弐ノ巻──八百比丘尼
「……何をしに来たのです?」
高烏帽子に袴の女が、盲た目をハルアキに向けた。
「ちょっと、横にならせてくれないか。それに……」
返事を待たず、ハルアキは上がり込み、磨かれた床に身を投げた。
「師匠なら、私が何をしに来たか、もう分かってるだろう?」
「……愚痴なら、あやめに聞いてもらいなさい」
「嫌だよ、いつも小言ばかりで……」
ハルアキは横になって目を閉じた。
「──分からなくなったんだ、自分のしている事が、正しいのかどうか」
盲目の女──ヨミは、静かに傍らに正座をした。
「全ての悲しみを背負った妖と、悪意に満ちた人間。……私が護るべきは、どちらなんだろう?」
──結局、ハルアキは依頼人に追い払われた。
「証拠もなく金を要求するとは、とんだ詐欺師だ!」
「………」
ハルアキは、鵺の正体を明かそうとして、だが口を噤んだ。主の欲に歪んだ顔を見て、言っても無駄だと悟ったからだ。
「……あの商家では、多くの使用人が死んでる。家畜のように扱き使われ、働けなくなれば、飯も与えられずに虐待されて……。
彼らの無念の集合体が、あの鵺だ。
それなのに、妖を消す事は出来ても、それを生み出す悪人を消す事は出来ないんだ。
──何だか虚しくなってきた」
ヨミは閉ざした目でハルアキを見下ろした。
「見てはいけないものが、この世にはあります。その為に、貴方がたには瞼というものがあるのです」
ハルアキは返事をせず、ヨミに丸めた背中を向けた。
「何故、見てはならないか。──自分を守る為です。
真っ当な心の持ち主であれば、人の悪事によって、誰かが苦悶している様を見れば、辛い気持ちになるでしょう。力のある者なら、その行いを止める事ができるかもしれません。……しかし、力のない者は、止める事ができない己に、罪悪感を抱くでしょう」
反応しないが、ハルアキが聞き入っている事は、ヨミは分かっている。静かな言葉を淀みなく続けた。
「為す術のない事に、罪悪感を抱いたところで、苦しみに苦しみが重なり、心が傷付くだけです。それが幾重にも積み重なれば、心を、身を、壊してしまいます。
目を瞑る事も、己を護るための手段なのです」
「………」
「妖の言葉に、決して耳を貸してはなりません。そうする事で、貴方までもが、それを産んだ悪意に取り込まれてしまいます。
──この世ならざるものは、消えねばならない宿命なのです。どんな理由があろうとも。
だから、耳を貸してはなりません」
ハルアキの肩が震えた。
「……それが納得できれば、苦労はしないよ……」
その肩に、ヨミはそっと手を置いた。
「忘れなさい。──その者には、必ず神罰が下りますから」
ハルアキはビクッとした。ヨミの手から、彼女の思考が通じたように感じた。
「……まさか……」
ヨミは立ち上がった。
「その者に呪いをかけました。間もなく、一家もろとも滅ぶでしょう」
「………」
顔を上げたハルアキに、ヨミは微笑んだ。
「呪いの代償を、貴方が受ける必要はありません。寿命に限りのない、私が引き受けます。
それより……」
ヨミは閉じた目を外に向けた。
「貴方の屋敷に、客人がいらしているようですよ。早くお帰りなさい。
──しかし、その依頼を、決して受けてはなりません」
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ハルアキとヨミの出会いは、ハルアキの幼少期まで遡る。
父を亡くしたために、母が一家を支える事となり、昼夜を問わず働いていた。
母が仕事のために家を空けることが多く、幼いハルアキは、知人であるヨミのところへよく預けられた。
ヨミの住まいは、人里離れた御堂だった。センという巫女と、二人で暮らしている。
山中にひっそりと建つ、人の寄り付かない小さな御堂。ハルアキは、この場所が気に入っていた。
ハルアキは、その齢で人間の醜い部分を嫌という程見てきていた。
父の死により、それまで父を存在を疎ましく思っていた人間たちが、その妻を、子を、徹底的に追い詰めてきたのだ。
父という庇護を無くした無力な者たちを疎外し、蔑み、痛め付ける。
