拾ノ巻──幸運の加護
千代の言葉を聞いて、あやめは声を上げそうになった。慌てて口元を押さえ、声を呑み込む。
「……嘘」
しかし、伽弥乃は毅然と反論した。
「あいつが自分から死ぬ訳ないわ。私はあいつの事を昔から知ってる。どんなに屈辱に塗れたって、あいつの心は折れる事はないわ」
「なら、証拠を見せよう」
千代は、手にした白い布を広げた。──それは、ハルアキの狩衣の片袖だった。白地を、血飛沫が赤く染め上げている。
流石に伽弥乃も息を呑んだ。
「不徳にも、コノエ様に勝負を挑んだ者の哀れな末路だ。言わば、神罰だ。──おまえも、不埒な振る舞いをすれば、この様にならぬとは限らぬ。立場を弁えよ」
「……見せて」
伽弥乃は手を差し出した。反応に戸惑う千代に、もう一度、ゆっくりと反芻する。
「その袖、私に見せて」
そして、半ば奪うように血染めの袖を手に取った。両手に広げ、布地をじっくりと見つめる。
「…………」
あやめは気が気でなかった。自分が離れている間に、ハルアキが命を失ったとあれば、後悔しないで居られる筈がない。何より、クズハにどう伝えるべきか。暗い思考がぐるぐると脳内を巡る。
しかし、それを断ち切るように、伽弥乃はきっぱりと言った。
「これ、染料ね。茜じゃないかしら。──ほら、よく見て。ここ。血液って、よく見ると粒子なの。だから、こんなに均一に染まる筈がないわ。それに、鉄を含むから、空気に触れると黒っぽく変色するの。だから、これは血液じゃなく、染料よ。つまり──」
伽弥乃は千代に顔を向けて首を傾げた。
「あなたは、私を騙そうとしてこれを見せた。つまり、ハルアキが死んだというのは、嘘。
……何でそんな嘘を吐くの?」
あやめは驚いた。絡繰を設計し、扱うには、様々な知識が必要であり、伽弥乃はそれを会得するだけの優れた頭脳を持っているだろうとは思っていた。しかし、この様な場面で冷静に判断するとは、並の神経ではない。
明らかに、千代は狼狽えた。
「ねぇ、ハルアキをどこに連れて行ったの?」
「…………」
千代は、伽弥乃に刺のある視線を送ったまま動かない。
伽弥乃は諦めたように千代の前を離れ、傀王丸の頭をポンと叩いた。
「ハルアキを探しに行くわよ」
傀王丸の目が金色に光った。そして、腕を一振りして、壁を破壊する。
「や、やめろ!」
千代は慌てるが、先程痛い目を見た記憶が行動を躊躇させたようだ。傀王丸は広がった穴からあっさりと抜け出し、身を起こした。そして、伽弥乃を軽々と担いで立ち上がる。
伽弥乃は千代にペロリと舌を出した。
「べー」
傀王丸はくるりと壁を向き、腕を払う。すると、壁は完全に崩れ落ち、整備された庭園が一望できるようになった。
「……追え!追うのだ!」
千代は叫んだ。だが、傀王丸の怪力を間近に見て、敢えてそれに挑もうとする者はいない。
「獏!我々も行くのじゃ!」
あやめは獏の背に乗り、耳を引っ張った。獏はビクッと飛び上がって走り出す。式札の状態であるあやめは、ヒラヒラと風に靡かれながら、耳にしがみ付いた。
「おのれ、式神ごときが……」
背後で千代が唸るのが聞こえた。あやめは「べー」とする格好を返して、傀王丸を追った。
傀王丸には直ぐに追い付いた。獏は軽々と背中を駆け上がり、伽弥乃の反対側の肩に収まる。──伽弥乃は気付いていない。肩に腰を預け、風に髪を泳がせながら、ニコリと傀王丸に話し掛けた。
「舶来品の賢者の石ってのを使ってみたけど、なかなか良いみたいね」
──賢者の石。
ハルアキが西洋の魔術の本を読んでいる時に、傍らで見た事がある。錬金術師が魔術の技法で作る、とんでもない力を持つ魔具、という事は、あやめも知っていた。
「……恐ろしい動き方をすると思えば、道理で……」
つい独り言を呟くと、伽弥乃が「ん?」と反応した。
「傀王丸、喋れるようになったの?」
あやめは慌てた。式札の両手で口に当たる部分を押さえてみるが、時は既に遅い。油断したか、それとも、賢者の石の影響か……。
少し考えた末、あやめは伽弥乃の話に乗る事にした。
「そ、そうじゃ!賢者の石の力とは凄いのお!」
「何て素敵なの!傀王丸と話せるなんで、私、最高に嬉しいわ!」
