拾参ノ巻──花の獄
──翌日。
「…………」
「…………」
夕刻、カンヤと落ち合い、花街に向かうハルアキだったが、どんな話をしていいか分からない。仕方ないので、道すがら、チラチラと様子を観察してみる。
──狩衣を粋に着こなし颯爽と歩く姿は、道行く女の目線を釘付けにする程の色男だ。とても、狸が化けているとは思えない。
しかし、と、疑問に思った。
「……なんで狸が狐に恋をするんだ?」
「ああああっっ!!」
突然、カンヤは足を止め、耳を押さえながら叫んだ。
「な、何でそれを知っている!?」
「……見りゃ分かるだろ」
カンヤは肩を落とし、トボトボと歩き出した。
「あの純粋さ、愛らしさ、ほんわかと纏う柔らかい空気感、全てが完璧なんだよ。見ているだけで心が満たされる。──分かるか?おまえに分かるか?」
「いや、答えになってな……」
「しかし!俺の愛を伝える事で、その純粋さを穢してしまうのではないかと、俺は不安で仕方ないのだ。──俺のこの苦悩が、おまえに分かるか?いや、おまえなどに分かってたまるか」
今度は熱弁を始めたカンヤに、ハルアキは白い目を向けた。カンヤは構わず続ける。
「私の憧れは、玉藻前殿であった筈なのだ。彼女の強かさ、他者を欺き、裏から操る狡猾さ、それこそが、俺の憧憬する理想だと、俺はずっと信じてきた。
しかし……、クイナ殿の無垢な眼差しは、俺の価値観を反転させたんだ。彼女の為なら、死んだっていい。この無我の境地が、おまえに分かるか?」
カンヤの熱弁は続くが、ハルアキは半分も聞いていなかった。その中に紛れた一言だけが、猛烈にハルアキの反応を引き出した。
「……玉藻前殿に、会った事があるのか?」
だが、カンヤはあっけらかんと答えた。
「いや、無い」
「…………」
「しかし、化身術を学んだ同志の間では有名だ。常に首席の、伝説に残る優等生だったと聞いている」
狸族の価値観は共感できないと、ハルアキは思った。
話が終わる頃には、日は姿を潜め、闇が辺りを支配し始めた。人通りの消えていく通りを、二人は進んだ。
間もなく、色とりどりの提灯に彩られた異空間が現れた。──遊郭だ。
一歩足を踏み入れれば、幻想的な色彩に目を奪われる。退廃的な歌舞音曲の音色が、理性を溶かす。昼間とは全く異なる、極彩色の熱情が、そこにはあった。
路肩で、当たり構わず客引きをしている遊女たちに、何度も手を引かれる。
「悪いね、俺の目当ては静音なんだ」
その度に、カンヤが遊女の手に小銭を握らせる。
……と、そのうち、肩をポンと叩かれた。振り向くと、そこにはガタイの良い大男が二人、ニヤニヤしながらハルアキたちを見下ろしていた。
「兄ちゃん、初めて見る顔だな。静音をご指名なのかい?」
ハルアキが言い返そうとするのを手で制し、カンヤは笑顔を見せた。
「俺は一流のものにしか興味がなくてね。金ならある」
カンヤはハルアキの持つ皮袋を目で示した。
「…………」
男たちは視線を合わせ、その後、満面の笑みで卑屈に両手を擦り合わせた。
「どうぞ、こちらでございます」
案内された先は、遊郭の中でも一際大きな置屋だった。格子戸を入ると、女将はじめ、芸妓や遊女が総揃いで三指をついて待っていた。
「いらっしゃいませ」
──その迫力に、ハルアキは完全に圧倒された。
背中を流れ落ちる冷や汗を感じながら、カンヤの様子をチラリと見遣る。しかし、カンヤは堂々たる風情で、ニコリと微笑んだ。
「お世話になりますよ」
──廊下を案内されならが、ハルアキはカンヤの袖を引っ張った。
「おい、調子に乗るなよ。私の金なんだ」
木の葉で化かして誤魔化そうとも考えたが、万が一それがバレれば、無事では済まない。幸い、コノエの件で得た報酬が手元にあったため、全てを持って来たのだが……。
「今宵は、俺が大店の主人、おまえが付き添いの丁稚だろ?文句を言うな」
