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鈴虫とギターと親父

作者: 桐之霧ノ助

 バイト帰りで疲れた顔のままアパートに帰る。

 辺りは既に暗く、足元がおぼつかない。サビた螺旋階段が今にも壊れそうにミシミシと音を立てる。

 鍵を開ける手が疲れに震えて、二度鍵穴に鍵を通し損ねた。思い通りに動かない体に苛立ちを覚えた。

 ドアを開けると体がよろけた。今はシャワーや夜食はどうでも良い。早く布団の中に潜りたい。どうせ明日からは連休だ。昼まで寝れば疲れはどうにかなるだろう。

 ふと足元からチリリリリとひどく懐かしい音が鳴った。俺はしばらく立ち止まってその音色に耳を傾けた後、思い出したように足元を見た。


「鈴虫か。」


 黒い体。長い触覚。バッタの太い脚。ズボンの裾に張り付きながら羽を細かく揺らしていた。

 俺は躊躇なく羽の部分を指でつまむと、そっと持ち上げて手のひらの上に乗せる。

 昔は虫取りもよくしたものだった。大学に入って上京してからはこんな虫なんて見かけなくなってしまった。

 窓を開ける。ムワッとした気持ちの悪い風が顔に纏わりつく。

 鈴虫はピョンと跳ねると、羽ばたきながら物陰に消えていった。

 俺は思い出したように真っ暗な空を見上げた。綺麗だとニュースキャスターが言っていた中秋の名月はビルに隠れて見えなかった。

 俺は気が抜けたようにソファに腰を下ろした。


「帰るか。」


 せっかくの三連休、やることもなく過ごしてしまっては意味がない。お盆休みも結局帰らなかったので良い機会かもしれない。

 親父にメールで「明日帰る」と送ったところで力尽き、掛布団の上に倒れ込んで死んだように眠った。


 --------------------


 翌朝、新幹線を乗り継ぎながらアラームをかけて4時間ほどうたた寝し、ローカル線に乗り換えて2時間、バス待ちで1時間、さらにバスに乗って1時間。曲がりくねった山道でバスに振り回されながら、奥山の秘境のような場所にたどり着いた。


「毎度毎度、遠いんだよ。」


 独り言のようにボソリと呟いて、丘の上に立つ一軒の家を見つめた。

 古びた家だ。ところどころ塗装が剥げている。俺が子供の頃に剥がしたものだった。母さんによく怒られたのを覚えている。

 ポケットからアパートの鍵を取り出しかけて、少し赤面しながらインターホンを押す。

 中から出てきたのは白髪の入り混じった丸眼鏡の男だった。


「親父。」

「なんで帰ってきたんや。」

「俺の家だろうが。帰って来たくなったんだよ。」

「ふん。」


 眉間に皺を寄せながら奥に引っ込んでいった親父を尻目に、俺は家の中を見渡した。

 家を出てからもうすぐ4年にもなるのに、何も変わっていない。小判の取れた招き猫が目を細めながらこちらを見ていた。

 俺はいつものように仏間に入ると、座布団に正座した。


「ただいま、母さん。」


 チーンというお(りん)の音が畳に吸い込まれていく。

 小さく口の中で南無阿弥陀(なむあみだ)(ぶつ)と何度も唱えた。

 母さんは俺がちょうど高校に入ったころにガンで亡くなった。それからは親父と俺の二人で家の中をどうにか回していた。だが親父に八つ当たりすることも多くなり、遠くの大学に行って家を出た。

 そのころには親父は定年退職が決まっていた。だが俺が東京の大学に行くと言った時に、それを否定することはしなかった。というよりは、ほとんど腹を割って話さなかった。

 大学に行ってからは親父とは疎遠になっていた。仕方ないような気もする。


 外から夕陽が見えた。移動にかなりの時間を費やしてしまったらしい。

 俺はなんでこんなところに来てしまったのだろう。都会に嫌気がさしたからだろうか。それとも休日を無駄にしないようにと思ったのだろうか。

 どちらにせよ一時の衝動だったことには違いない。

 来なければ良かった。


 --------------------


「親父、今日の晩メシ、何作るつもりだよ。」

「今、考えとる。」

「どうせロクな料理してないんだろ?いいよ。俺が作る。」

「馬鹿言え。定年退職してからは作っとるわ。」


 俺はその言葉を聞きながら、つまらないローカル番組をぼうっと見ていた。新任のアナウンサーが面白くもないギャグを飛ばしながらグルメリポートしていた。スタジオは苦笑いし、俺は真顔でチャンネルを変えた。