伽弥乃はガタガタと揺れる頭に抱きついた。あやめは見つからないよう、そっと着物の隙間に身を隠した。
「と、ところで、ハルアキの居所を知っておるのか?」
だが、その質問には伽弥乃は首を横に振った。
「今は分からない。──あいつ、また私に何かしたでしょ?分かってるわ。自分の都合のいいように術を使って、私はいっつも置いてけぼり」
伽弥乃ははぁとため息を吐いた。
「でも、何か、見捨てられないんだよね。無鉄砲過ぎるから、放っておけないのよ」
「分かる、分かるぞ、その気持ち」
「……え?」
「い、いや、何でもない」
しかし……、と、あやめは腕を組んだ。
「居所が分からぬ者を、どうやって探せば良い?」
「それなら大丈夫。今から探すから」
伽弥乃は胸元から御守り袋を取り出した。
「こんな事もあろうかと、あいつにも渡したの」
言いながら取り出した中身は、勾玉の形をした、透き通る赤い石だった。
「あなたに使った賢者の石の余りよ。互いに呼び合うらしいから、身に付けていれば、どこに居るか教えてくれるわ」
そう言って、伽弥乃はそれを太陽にかざした。
「……多分、あっちの林の方ね。行きましょ、傀王丸」
「………」
ハルアキは目を覚ました。身体のあちこちが痛む。それもそのはず、ハルアキは極めて狭い空間に押し込められていた。
ガタガタと小刻みに揺れている。その度に、肩や腰が硬い壁に当たる。しかし暗くて、一寸先も見えないため、状況が分からない。
──どこなんだ、ここは?
ハルアキは、ここに来るまでの事を思い出そうと思考を巡らせた。
──倉。コノエとの勝負に敗れ、閉じ込められた。伽弥乃が寝ている。その横で感じた、違和感。視界の錯乱……。
恐らく、呪術か薬品か、何らかの手段を使って眠らされたのだろう。そして、小刻みな揺れ。桶のようなものに閉じ込められた上で、荷車か何かに乗せられて、どこかへ運ばれようとしている。
何のためか? 殺すつもりなら、このような手間をかけず、殺してから運んだ方が遥かに効率が良い。
ならば、どこかに隠すため。しかし、既に倉に閉じ込められていた。なぜ、移動させる必要がある?
最後に思い付いた案に、ハルアキは得心した。
──誰かに引き会わせるため。
誰に?そう考えると、答えは幾つも無い。
──夜行。
金を得る事が目的ならば、伽弥乃の身を確保した以上、ハルアキに用はない。そこで、夜行への餌食に捧げる、と……。
「……こうしてはいられないな」
ハルアキは手を動かそうとした。だが、後ろ手に硬く縛られていて動かない。足も同様だ。
ならば──。
これだけ揺れるという事は、固定されてはいなさそうだ。それなら……。
ハルアキは上体を大きく揺らして、壁に体当たりした。グラッと足下も揺れる。──やはり。
次は、荷車の揺れに合わせて、思い切り体をぶつけた。すると、足下が浮き上がった。横へ倒れる感覚に身を任せる。
──ゴン!
肩に衝撃が走る。荷車から落ちたのだろう。……と、そこまでは想定内だった。
しかし、想定外は、その場所が坂道だっという事だ。
「…………」
やはり、入れられていたのは桶のようだ。つまり、丸い。
徐々に回転速度を上げていくそれを、中に居るハルアキには止めようが無かった。
「止めろ!」
「追え!」
叫び声と足音がする。しかし、それはすぐに聞こえなくなった。
激しい回転に脳内を掻き回され、平衡感覚が喪失する。小石にぶつかる度に跳ね、地面に衝突する度に、肩に、腰に、容赦なく痛みが走る。
──さすがにまずい。
ハルアキは頭を上部に押し付けた。蓋が外れればと考えたのだが、釘打ちでもしてあるのか、ビクともしない。
万事休す。
何かにぶつかるか、崖から落ちるか。とにかく、自分の命はあと僅かだと悟った。その間、激しい回転の気分の悪さに耐えなければならない。ハルアキは目を閉じた。
──その時。
すぐ隣を滑るような音がした。次の瞬間、回転は止まり、ふわりと浮き上がる感覚がした。
「…………?」
何が起きたのか分からない。とりあえず、今のハルアキに出来る事は、耳を澄ませて様子を探る事だけだ。
「……間に合って良かった」
──聞き覚えのある声だ。伽弥乃に間違いない。
「た、助かった……」
……今のは、あやめだ。なぜ、伽弥乃と一緒に居る?