「…………」
クッ!こいつ、他人の金だからと、思う存分遊び倒すつもりか。
ハルアキは心の中で舌打ちした。家の修繕は諦めた方が良さそうだ。
廊下の突き当たり、最も高級だろう座敷に、ハルアキ達は通された。広間の壁、天井に、隙間なく極彩色の花の文様が描き込まれている。──ここにも、艶やかな衣装に身を包んだ芸妓たちが待機していた。
「静音の準備が整うまで、こちらでお待ちください」
すぐさま、歌舞音曲が始まる。酒や肴が運び込まれ、カンヤの周りに遊女たちが群がる。
「…………」
一方、ハルアキは付き添いの小僧である。誰も見向きもしない部屋の片隅で、その光景を眺めているしかない。
踊りが一曲終わる度に、芸妓たちに金を配り、しなだれ掛かる遊女の懐に、一枚二枚と挟み込む。
見兼ねて、ハルアキはカンヤに耳打ちした。
「いい加減にしろ。クイナに言うぞ」
すると、カンヤはハルアキに細い目を向けた。
「おまえの頼みだろ。ここで金を落とさなきゃ、静音は出て来ない。これは、男の勝負なんだよ。……それとも、ここまで散財して、止めて帰るのか?」
……顔は紅潮し、すっかり出来上がっている。変化が解けやしないか、ハルアキは不安になった。
カンヤは芸妓たちに盛大に手を打ち鳴らした。
「もっと踊れ!酒を出せ!今宵は祭りだ!」
カンヤは両手の金をばら蒔いた。競うように拾いに行く女たちを見ながら、ハルアキは倒れそうになった。
「……お待たせ致しました。静音の用意が出来ました」
それからしばらくして、禿を幾人も従えた遊女がやって来た。豊かな髪を彩る鼈甲の簪、襟元の空いた艶やかな衣装、裾から覗く白い脚に踊る竜の刺青が、他の遊女とは別格の雰囲気を醸している。
カンヤにチラリと視線を送り、座敷の奥へと進むと、正面の上座に鎮座した。──それだけで、存在感が並ではない。
「静音でございます」
笑みを浮かべるでもなく、頭を下げるでもなく、媚びる事のない表情で、カンヤに視線を送る。
「…………」
だがカンヤは魅入られたように、周囲に侍る遊女たちを押し退け、静音の前へと近付いた。
「……なんと美しい」
褒められても、愛想笑いすら返さない。さもそれが当然のように、超然と受け入れる。
先程まで、女たちと馴れ馴れしくしていたカンヤも、静音には触れられないでいた。
「……二人で呑みたい。いいかな?」
そこで初めて、静音は軽く反応した。それを見て、他の遊女、芸妓、そして禿が部屋から下がる。
「…………」
戸の脇でそれを眺めていたハルアキは、ふと気付いた。──最後に部屋を出たあの禿、どこかで見たような……。
部屋の奥では、静音から酌を受けて、カンヤが盃を傾けていた。言葉すらない。気高く、そしてどこか物憂げな顔をうっとりと眺めながら、盃を口に運ぶ。
やがて、切れ長の目でカンヤを見た静音がポツリと言った。
「綺麗な目だこと」
──それを聞いて、ハルアキの全身は強ばった。否が応にも、あの土左衛門の顔が思い浮かぶ。
しかし、カンヤは気にかける様子もない。
「いや……、静音殿ほどでも……」
呂律の回らない口調でそう言いながら、糸が切れたように床に転がった。酔い潰れたのだろう。
「…………」
静音はそっと銚子を置き、ハルアキに目を向けた。
「私に用があるのは、あんだだろ?」
「…………」
ハルアキは驚いた。
「……な、なぜ分かる?」
それに静音は答えず、艶めかしい視線をスッと細めた。
「あんたも呑むかい?」
ハルアキは手を上げて断り、代わりに質問を投げた。
「吉次という人を知らないか?五条に店を構える染物問屋の……」
「知らないね」
静音は素っ気なく答えた。
「知らない事はないだろう、身上が傾くほどおまえに貢いでいた男だぞ」
「そんな男は、星の数ほど居るさ。一々覚えちゃいないね」
静音は煙管を取り出し、火鉢から火を点けた。
「…………」