かつては妬みという感情だったものが、その死により、驕りから罰が当たったものと正当化された。
罰される者は悪であり、それを責める行為は、善──。
ハルアキと母は、身勝手な正義感の犠牲となったのだ。
ヨミの処には、冷たい目を向ける者も、汚い言葉で罵る者もいなかった。
盲目の堂守は、穏やかにハルアキに接した。
そこで、ヨミはハルアキの怪異に気付いた。
誰も居ないのに楽しそうにはしゃいだり、何も無いところを畏れたり……。
そこで、ヨミは告白した。
──自分は、「死」という概念を失った八百比丘尼であり、千里眼の持ち主である、と。
ヨミは、若い頃に大病を得て、生死を彷徨った。娘を案じた両親が、万病に効くという「人魚の肉」を、ヨミに食べさせた。
そのおかげか、視力を失ったものの、病は癒え、──不老不死となった。
両親が死に、家族が絶え、村が消えても、ヨミは生き続けた。
ヨミは国中を旅した。──死ぬ方法を探して。
それが見つからぬまま、ヨミは京を見渡すこの山に居を構えた。
数百年の時を盲目のまま生きているうちに、感覚が研ぎ澄まされ、人の心、この世ならざるものの気配、そして、遠くて起きている事象までをも、感じ取れるようになった。
全てを知ってしまう苦しみから逃れるべく、ヨミは陰陽道を学んだ。その長い人生のうちに、陰陽道の全てを会得した。
──そんなヨミは、ハルアキに陰陽道を教える事にした。己の出自を怨む事なく生きるには、それが良いと考えたのだ。
陰陽道と同時に、この世ならざるものとの付き合い方を教えながら、ヨミはよくハルアキに言い聞かせた。
「知らなくていい事を知らずに済むというのは、幸せな事なんですよ──」
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屋敷に戻ったハルアキは仰天した。
古く朽ち果てた屋敷に不釣り合いな、立派な御所車が停まっている。
「………」
呆然と立ち竦むハルアキを、崩れ落ちそうな戸口から、あやめが招いた。
「何処に行っておったのじゃ!」
車に繋がれた牛に見られながら、ハルアキはあやめの元に駆け寄る。
「師匠の処だよ。あやめが寝てたから……」
「クズハ殿がお待ちじゃ。さっさと行かぬか!」
あやめがハルアキの背中を叩く。痛っと声を上げるハルアキを、御者が不思議そうに眺めていた。──座敷童であるあやめは、常人には見えないのだ。
ハルアキは、蜘蛛の巣が垂れ下がり、ミシミシと鳴る廊下を奥へと進んだ。
元々は名家であるため、造りは立派だ。そのおかげで、手入れが行き届かない今でも、何とか屋敷の形は保ってはいる。しかし、壁の隙間からは明かりが差し込み、雨漏りで朽ちた天井にはキノコが生えている有様だ。
ハルアキは知っている。──周囲から「妖怪屋敷」と呼ばれている事を。
否定はできない。実際、座敷童が棲んでいるのだから……。
暗い廊下の突き当たりの座敷に、来客は通されたようだ。
ガタガタと軋む襖を力一杯引く。ドン!と襖が柱にぶつかり、室内の人物は一斉にハルアキに目を向けた。
「お客様ですよ、静かになさい」
クズハが厳しい目を向けた。
「失礼いたしました。──ハルアキと申します」
ハルアキは板の間に膝をつき、頭を下げた。
「おぉ、そなたが噂に聞く陰陽師か。会えて光栄でおじゃる」
上座の人物は、弛んだ躰を派手な狩衣で包んだ中年男だった。品のない白塗りの顔で茶を啜りながら、ハルアキに脂ぎった視線を投げた。
従六位の公家であり、帝のお側に仕える「玉藻前」の世話役を務めている、男はそう話した。
「──お公家様が、この様なみすぼらしい屋敷に何のご用で?」
言葉は無礼のないように気持ちを抑えてはいるものの、公家と聞いただけで吐き気に近い嫌悪が湧き出るのを、どうしようもできない。
ハルアキの態度を察して、従六位はニタニタと愛想笑いを浮かべた。
「そなたの父君の事は、麿は本当に残念に思っておじゃるよ。──保名殿の権力に嫉妬した賤民が、心無い事を申して居るのは知ってはおった」
自分は身分が高い為に、そのような話には入らなかったが、と、渋い顔を扇子で隠しながら、従六位は続けた。
