参ノ巻──玉藻前
御簾の向こうに影が現れ、ハルアキは頭を下げた。
「来やぬと聞いた故、心を落としておったが、よう参ったなぁ。嬉しゅう思うぞ」
艶のある声が御簾越しに響く。
「妾は玉藻前じゃ。そなたがハルアキかぇ?顔を上げい」
静かに身を起こす。すると、玉藻前は鈴を転がすような笑い声を上げた。
「父君によう似ておる。さ、近う寄れ」
しかし、ハルアキは動かない。その様子を愉しむように、玉藻前は再び笑った。
「帝の寵愛を受ける妾に手を出せばどうなるか、心得ておるようじゃの。気に入ったぞえ」
ハルアキの左右に燈台があり、御簾の向こうは薄暗い。そのため、ハルアキから玉藻前の様子は伺えない。逆に、玉藻前はハルアキの一挙手一投足を観察している。ねっとりとした視線を感じて、ハルアキは息苦しく思った。
「わざわざ御遣いを頂き、恐縮にございます。先程のご無礼をお詫び致します」
とにかく、無難に事を済ませて帰ろう。ハルアキは頭を下げて視線を避ける事にした。
「早速ですが、ご用向きをお聞かせください」
「百鬼夜行じゃ」
「……はい?」
「百鬼夜行を率いる妖怪の頭、夜行を討伐できぬかの」
ハルアキは玉藻前の意図が分からず顔を上げた。
「夜、出かけられぬは不便ゆえ、夜歩く魑魅魍魎どもを一掃して欲しいのじゃ」
「しかし……」
予想外の内容に、ハルアキは戸惑いを隠せなかった。
「余りに大きな仕事でございます。私めなどより、もっと他に適任の方は居られましょう」
「謙遜しておるのかの?」
愛い奴じゃと玉藻前は笑った。
「帝の命で、宮内の陰陽師らも奴らに挑んだがの……」
玉藻前は愉しそうに続けた。
「皆、死んだ」
「………」
「妾はそなたの父君が優秀だと存じておる。その血を引くそなたは、格別な力を持っておると、噂に聞いてな。
そこでじゃ。帝に内緒でそなたに始末してもらい、帝を驚かせようと思うたのじゃ。
勿論、報酬は十分に払おう。宮内の陰陽師として取り立ててやっても良い」
ハルアキの背中を嫌な汗が伝った。
これまで、様々な妖怪の類を相手にしてきたが、それとは比べ物にならない程に、相手が強大すぎる。
また、依頼人も格が違う。帝の寵姫とあっとは、失敗すれば、例え生還したとてただでは済まない。
ハルアキはヨミの忠告を思い出した。
──その依頼を、決して受けてはならない──。
ヨミは、この事を知っていたのか。
……今からでも遅くはない。断ればいいのだ。後で嘲りを受けようとも、そんなものには慣れている。
しかし、ハルアキの中にそれを受け入れられない何かがあった。
──自負。矜恃。
金のため、これまで依頼を断った事はない。そして、依頼を達成出来なかった事もなかった。
それだけ、自分の業に絶対の自信を持っており、同業者と比べて劣るとは思っていない。
あとは、母の事──。
母一人子一人、間近でその苦労を見てきた分、その恩を返せない自分を不甲斐なく思っていた。
仕事は順調とはいえ、年齢が若い事もあり、前夜のように依頼料を踏み倒されたり、依頼人があまりに貧しく請求をはばかられたりする場合も多かった。そのため、便利屋稼業が収入に結び付いているかといえば、決してそうではなかった。
一旗揚げて、母に楽をさせたい。従六位が言っていた通り、この機会を逃してはならないという気持ちが、未知の大敵に勝る程に大きいのも確かだった。……そのために、ここに来たのだ。