ハルアキは怒りを覚えた。身上を賭けて愛した男に対して、何という言い草だ。
「おや、怒ってるのかい?野暮は嫌いだよ」
静音は白い煙をふぅと吐いた。
「ここにやって来る男は、あたしを愛しちゃいない。他人よりも上等な玩具を独り占めしたい、それだけさ」
「…………」
「知ってるかい、ここの女たちが、どうやってここにやって来て、どうやって生きてきたかを」
静音がここにやって来たのは、五歳の冬だった。貧しい農家の口減らしに、売られたのだ。
「ここに居れば、腹一杯飯が食えるから」
そうとだけ聞かされた。
初めは、母恋しさに泣いた。しかし、泣けば折檻を受ける。次第に涙は枯れ果てた。
静音は、水汲みに飯炊きに掃除に、朝から晩まで働いた。置屋には、静音と似た境遇の童女が他に何人も居り、互いに励まし合って、辛い日々を乗り越えた。
年月は過ぎ、やがて、とある遊女の禿として仕えるようになった。
禿の仕事は、遊女の身の回りの世話、座敷への付き添いが主なものだ。言わば、遊女になるための見習いである。
──この時、初めて、遊女という職がどのようなものかを知った。
静音は恐ろしくなり、ある時、置屋から逃げ出した。しかし、遊郭の門を出る前に捕まり、連れ戻され、腰が立たなくなるまで折檻された。
そんな静音を手当てしながら、付きの遊女は言った。
「遊女は、心など、持っちゃいけないんだよ。人形になるんだ。おまえたちの好きな、愛玩人形にね。
都合のいい時だけ愛され、それを、全身で受けて、忘れ去られる。ただ、相手の淋しさを紛らわすために、自分の孤独を受け入れるんだよ」
──そう言った遊女は、病に倒れた。流行病だった。静音は看病したかったが、伝染ったら商品にならなくなると、きつく止められた。遊女は、日に日にやせ細り、誰にも看取られる事なく死んだ。
その後だった。禿が、遊女に養われていた事を知ったのは。遊女が座敷を休んだり足抜けしたりすれば、禿が食えなくなる。置屋の狡猾な仕組みだった。
自分の幼い頃と静音を重ねた遊女は、静音のために、病を押して座敷に出て、身体が動かなくなるまで働いたのだ。
静音は、誰にも見られないよう、一人で泣いた。
静音は別の遊女に付く事になった。その遊女は客との子を孕んだ。
──腹が大きくなれば、稼げなくなる。
置屋に脅され、遊女は堕胎した。引き摺り出された小さな命は、そのまま、炉に焼べられた。
……地獄だった。
女を消費するための場所。その中に身を置いている限り、この運命からは逃れられない。
何度も足抜けを繰り返し、その度に捕まって、折檻された。静音は、人形になる事が出来なかった。
業を煮やした置屋は、静音の脚に、竜の刺青を施した。……これで、遊郭の外では生きていけなくなった。刺青の痛みで、長い距離は歩けない。静音は、この遊郭から一生出られないと覚悟した。
しかし、その刺青が評判を呼び、新造の頃から、静音は売れっ子になった。男たちは争うように静音の前で金を落とし、愛を語った。
遊女になってからは、その人気は鰻登りで、遊郭一の名を欲しい儘にした。多くの禿を従えて、花街を闊歩した。
──しかし、静音は浮かれる事はなかった。自分は消費される立場。いつか、誰にも見向きもされず、ひっそりと消え去る日が来る事を分かっていた。
その達観した雰囲気が、また男たちの劣情を誘った。何とか静音の心を手に入れようと、通い詰め、身上を潰した者は数知れない。
だが、彼らは決して静音の心を得る事は出来なかった。静音は気付いていなかったが、彼女は、心を失った人形になっていたのだ。
しかし、人形も夢は見る。
客の前では完璧な人形を演じ、一人の時間には、必ず空を眺めた。──自由になりたい、と。
「…………」
ハルアキは言葉を失った。
怒りを向けるべきは、遊女ではなく、その仕組みを作り上げた、男の欲望に対してであるべきだった。