「あと一歩遅かったら、崖から真っ逆さまだったぞ」
「傀王丸、よくやったわ!」
話を聞いたハルアキは青くなった。
「……おまえ、どうやって逃げ出した?」
別の女の声がした。
「逃げてなんかないわ。出てきただけよ。──それより……」
軽く桶をポンと叩く感触があった。
「彼よね?分かってるわ。どうする気だったの?」
「あんたなんかに話す必要はないわ」
「……口の聞き方を教えてあげた方がいいのかしら?」
本人不在で、女同士の熾烈な舌戦が繰り広げられそうなのは分かった。身体が痛い不快感に、それを端で聞かなければならない居心地の悪さが重なり、ハルアキは意を決して声を上げた。
「……とにかく、ここから出してくれないか?」
──バリッ。
傀王丸の鋼鉄の指が、桶の蓋を引き剥がした。その勢いで、桶の箍が外れてバラバラになる。
「うわっ!」
ハルアキは地面に強かに落とされた。
「──ッ!」
身を起こしながら、足元の木片を見た。形状、大きさから、恐らく棺桶だ。
「趣味が悪すぎるぞ」
しかし、そんなハルアキに気を配る様子もなく、舌戦の火蓋は切って落とされていた。
「ハルアキが負けたとか、さっきの人が言ってたけど、それなら何で、勝った方がこんなコソコソやってるの?」
「あんた達が負けた事に違いはないわ。あとは、こちらがどうしようが勝手でしょ」
相手は、まだ子供だ。団子に束ねた頭はまだ幼い。しかし、前垂れに太極印を施した狩衣、そして背に負った大きな瓢箪が、ただの童女ではない印象を強く与える。
だが、伽弥乃は子供に対しても容赦はない。腕組みして睨み下ろす。
「そうはいかないわよ。賭けたのは、私の財産だけ。ハルアキの身柄を任せたつもりはないわ」
熱い視線が交差して、火花を散らしている。ハルアキは目眩がした。
「……ハルアキ、ハルアキ」
傀王丸から、小声で呼びかけるあやめの声がした。しかし、姿が見えない。
「ここじゃ、ここじゃ」
肩先で紙切れがチラチラと揺れている。……なるほど、あやめが傀王丸を操って、伽弥乃を助け出したのか。
ハルアキは一歩、傀王丸に近寄った。
「早う私を召喚するのじゃ」
「……待て、余計に話がややこしくなる」
「そんな事を言っている場合か!あの子供は陰陽師じゃ。何をされるか分からぬぞ」
「ほぅ……」
同業が相手側に居た──。これで、全て得心した。
「それより、先に縄を解いてくれ」
伽弥乃と幼い陰陽師の舌戦は、留まることを知らない。荷車を引いてきただろう人足たちも、遠巻きに恐る恐るの体で眺めている。
ただの口喧嘩に成り下がった頃、ハルアキはようやく縄から解放された。
「五月蝿くてかなわぬ。早く何とかせい」
あやめに急かされ、やれやれとハルアキは立ち上がった。
「まぁ、二人とも落ち着いて……」
しかし、返って来たのは、闘志に沸き立つ鋭い声だった。
「黙ってて!」
ハルアキは首を竦めた。だが、引き下がる訳にもいかない。ハルアキは派手に咳払いをして注意を集めた。
「……ひとつ訂正したい。私は、負けてなどいない」
すると、童女はハルアキをキッと睨んだ。
「先程、コノエ様に平伏していたじゃないか」
「つまり、おまえもあの場に居たのだな?」
童女は、なぜか一瞬、返答に詰まる様子を見せた。
「……あぁ、確かに、あの場に居た。──それがどうかしたのか?」
ハルアキはニヤリと腕組みをした。
「認めるんだな、あの奇術は、全ておまえが仕組んだものだと」
「……な、なぜそうなる!?」
「私が式神を見抜けなかったからだ」
童女は狼狽えて一歩退がった。──鎌をかけたつもりが、見事に的中したようだ。
「あの時、台の上に居たのは、おまえが操る式神だった。台の下に植えた梛の種。あれが式神の召喚範囲の結界だったんだ。
そして、私に見抜かれぬよう、練丹術を使った」
「練丹術?」
伽弥乃が首を傾げた。
「西洋で言うところの、錬金術に近い。だが、練丹術は金を作り出す事を目的にする訳じゃない。仙丹、つまり、不老不死の薬を作り出す技術だ」
ハルアキは、童女の背負った瓢箪を指した。
「それは、練丹術で使う道具。材料となる獲物を安全に捕獲するための、紅葫蘆だろう」
「…………」
童女は、ハルアキを睨みながら瓢箪の栓を抜く素振りを見せた。
「無駄だよ。──七宝!」
式札が風に舞う。
「待ってたわよ、ご主人様ぁ!」
背負った瓢箪の背後に、狗の耳のある女が現れた。
「そうはさせないんだからっ!」
七宝の手毬から放たれる糸が、童女の身体に巻き付き、手の自由を奪った。
ハルアキは目を細めた。
「最後まで話を聞いてくれないか?
