壱ノ巻──便利屋稼業
──丑三つ時。
京の通りに、動くものはひとつとしてない。草木も眠るとはこの事で、風のざわめきすらも眠りに付いた静寂を、白い三日月が、ただ閑かに照らしていた。
その中に、じっと佇む影があった。狩衣姿のその男は、星を眺めていた。漆黒の繻子に散らした金粉のような星々の並びに法則がある事を、男は知っていた。それから読み取れる事象のうち、男は「時刻」を読んでいた。
「……そろそろ、だな」
「しかし、ハルアキ」
どこかで童女の声がした。この男の他に人影はない。しかし、不可解に思う様子もなく男は答えた。
「何だ?あやめ」
「かように静かなのに、まことに出るのか?」
「確かに、静かに過ぎるな。だがそれは、他の者たちがその存在を警戒して身を潜めている証拠だ。──つまり、それは、存在する」
男──ハルアキは袖に手を入れ、白い紙切れを取り出した。人形のような、鳥のような形に折られている。
それを二本の指に挟んで、顔の前に持ってくる。それに、フッと息を吹き掛けた。
細い指はそれを宙へ投げた。くるくると回転しながら、紙人形は低い位置を漂い、ふと、煙のように消えた。
──そして、その後に童女が現れた。童女は紙人形と同じように、鮮やかな色の袖を広げてくるりと回ると、ハルアキの方を向いて止まった。
童女に、ハルアキは問いかけた。
「感じないか?あやめ」
「あたいは座敷童だからね。屋敷の外には興味ないんだよ」
あやめと呼ばれた童女は、若干不機嫌そうに腕を組んだ。
「そう言いながら、いつもついて来るじゃないか」
「そなたが未熟者ゆえだ」
あやめはプイとそっぽを向いた。その横顔にチラリと目を遣り、ハルアキは耳を澄ました。
──虫の声ひとつしない静寂が、心を逆撫でる。ぞわぞわと這い寄る胸騒ぎを振り払おうと、ハルアキは大きく息を吐いた。
……その吐音が消えないうちに、奇妙な音が聞こえ始めた。
──ヒョー、ヒョー……。
全て死に絶えた暗闇の底で孤独を嘆くような寂しげな声。──木立の間に黒く潜む薮の方から聞こえる。
「……な、な、なんだ!?」
あやめは慌ててハルアキの背後に隠れた。
「鵺、だな」
「……ヌエ?」
「夜中に不吉な声で鳴く妖怪だよ。
──この屋敷のご主人からの依頼で、気味が悪くて眠れない、一家揃って寝不足で困っているから、退治して欲しい、と頼まれたんだ」
あやめは首を竦めて狩衣の裾をつかんだ。
「ど、どんな奴なんじゃ?」
「さあ?私も見た事はない」
「その様で、どのように退治するのじゃ?」
「分からない。やってみれば何とかなるさ」
ハルアキはあやめを見下ろしてニンマリとした。
「何せ、宮中を相手に商いをしてる大店だぜ。──断る理由がないだろ」
あやめは溜息を吐いた。
「これだから貧乏人は……」
「まあ、そう言うなよ。──行こうか」
ハルアキは薮に向かい歩を進めた。慌ててあやめもついて来る。
「──さあ、妖演舞の開演だ」
✼••┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈••✼
ハルアキは、代々、宮中で天文博士を任じられてきた名家の嫡子である。
しかし、若くして父がこの世を去り、職を失った一家は没落し、日々の生活にも困窮するほどとなった。
幼いハルアキを育てるため、母であるクズハは、粉骨砕身の苦労をしてきた。
──それを間近に見ているため、ハルアキは物心ついた頃から、母を助けるために、便利屋の真似事を始めた。
幼い頃から、ハルアキには不思議な能力があった。
──この世ならざぬ者と会話ができる。
なぜ、そのような能力が身に付いたのかは分からない。しかし、それを生かさない術はなかった。
近くに住む千里眼の術士の元で修行をし、陰陽道を学んだ。
──陰陽道。
光には必ず影があり、善と同時に悪も存在する。
森羅万象全て、この法則の上に成り立っている──。
栄華の頂点から一転、地獄の底へ突き落とされた経験は、ハルアキに陰陽道を身をもって学ばせていた。
綿が水を吸うように、陰陽道の極意を身に付けたハルアキは、元来の霊能力と合わせ、「式神」という妖魔を、式札として紙人形に封じ、それを使役する術を会得した。
それを武器に、ハルアキは「この世ならざぬ者」が起こす怪異を解決する「便利屋」を成功させ、知る人ぞ知る存在として、名を馳せていた。
