、表裏一体、同じものである、と。
だから、この娘を一概に「悪」と捉えて良いとは思えなかった。
この世のものでないものならば、善悪に関わらず、消し去らねばならない。しかし、相手の主観から見た価値観を見ずして悪と決め付け、人ひとりの命を奪う事はできない──。
「……見せてくれないか?なぜ、死を求める?何が、おまえの欲望を動かしている?」
紙一重の向こうの刃が、じりじりと掌を押す。あやめが悲鳴を上げるが、ヨシノの瞳は揺れる事なく、虚空を見つめている。
「あたいを召喚するのじゃ。早く!」
「無理だ。召喚した途端に真っ二つだ」
「構わぬ!その隙に逃げるのじゃ!」
「………」
ハルアキは驚いた。いつも厳しい事を言うあやめが、真剣にハルアキを庇っている。
「式神は死なぬ。だが、そなたはそうはいかぬ!──クズハ殿を、悲しませるでない」
「………」
ハルアキの脳裏に母の姿が浮かんだ。喧嘩をする事も度々あるが、常にハルアキを心配している苦労人。
昨晩の話を思い出す。夫の死後、ハルアキに人生の全てを捧げたと言う言葉は過言ではないだろう。重荷だと反論はしたものの、万が一、ハルアキが死ぬような事があれば、クズハは生きる意味を失うだろう。それを何とも思わない程、ハルアキは親不孝ではない。
「そなた一人の命だと思うな。どんな人も、必ず誰かの支えがあって生きているものじゃ。気安く捨てるでない!」
刃が圧を増した。指に痛みが走り、赤い雫が滴る。
その時、ハルアキの中に強烈な感情が入り込んで来た。
──恐怖。生への執着。
じわじわと迫り来る、圧倒的な破壊の前の無力感のような、絶望の中の叫び。
ハルアキは疑問に思った。──死を求める者が、なぜ、死への恐怖に怯える?この者の、この刀の、真実とは何なんだ?
ハルアキは右手を刃に添えた。
「……な、何をしておる!気でも違えたか!」
あやめが叫ぶ。しかし構わず、ハルアキは刀身を握り締めた。
「聞かせてくれ。何がおまえを駆り立てるのだ?」
ヨシノの満月のような瞳が揺れた。
「赤い、花……」
──ハルアキの目の前に、赤い花が咲き乱れる光景が広がった。……彼岸花だ。細い花弁を風になびかせ、数百、数千の花々が、野を赤く染め上げている。
しかし、花々は武装をした男たちに踏み荒らされた。
野の向こうの村から炎が上がり、人々の悲鳴が逃げ惑う。
荘園間の争いに巻き込まれ、男たちを戦に出し留守を守る家々が、対立する荘園の兵に襲われたのだ。
刃が、女たちを、童子たちを、手当り次第に斬り捨て、家に火を放つ。
納屋に逃げ込んだ童女が、藁の中に身を隠した。母の、兄弟たちの絶鳴を、耳を覆って聞き流し、たった一人、恐怖に震えている。
──助けて……、どうか、神様……。
しかし、現実は無情だった。炎が納屋に移り、焼け出された童女は、表で待ち受けていた男に、無惨に斬殺された。
──最後に見た光景は、頭上に落ちる冷たい刃だった。童女の魂は、その刃に吸われ、怨念となる。
その刀は、数々の戦場で多くの血を吸い、主もまた露と消え、戦利品として奪われ、そしてまた、戦場で命を奪う。
その刀に吸われた数々の魂は、童女の怨念と共に染み付き、混ざり合い、やがて悪鬼と化した。
幾人もの持ち主を操り、数多くの死を作り出す。戦場へ持ち主を導き、持つ者をも死に至らしめる。
それは妖刀と恐れられ、最後は捨てられるように、古物商に売られた。
──その店が、ある夜、盗賊に襲われた。
家族を次々と殺される中、納屋に逃げ込んだヨシノの目に、古びた刀が飛び込んだ。
私を使え──刀が、そう語り掛けている気がした。