練丹術を会得する過程で、不老不死ばかりではない、様々な薬品についても学ぶ。そのひとつに、相手の思考力を弱めるものがある。それを、粉末状にして散布した。村人たちを陥れるのに、常套していた手段だろう。それをバレないようにするために、わざと、朝霧の立つ、あの時間を選んだ」
「…………」
童女は、険しい目で睨み返すだけで、反論はしない。ハルアキは続けた。
「その上で、コノエそっくりに化かした式神を使った。──狐か狸を使えば、簡単な事だ。
しかし、すっかり騙されたよ」
ハルアキは顎を撫でた。
「で、絶望した私を倉に戻してから、同じ方法で眠らせて、棺桶に閉じ込めて連れ出した。
──問題は、なぜ、このような手間をかけたのか。それは、コノエに気付かれずに、私を連れ出すため。……そうだろ?」
童女はキッとハルアキを睨んだ。
「おのれ!!」
僅かに動く指先から、式札が放たれる。しかし、ハルアキの方が早かった。
「烏天狗!」
式札を投げる所作と、烏天狗の振る刃が重なった。童女の式札は、姿を見せる前に両断された。
「無駄だと言っただろ?」
ハルアキは童女に歩み寄り、式札を額に当てた。
「おまえは、何者かの意に沿って、コノエに近付き、私を罠にかけた。コノエに伽弥乃の財産をチラつかせる事で、私をおびき寄せたんだ。
──おまえ、一体何者だ?」
ハルアキは、怯えた様子の童女に顔を近付けた。
「練丹術をあそこまで使いこなせるとは、只者ではない。見た目の年齢は嘘だろう?不老不死とはいかないまでも、若返りの薬は使っている筈だ。本当の年齢は、数百歳。──もう、人間ではない」
ハルアキの紫がかった瞳に、氷柱のような鋭さが増す。
「しかし、その薬は失敗作だった。なぜなら、見た目だけでなく、精神年齢までも若返ってしまったから。あんな単純な誘導に掛かるとは。修行し直した方がいい」
「…………」
「──おまえの本当の主人は、夜行、だな?」
童女は諦めたように、首をコクリと落とした。
「しかし、あたいの正体を見抜いたとしても、コノエに勝った事にはならないよ。まだ、千代がついている」
そう言って、童女はキッと目を上げた。──次の瞬間。
握り締めた童女の手から、煙が立ち上った。……いや、童女の手が煙へと変化していく。
「何!?」
童女の姿は、瞬く間に霧散し、七宝の戒めがバサリと地面に落ちた。そして、煙は風と共に跡形も無く消え去った。
「…………」
さすがに、ハルアキも呆然と立ち竦んだ。恐らく、手に隠し持っていた霊薬を使ったのだろう。それにしても、ここまでの使い手だったとは……。
「また、必ず相見えよう」
風に乗って、どこからともなく声がした。
「我が名はツユハナ。覚えておけ……」
そして、一切の気配は消え去った。
「…………」
静寂に包まれた峠道に、ハルアキと伽弥乃、傀王丸、それに、腰を抜かした人足達が残された。
「……ね、ねぇ、」
伽弥乃の声が震えている。当然だ、目の前で人がひとり、跡形もなく姿を消したのだ。
「──その、頭に耳がある人、誰?」
しかし、伽弥乃の目は、ハルアキの傍らに寄り添う七宝に向けられていた。──人足達の様子を見ても、気付いている様子はない。……なぜ、伽弥乃には見えている?
「私は七宝。ハルアキ様の忠実な番犬よっ!」
ハルアキに腕を絡ませる七宝を見て、伽弥乃の表情が険しくなるのが分かった。
「…………」
ハルアキは溜息を吐いた。