──しかし、母・クズハは、それを快く思っていなかった。怪異には、必ず「悪意」が共存する。その悪意により、息子の身が危険に晒される事を、常に案じていた。
だが当の息子は、自らの能力に自負を持ち、母の心配をよそに、どんどん力を付けていく。
そんなクズハの心労を案じて、昔から家に棲み憑いてている座敷童・あやめが、ハルアキの監視係に名乗り出た。
座敷童は、従来、屋敷の外には出ないものだが、ハルアキの術を使い、式神として、常にその身辺に付いて回っていた。
✼••┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈••✼
「……ヌ、ヌエなど、おらぬではないか」
あやめがハルアキの背後から、恐る恐る首を伸ばす。
「怖かったら帰ればいい」
「……いや、そなたに万一の事があれば、骨を拾わなくてはならぬからな……」
引くに引けないあやめは、だがハルアキの背にくっついて離れない。──これでは、動くに動けない。
「仕方ないなぁ……」
ハルアキは、袖からもう一枚、紙人形を取り出した。
「頼んだよ、──七宝」
宙に舞った紙人形は、白衣緋袴を身に着けた、狗の顔をした少女に姿を変えた。
「ご主人様ぁ、お呼びですかぁ?」
「………」
ハルアキの背後で、不穏な空気が立ち上った。
「言葉遣いに気を付けるのじゃ、七宝」
「なんだぁ、あやめちゃんも居たの?隠れてるから気付かなかったぁ」
七宝は頭の上に並んだ三角の耳をピクリと動かした。
「か、隠れてなどおらぬ!怖くなど、ないのじゃからな……!」
「まあまあまあ」
ハルアキは間に入って両手を振った。
「今は喧嘩をしてる場合じゃ……」
──その時。
薮から黒い影が飛び出した。四つの足を構えたそれは、頭を下げて警戒しながら、ゆっくりと朧気な月光の中に姿を現す。
「………」
──猿に似た赤ら顔に白い鬣、虎のような模様のある肢体に、蛇頭の尾。……明らかに、この世のものでは無い。
「……騒ぎを聞いて、向こうから出てきたようだ」
ヒョー……。
鵺は、招かざる訪問者を睨み据えて一声鳴いた。
──途端に、七宝とあやめの態度が変わった。
七宝は、七色の紐が飾られた手毬を手にし、あやめは身を低くして手刀を構える。
「飛んで火に入る夏の虫とは……」
「おぬしの事じゃ!」
二つの影が跳んだ。先を争うように鵺に立ち向かう。
手毬が飛ぶ。鵺はヒョイとそれを避けた。──その首元に、あやめの手刀が振り下ろされる。
「どりゃーっ!!」
ドスッと音を立てて、鵺は地面に叩き付けられた。
「これで終わりよっ!」
七宝の手毬が弧を描いて舞った。七色の紐がぐるぐると鵺の躰に巻き付く。雁字搦めにされた鵺は、恨めしい目をハルアキに向けた。
「……こやつをどうする気じゃ?」
あやめは少し離れて鵺を見ている。七宝は恐れる事なく爪先で鵺をつついた。
「どのように始末する?」
「殺しはしないよ」
ハルアキは鵺を見下ろした。
「妖怪は、死んでも屍を残さない。
前に、それで仕事を疑われて、代金を取り損ねた事がある。生け捕りできたなら完璧だ」
そう言って、捕縛した紐を確認する。
「これだけしっかり縛ってあれば大丈夫だろう。──夜明けまではまだ長い。一度、家に帰ってひと眠りしよう……」
ハルアキは大きく口を開けて欠伸をする。
「本当に大丈夫か?慢心は油断じゃ」
「大丈夫大丈夫……」
不安そうなあやめに背を向けて、ハルアキは歩き出した。
「ご主人様っ、私も一緒に寝るっ!」
ハルアキの腕に七宝が手を絡める。それを見て、あやめも走り出した。
「七宝!身分を弁えよ!」
──その背後で、影が蠢いた。
「……ヒュウウ……」
怒気を含んだ風のような音がして、ハルアキは足を止めた。
そして振り向いた瞬間。
「───!!」
稲妻が迸った。光の刃がハルアキの頬を掠める。
「ご主人様!!」
七宝がハルアキの前に立ちはだかった。稲妻が真っ直ぐに七宝を狙い撃つ。
「キャッ!!」
七宝の姿が消えた。代わりに、焼け焦げた紙人形が宙を舞った。
……その向こうで、鵺が立ち上がり、不気味に光る目でこちらを睨んでいた。足元に、焼き切られた手毬が転がっている。
「全然大丈夫ではないではないか!」
あやめがハルアキを庇い構える。ハルアキは苦い顔をした。