「……気が付いたら、盗賊はみんな死んでいた」
ヨシノは、ぼんやりとした目をハルアキに向けている。
「自分のした事が怖くなって、逃げたの。だけど、京の夜は、魔物がいっぱいだった。──人間という名の、魔物が」
うら若い娘に向けられる邪な手から己を護るため、刀に導かれるままに、ヨシノは刀を振った。
しかし、その行為が更にヨシノの罪悪感を募らせ、次第に心を閉ざし、刀に操られるままになっていく……。
「誰かが、止めてくれるのを待っていた。でも、この刀は、それを求めていない……」
ヨシノは剣を振り上げた。強い痛みが奔り、ハルアキは手を離した。──流れ出る血が、手を赤く染め上げる。
「赤い、花。──この子、カグラの求めるのは、赤い花の咲き乱れる、平和だった、あの時……」
頭上に刀が落ちる。
「早く!あたいを召喚して!」
赤く染まった紙人形が指を引っ張る。その痛みで反射的に手を振った瞬間、あやめが飛び出した。
赤い袖が揺れる。小柄な躰がハルアキの前に立ちはだかった。
──その鼻先で切っ先が止まる。
「そなたは童は斬れまい。
弱い者を悪意から護るために、命を奪うそなたに、あたいを斬る事はできないはずじゃ」
「………」
「そなたの思いはしかと受け取った。だがな、因果は絶たねばならぬ。この娘を解放してやれ。そして、成仏するのじゃ」
あやめはその切っ先に語りかけた。ヨシノの頬を、涙が伝った。
──その時。
「キャッ!」
悲鳴が聞こえた。呉葉の姿が闇に溶ける。すると、結界を形作っていた呪符が崩れ、はらはらと舞った。
……ハルアキの目の前に、真っ二つに斬られた式札が落ちる。
「………」
何が起きた?
混乱するハルアキの前に、暗闇から人影が現れた。──鬼の面が施された、白い着物。幅の広い太刀を引き摺りながら、その人影──桜骸丸はハルアキを見下ろした。
「手を出すなと言っただろう?」
後からやって来たメイレンが、笠の下から厳しい目をハルアキに向けた。
「な、何故、外側から結界を破れた?」
「自分で言ったろ?商売仇だと。つまり、そういう事だ。
私たちの斬るものは、人間だけじゃない」
メイレンが刀を抜いた。
「あんたが陰陽師なら、私たちは剣客。道具が違うだけで、やる事は同じさ」
「待て、違う!斬るな!」
ハルアキは二人を遮るように手を出した。その傷を見て、メイレンは目を細めた。
「話は聞いた。斬りゃしないよ」
メイレンの刀が動いた。峰打ちの衝撃で、ヨシノ手から刀が離れる。宙を飛び、地面に突き立った妖刀を、桜骸丸が引き抜いた。
ヨシノが、膝から崩れ落ちる。
「──しかし、こちらは稼ぎが懸かってるんだ。納得できる話をしっかり聞きたいね」
メイレンはヨシノの腕を支えた。
「行くぞ」
「……え?何処に?」
「ゆっくり話を聞ける場所だよ。──それに、その傷だ。早く手当てをしないと、死ぬよ」
ハルアキはハッと立ち上がろうとして、酷い目眩に襲われる。その躰を桜骸丸が担ぎ上げた。
「そこの座敷童、こいつの家へ案内してくれ」
「………」
一同が去る様子を、物陰から見送る視線があった。
両手に暗い燈籠を持ち、あどけない顔立ちの童女は、だがそれに似つかわない表情で、チッと舌打ちした。
「使えない奴」
童女は燈籠を見た。すると、途端に灯りが点いた。──ゆらゆらと揺れ蠢くそれは、ただの火ではない。鬼火だ。
「夜行様に報告しなきゃ」
童女は片手に乗せた、六角形の燈籠を軽く持ち上げた。燈籠が手から離れ浮き上がる。
「次はこうはいかないわよ」
童女は、闇の向こうへ消える後ろ姿に鋭い視線を投げ、燈籠を従えて、夜の都へ消えて行った。