意気消沈するハルアキに、静音は流し目を送った。
「坊やには、少し刺激が強すぎたかねぇ。……こんな話、客にはしないよ。初な坊やを、ちょっとからかってみただけさ」
静音は煙管を火鉢の縁にポンと当て、吸殻を捨てた。
「だから、あたしは何度夜を過ごそうが、名前も知らないし、興味も無いね。
分かったら帰んな。──それとも、折角大枚を果たいたんだ、一晩、あたしと過ごすかい?」
濃艶な視線に射られて、ハルアキは一歩下がった。そして振り子のように首を振る。
「……本当にいいのか?」
いつから起きていたのか、カンヤがむくりと起き上がった。千鳥足で何度かふらついた後、静音に支えられる。
「──という訳だ。ここからは、大人の時間だよ」
静音はカンヤを奥の襖へ導いた。カンヤは、焦点の合わない目で振り返り、シッシッと手を振った。
「…………」
致し方なく、ハルアキは座敷を出た。
だからと言って、帰る事も出来ない。カンヤの変化が解けたらと思うと、気が気ではない。ハルアキは廊下に腰を下ろし、頭を抱えた。
……どこかで、あの母親に同情していた。遊女に大切な息子を奪われた母親に代わり、静音から自白を引き出し、懲らしめられたらと思っていた。
ところがどうだ。真実は、運命に翻弄される哀れな遊女と、勝手に思い入れた挙句、無残な死を迎えた愚かな男の構図でしかない。
分かっていた筈だった。正義の裏は正義。悪の裏は、これまた悪であると。しかし、自分の価値観というものから、全く逃れられてはいなかった。
ハルアキは自分の見識の甘さを恥じた。
「……ハルアキ、おい、ハルアキ」
膝にポンと何かが乗った感触で、ハルアキは顔を上げた。
「……あやめ……?」
「幾度衣に隠れても気付かぬとは、不注意にも程があるぞ」
あやめの式札は、膝の上でくるりと回った。
「静か過ぎぬか?」
あやめはポンポンと飛び跳ねながら、耳を澄ませる素振りをした。
「…………」
部屋の中からは、話し声どころか、物音ひとつしない。
「男女の交わりというのは、このようなものではない」
「……なぜ知ってる?」
あやめは慌てた様子で咳払いした。
「と、とにかく、気にはならんか?」
あやめはハルアキの肩に跳んだ。
「私を召喚せい」
「……なんで?」
「式札は物質である故、人間に見える。しかし、式神なら、気付かれないで様子を見て来られる」
「…………」
「し、下心ではない!とにかく、様子がおかしいのじゃ!」
ハルアキは仕方なく、式札を指に挟み、フッと息を吹きかけてから廊下に投げた。
現れたあやめは、くるりと一回転して、忍び足で襖に顔を寄せた。
「…………」
一度、ハルアキの方を振り向いてから、そっと襖を引き、細い隙間から中へと消えた。
しかし、数瞬と待つ事はなかった。すぐさまタタッと走る音がして、バッと襖は開かれた。
「た、大変じゃ!カンヤが!」
ハルアキは座敷に飛び込んだ。
明かりの落ちた座敷の奥、寝所へ繋がる襖は開け放たれている。
その中を見て、ハルアキは硬直した。
艶めかしい色合いの布の上に、狸が倒れていた。ピクリとも動かない。
その傍らに、静音が立っていた。手にした煙管から、白煙が立ち上る。
「おかしな奴だとは思ったが、まさか、狸とはね。おかげで、目玉を取り損ねたよ」
煙管と反対側の手に、出刃包丁が握られていた。……刃には、赤い雫が滴っている。
「おまえ……」
ハルアキは身構えた。
「代わりに、あんたのを貰うよ。──よく見ると、綺麗な目をしてるじゃないか。聞かん坊の挑発的な目、嫌いじゃないよ」
静音の周囲に漂う煙が動いた。渦を巻き、静音の身体にするすると巻き付く。そして、動きを止めた。
──それは、竜だった。
白い竜は、鎌首をもたげて、鋭く光る目でハルアキを見下ろした。
「大人しく渡して貰おうか」
竜は鋭く牙を剥いた。