「──受けてくれぬかの?」
玉藻前の声がハルアキに回答を迫った。
「謹んで、お受けいたします」
畏まるハルアキに、玉藻前は笑い掛けた。
「そう言ってくれると思うておった」
そう言うと、玉藻前は侍女に御簾を上げさせた。
「そなたには期待しておる。
──依頼を受けてくれた礼に、そなたの父君の事を、少し話してやろう」
玉藻前は、玉のように白い肌を艶やかな唐衣で包み、切れ長の妖艶な視線をハルアキに向けた。──年増の女性には興味のないハルアキでも、ゾクッと魅入る程の美人だ。
「そなたの父、保名殿は、妾が入内した頃には、保名殿の天下と言って良い程に、その権勢は華やかなものであった──」
天文博士として、宮中の行事、物事の吉凶を占う保名は、その確かな実力から、帝の絶大な信頼を受けていた。
しかし、それに目を付け、邪心を持つ者たちが寄り集まってきた。己の利権の為に帝を動かそうと、地位や金をちらつかせ、占いの結果を操ろうと画策したのだ。
保名は頑としてそれを退けた。──しかし、それが仇となった。
媚びを売ってきた者たちから反感を買った保名は、名誉に関わるあらぬ噂を立てられ、その地位は失墜した──。
「……気の毒に、保名殿は家族を守る為に、不名誉を甘んじて受け入れたのじゃ」
「その、不名誉とは?」
「おや、クズハ殿より聞いておらぬのか?」
玉藻前は小首を傾げた。
「それは口が過ぎたのぅ」
「教えて頂けませんか?」
玉藻前は扇で口元を隠し、視線を流してハルアキに向けた。
「──そなたの母、クズハ殿の正体は、化け狐だというものじゃ」
「………」
「帝のお側仕えをする者の内儀が狐の妖怪とあっては、体裁が保てぬ。
公家共は、保名殿に疑いを晴らすよう進言したのじゃが、その方法というのが……」
玉藻前は忌々しげに目を細めた。
「皆の前で裸にして、尻尾がないかを確認する、というものじゃ」
「………」
「保名殿は、自分の名誉よりもクズハ殿の名誉を守った。浅ましい公家共は、それを理由に保名殿を追い詰めた。
──そして、クズハ殿の噂を耳にした帝は、保名殿にある役目を仰せつかった」
玉藻前は扇を畳み手に乗せた。
「夜行を討伐せよ、と」
「………」
「保名殿は、その身命を賭して、夜行を倒そうと試みた。しかし、正体を持たぬ妖怪を倒す事は叶わず、保名殿はそれを結界へと封じた。──その命を代償に」
「………」
「公家共が帝に進言したのじゃ。保名殿をお側に置く事は危険である、妖怪退治を口実に、保名殿を亡き者にしようと。
そして、その通りになったのじゃ」
ハルアキの手が震えた。憤りと悲しみの綯い交ぜになった感情を、抑え込んでおくのが困難だった。
「しかし、保名殿が命を懸けた結界も、月日が過ぎる毎に弱まり、いつしか、再び夜行らが跋扈するようになったのじゃ。
だがな、父君の死は無駄だったと、考える事はない。そなたの父君は、最期まで立派なお人であった」
その手に、白い手が置かれて、ハルアキはハッと顔を上げた。
……玉藻前が、妖艶な微笑を湛えてハルアキを見ていた。
「ただ、そなたは未だ子供じゃ。保名殿と同じ宿命を辿る事は無い。
この様な頼み事をしておいて申すのも何じゃが、断っても良いのじゃぞ?