 1時間ぐらい経っただろうか。ご飯の炊ける良い匂いがした。ゆっくり匂いを嗅ぐことなんて近頃はなかったかもしれない。忙しさに追われてそんなことに気を留める暇もなかった。

 親父が「出来たぞ」と一言、俺に声をかけた。

 席に座ると出てきたのは野菜炒めだった。何の変哲もない野菜炒めだった。


「いただきます。」


 箸をつける。味がしない。母さんの野菜炒めはもっと味が濃かった。この野菜炒めは塩コショウを気持ち程度に入れただけのような感じがした。


「親父。これ、味薄い。」

「そうか?」

「......やっぱり年取ると味覚が狂うって本当なんだな。」

「なんだと?」


 親父が俺を睨んだ。いつも眉間に皺を寄せているので睨んでいるのか良く分からないが、語気が強まった気がする。

 俺はその場に居ずらくなって箸を置いた。


「こんなまずい飯食えるかよ。」


 部屋を出て行こうとしたら後ろから声をかけられた。


「お前の部屋を使え。今は使ってない。」

「......分かってる!」


 俺の態度に微動だにもしない親父に腹が立った。いつもこうだった。俺が大学に行くと言った時も怒られると思ったのに何も言われなかった。

 母さんが死んでから家計を管理していたのは俺だった。だからうちがどれだけ困窮しているか良く分かっている。

 暖簾に腕押し、そんな感じだった。それがひどく嫌で仕方がない。


 自室は何も変わっていなかった。本当に何も。まるでそこだけ時が止まっていたかのように。

 削りカスが半分溜まった鉛筆削り、シミの付いたままの布団、そして――


「ギター......ねぇ。」


 埃をかぶったギター。中学を卒業してから使っていない。

 持ち上げて埃を払う。少し音は悪いが出ないことはない。本当に音が悪い。放っておいて申し訳ない気持ちになった。

 俺は縁側にギターを持ち出した。

 縁側では鈴虫が泣いていた。他にもコオロギやキリギリスの声も聞こえた。伴奏も無いのにこんなに大合唱するなんて。

 ポロロン。少し音のハズレたギターの音色。妙に懐かしい。


 中学の時、バンドを組んでいた。中学をやめると同時にバンドは解散した。母さんが死んだので俺が落ち込んでいて気まずくなったのも原因の一つだった。

 昔、文化祭の前のこの時期にここでギターの練習をしていた。母さんが時期が過ぎたトウモロコシをゆでて持ってきてくれていたのを思い出す。

 その時に歌っていた音色を思い出す。ギターの運指は指が覚えていた。音は随分と変わっていたけれど。


「久しぶりやな。お前がそれ弾くんわ。」

「親父......」


 親父がこれを聞きに来たのは初めてだった。

 中学の頃も不自然なまでに俺のことを聞こうとしなかった。


「なかなか上手いやないか。」

「大分音が外れてる。上手いもクソもあったもんじゃない。」

「どれ、歌でもつけてやろうか。」

「親父、歌下手だろうが。」

「馬鹿言え。」


 親父、なんでそんなに今日は絡むんだよ。そう言おうとして言葉が喉を通らなかった。

 親父は俺を気遣っているのだ。いきなり戻って来るなんてそうとしか考えられないと思われている。

 不器用だな。

 考えてみれば昔もそうだったじゃないか。気遣いが分かりにくすぎるんだよ。

 俺はクスりと笑った。


 親父が真面目そうな顔をしながら横に座った。

 なんかコントみたいな会話だなと思いながら話していた。


「秋の夜の、昔懐かし、ギターの() 虫より他に、聞く人も無し ってな。」

「それは(うた)だけど、違うだろ。」


 こんなに親父と話すのは久しぶりだった。結構上手い短歌を聞かされて乾いた笑いが漏れる。


「川柳なんかやってるのか。」

「ああ、暇やからな。定年退職してやることもなくなった親父の末路や。」

「なんだそれ。」


 なんだか親父が気さくになった気がする。ギターの音色のおかげだろうか。お酒で勢いがつくというアレかもしれない。


「再就職が決まった。」

「え?」

「昔、部下だった奴に誘われたんや。やっぱり部下には優しくしとくもんやな。」

「親父が優しくとか理解出来んわ。」

「馬鹿言え。」

「仕事で追われてまた堅物になるなよ。」

「......分かっちょる」


 なんだかこれまでのわだかまりが少しずつほどけていく気がした。

 心の奥があったかくなる。だが、まだ少し気まずい。


「明日は俺が飯作るよ。」

「......ああ、頼む。」


 俺はフッと頬を緩める親父を見て、帰ってきてよかったと初めて感じた。

 まだまだ時間はある。

 ゆっくりと打ち解けていこう。

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