──しかし、ハルアキは知っていた。彼らが、自分の地位を脅かす事がないよう、生前から派閥を作り、ハルアキの父・保名を蹴落とそうと画策していた事を。
「ご用向きは?」
ハルアキは一言ずつ強調して先を促した。嫌悪感に耐えられなくなる前に、話を終わらせたかった。従六位はホホホと苦笑した。
「今日は、玉藻前殿より託けを預かって参ったのでおじゃる」
従六位は扇子の上からハルアキを見た。
「今晩、御殿へ参られよとの事じゃ。そなたに、頼みがあると」
「お断りします」
「ほぅ……」
従六位は目を細めた。
「無下に断って良いのかの?成功した暁には、公卿様にお願いし、取り立てて頂こうかと思うておったに」
ハルアキの眉が動いた。
「このまま、職もなく、日雇い同然の生業を続けて行きたいのなら、止めはせぬがの。御家再興の契機になるかと、考えて参ったでおじゃるに」
「………」
「そなたにとっても、良い話では……」
「お帰りください」
黙って聞いていたクズハが口を開いた。
「お気遣いは無用でございます。確かに、住まいは古いですが、心は豊かに暮らしております故、気の向かない仕事を息子にさせるつもりはございません」
キッパリと言い切るクズハに、従六位は細い目を向けた。
「後悔しても知らぬぞ」
「お引き取りください」
従六位は憤慨した様子で、そそくさと帰って行った。
ハルアキは母を見て驚いた。──尻尾が出ている。白く美しい、ふわふわとした毛並みの、狐のものだ。
「………」
クズハは悟られぬようすぐに引っ込めたが、ハルアキははっきりと見ていた。今回ばかりでない。感情が昂った時、よく尻尾が出ている。
ハルアキは知っていた。──母の正体が、妖狐である事を。
そのため、見た目が非常に若い。元服前とはいえ、自分の背丈を超えた息子がいるようには到底見えない。ハルアキが幼少の頃から、全く見た目が変わっていない。
透けるような白い肌に、艶のある髪、涼しげな切れ長の目……。美人と定義される全ての要素を、全て兼ね備えている。夫を亡くしてからは、相当な苦労をしてきた筈だが、その美しさが翳る事はなかった。
しかし、本人が頑なに正体を隠そうとしているので、ハルアキは気付かぬフリをしていた。
「いけ好かないお人だね」
クズハは動揺を誤魔化そうと、極端に忌々しげな顔をしてあやめを呼び、塩を撒くように伝えた。
「自分の身分を持ち出す輩に、ロクなのはいないよ」
「……しかし、本当にいいのか?この上ない稼ぎ口が得られる好機なのに」
クズハは眉をひそめてハルアキを見た。
「あいつの元で自分の息子が働くなんて、考えただけで虫唾が走るよ」
クズハは袖を払う格好をした。──どうやら、ハルアキが来る前に、しつこく言い寄られていたようだ。
「あんたは余計な事を考えなくていい。いいかい、手堅くて安全な職を見付けるんだよ」
「………」
──しかし、ハルアキは決めていた。
夜更け。
クズハとあやめが寝静まるのを待ち、こっそり屋敷を抜け出した。
月明かりに照らされた京の都は、妖しい美しさを湛えていた。万葉の歌人を虜にした、星々の錦を五重塔の影が切り取る様は、だがハルアキの心を惹く事はなかった。
人気のない街を、早足に目的地へと向かう。
この頃、京の都には妙な噂が流れていた。その為に、日が落ちると人通りがパタリと途絶える。
──百鬼夜行。
夜闇の中を、魑魅魍魎が列を成し、街道をそぞろ歩く。
それを見た者は、そのおぞましさに正気を失い、死に至ると言われていた。
人々はそれを恐れ、日没後は家から出ない習慣になっていた。
……そんな中、ハルアキは感じた。背後に付き従う気配を。
ハルアキは百鬼夜行を一度見てみたいと思っていた。陰陽師としての自負、そして、怖いもの見たさの好奇心もあった。
それは好遇と、ハルアキは振り返った。──だがそこには何もいない。
「………」
目を細め、燈籠の明かりの向こうを見遣る。しかし、動く気配は伺えなかった。
「気のせい、か……」
ハルアキは視線を戻して歩き始めた。
──その背後で、燈籠がゆらりと揺れた。
その明かりを手にした童女が、じっとハルアキの背中を見ていた。その姿が闇に消え入る寸前、足音も立てず、童女はハルアキの後を追った。