職が欲しいのなら、妾の側仕えに雇っても良い。大切に、可愛がってやろうぞ」
「……いえ」
ハルアキは全ての感情を押し流すように息をひとつ吐いた。
「父の無念を果たす機会を与えて下さる事に、感謝します」
「……ほう」
「必ず、夜行を倒してご覧に入れます」
白い手を丁重に戻し、ハルアキは一歩にじり下がった。
「──まこと、父君によう似ておる」
玉藻前は甲高い笑い声を上げた。
「良い結果を、期待しておるぞよ」
──ハルアキを侍女たちに見送らせた後、玉藻前は、何も無い空間へ声を掛けた。
「聞いておったか」
すると、何処からともなく、座敷に声が響いた。
「勿論、聞いていたよ」
柔らかい若者の声だ。しかし、全く感情の込もらない、浮世離れした口振りだった。
「あの者、妾の誘いを断り、そなたを敵とする事を選んだ」
すると、声はフフッと笑った。
「キミはあの子を手に入れたいのかい?それとも、殺したいのかい?」
玉藻前は艶っぽい唇をニヤリと歪めた。
「妾の思い通りにならぬ玩具などいらぬ」
「変わらないね、キミは。──あの時から、ずっと」
声は姿なく、玉藻前に近付いてきた。
「彼のお父上も、誘惑して振られたから、無茶苦茶にしたじゃないか。まだ足りないのかい?」
「勘違いをするでない」
すぐ目前にある気配を感じながら、玉藻前はそっと手を伸ばした。
「妾は、あの女狐を壊したいたけじゃ。心を奪われたりはせぬ。……夜行、そなた以外にはな」
「分かってるよ、ボクの可愛いい狐火さん」
しかし、気配は素っ気なく玉藻前を通り過ぎていく。
「キミの尽きる事がない欲の深さ、ボクには分かるよ。帝の心を、この世の全てを手に入れても、まだ足りないんだろ?──ボクも同じさ。ボクの飢えは、決して尽きる事はないんだ」
気配は、緩やかに座敷の中を飛び回っている。
「ねぇ、あの子、食べてもいい?」
「好きにするが良い。しかし、すぐに殺す気はないのじゃろ?」
「うん、沢山遊んで、からね」
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家路を急ぎ暗い通りを往く。その脳裏で、先程聞いた話が巡り、ハルアキは混乱していた。
──父は、夜行に殺された。
いや、それは正確な言い方では無いかもしれない。しかし、その様な因縁のある相手を、子である自分が、敵に回そうとしている。──それを仕掛けた玉藻前は、ハルアキをどうしたいのか?
それに、母・クズハ。
父が亡くなった当時、ハルアキはまだ赤ん坊だった。その為、父の死に関する事を、詳しくは聞いた事がなかった。……敢えて、避けていたのかもしれない。しかし、父と同じ道を歩んで欲しくないと願えば、事情を知らせるという手段は効果的だった筈だ。何故秘密にしていた?
疑心暗鬼に囚われていたハルアキは、燈籠を持った童女とすれ違ったのを見過ごした。しばらく進んだ後でふと我に返り、ハッと振り返った。
──こんな時間に子供が一人歩き?
しかし、闇の中に目を凝らしても童女の姿はなく、ハルアキは再び歩き出そうと足を進めた。
──その時。
ヒュッ。
風を切る音が耳元を奔った。咄嗟に避けるが、狩衣の袖がバッサリと裂かれた。腕に赤い灼痛が迸る。
それは月の光に刀身を光らせて向きを変え、再びハルアキに襲いかかる。
「───!」
ハルアキは文人の家系である。そのため、武芸に関する知識も訓練も全く触れた事がないし、これまで刃を向けられる経験など無かった。先程の一閃を避けただけでも奇跡に近い。
避けた拍子に腰を抜かしたハルアキに、逃れられる筈がなかった。ハルアキは目を見開いて、迫り来る銀の軌跡を見入るしかなかった。
ドンッ!
唐突に刃の軌道が変わった。
……刃の主の手元に、狐が噛み付いている。
──こんな街中に、狐?
狐は次々と駆け寄り、手に、着物の裾に、飛び付き喰い付いた。
「───!」
今度は刃の主がよろめいて、月明かりの中にその姿を晒した。
──長い黒髪を流した、若い女だった。凛と美しい着物から白い肩を顕し、怪しく光る刀を握っている。──その目が、満月のような黄色をしているのを見て、ハルアキは感じた。
──何者かに、操られている。
「赤い花を……もっと、咲かせなきゃ……」
女は狐たちを振り解き、刀を振り上げた。
「失礼しますっ!」
ハルアキの前に何者かが立ちはだかった。──二本のモフっとした尻尾が鼻先をくすぐる。
「この勝負、お預かりしますね」
快活な女の声だった。白い袖がフワリと舞うと、辺りに白い煙が立ち込めた。……何も見えない。
身体が宙に浮いた気がした。──そこで、ハルアキの意識も白い煙の中に落ちた。