「……雷獣という別名がある事を知ってはいたが、このような能力があるとは……」
「呑気に感心している場合か!」
稲妻と共に鵺が飛びかかってくる。ハルアキは式札を投げた。
「窮奇!」
紙人形の式札は、鵺の前で翼を持つ虎の姿に変化した。
「グアアア──!」
雄叫びを上げて、窮奇は鋭い爪を鵺に向けた。赤い顔を爪が抉る。鵺は悲鳴を上げて飛び退った。
窮奇の躯体が宙を飛ぶ。だが、鵺は爪を避け、蛇頭の尾で反撃に出る。
「───!」
蛇頭は窮奇の首に巻き付く。爪を立てもがくも、鱗がそれを防御する。その尾に、雷撃が迸った。
「まずいぞ!」
「分かってる」
窮奇の姿が消え、紙人形が燃え尽きると同時に、ハルアキは次なる式札を飛ばした。
「蛇には蛇だ。──やとのかみ!」
式札は妖獣の上で角のある蛇に姿を変え、覆い被さった。鵺の躯体に長い躰を巻き付け、締め上げる。
「ヒィイイイ……」
風が唸るような悲鳴を鵺が上げた。
「……ルサ……ナイ……ユルサ……ナイ……」
稲妻が鵺の躰を覆う。しかし、やとのかみを覆う堅い鱗を傷付ける事は叶わない。更に強く戒められ、鵺は苦悶した。
「やとのかみは元々水神だ。その鱗は、雷を受け流す」
「なら、最初からこやつを出せば良かろうに」
「まあまあ」
ハルアキは前に出て鵺を見下ろした。
「……ユルサナイ……アイツヲ……ユルサナイ!!」
鵺の光る目がハルアキを刺す。……それに、深い悲しみを感じて、ハルアキは屈み込んだ。
「何が言いたい?なぜ、この屋敷に取り憑いたのだ?」
鵺は雷を収め、じっとハルアキを見上げた。
──その刹那、ハルアキの中に鵺の思考が入り込んできた。
……怒声。人間に対するとは思えない汚い言葉が、頭上に降り注ぐ。
「聞いてるのか、あぁ?」
強かに耳を蹴られ、為す術なく倒れる。──耳の奥が刺すように痛い。押さえた手を見ると、血に染まっている。
しかし、声の主は容赦がない。髪を掴んで頭を引き上げ、無事な方の耳のすぐ側から、怒声を脳内に流し込む。
──おまえはクズだ、生きている価値もない、働かぬ者は死ね、おまえはクズだ、生きている価値もない──
何度も呪詛のように繰り返される悪意は、彼の心を殺した。
全ての気力を無くし、痩せ衰えた体を横たえた上に、今度は棒が振り下ろされる。皮膚が破れ、肉は裂け、骨が砕ける。
動かなくなった彼を、声の主は部下に命じて、薮の中へ棄てた。
蟲に喰われ、躰が朽ち果てようとも、無念の思いだけは、決して消えなかった……。
──その後も、一瞬の間に溢れるように次々と感情が流れ込む。
逆さ吊りにされた苦悶、飢え乾く辛苦、自我を壊される恐怖……。
地獄のような、極限の絶望を幾重にも垣間見たハルアキは、気が遠くなった。──やとのかみが力を失くし、フッと消える。鵺は、宙を漂う紙人形を爪で引き裂いた。
「何をしておる!たわけが」
あやめが手刀を構える。しかし、怒り狂った鵺に体当たりを喰らって、紙人形へと姿を変えた。
「──ユルサナイ!!」
鵺がハルアキに伸し掛かる。鋭い牙が目前に迫る。
その赤い眼の前に、ハルアキは式札を掲げた。
「そなたの悲しみ、しかと受け取った。……だが、その悲しみは、終わらせなくてはならない」
式札は煙となり拡がる。それは瞬く間に姿を変え、人の形を成した。
「──朱莉」
ジリジリと退る鵺の前に、輝くように美しい女が現れた。
艶やかな装束を纏った踊り子は、鉄扇を舞わせる。幾枚もの刃が重なったそれは、鵺の躰を切り刻んだ。
……ヒョー……。
最期に一声を残して、鵺は、黒い煙となって闇に消えた。
「……未熟者めが」
身を起こしたハルアキの肩に、紙人形がトンと乗った。──あやめが入った式札だ。
「あれ程、油断は禁物じゃと言うたに」
「そう言うな、片付いたから良いじゃないか」
朱莉を式札に戻し、袖の中へ戻す。
「そなたは甘いのじゃ。……優し過ぎるのじゃ。
そのような心持ちでは、この稼業は勤まらぬぞ」
「はいはい、分かったよ」
ハルアキは不満げな紙人形を摘み上げて袖へ仕舞った。
空を見上げる。地平線を薄らと黎明がなぞっている。
「……やれやれ、寝そびれたか」
ハルアキは伸びをした。そして、妖怪の跡形もない庭を見渡した。
──今回も、骨折り損のくたびれ儲けだな。
予測しつつも、裏の雨戸を開け始めた使用人の元へと向かった。